椿陽美編④
椿陽美先輩のストーリーの中で、週末を利用してアウトドアデートへとやってきた俺は、日曜日の穏やかな空気の中で目を覚ました。
寝たといっても、現実世界のそれとは違って感覚としても実際の時間としても本当に一瞬だ。だから実際は睡眠ではなく、寝転がって目を閉じると場面が切り替わる、というほうがニュアンスとしては近いのかもしれない。
テントの中にも春らしい暖かな光がわずかに注がれていて、なんとも二度寝したくなるような心地よさである。
「霧島様、朝食が用意できております」
「あ、ふぁ~い」
メイドさんの言葉に、間抜けな欠伸をしながら着替えを済ませてゆっくりとテントから出ると、メイドさんのひとりが木製の桶を持って立っていた。
「お食事前に洗面なさってください」
桶の中のぬるま湯で何回か顔を洗って渡されたタオルで顔と手を拭く。
さすが金持ちというだけあってタオルの生地も非常に肌触りがいい。
この陽美先輩のストーリーが終われば、ひとまずのクリアを迎えられる。そうすれば小春を飲み込もうとしている負の感情を食い止めることができるかもしれない。
本当なら小春に何も問題が起こらず、もうすぐ終わってしまうストーリーを思い返して感動したりしたいものだ。
しかし、そんなのはただの理想であり、妄想でしかない。
守ってくれるはずのプログラマーにまで半ば見捨てられてしまったような彼女のそばにいて支えられる人間は、もう俺しかいないのだから。
だから陽美先輩には悪いがストーリーの攻略を急がせてもらおう。
先輩の抱える問題も設定も障害も全て無視して最短ルートを駆け抜けるんだ。
「今朝は持ってきていたパンをフレンチトーストにいたしました」
アウトドアらしくないくらい上品な盛りつけをされたオシャレな料理。本来なら最高の味わいが広がるであろうそれも、今の俺にとってはただのパンだ。
さっさとバザーを成功させて、その後の先輩とのデートも終わらせたい。もう俺にはその目的と感情しかなかった。
「そんなに急いで食べなくてもお料理は逃げませんよ~」
「……はい」
それでもやはり食事を進める手は無意識的にいつもよりも早く動いてしまっている。
「先輩、そろそろ帰りませんか?」
「キャンプ、楽しくなかったですか~?」
「いえ、キャンプはスゲー楽しかったです。でも、どうしても他に用事があって……」
「そうですか~、では仕方ありませんね~」
先輩がベルで使用人を呼ぶと、俺のところに例の運転手さんがやってきた。
「お急ぎのご様子ですな。どうぞ、早く車へ」
「は、はい。先輩、こんな形で先に帰らせてもらってすいません! あと、ありがとうございます」
法定速度ギリギリまでスピードを出しながら不快感も恐怖感も感じさせない見事な安全運転で、俺の乗った高級車は椿邸へと帰ってきた。運転手さんがドアを開けてくれるのも待たずに車を飛び出し、屋敷の大きな扉を開け放つ。
「お帰りなさいませ、幸人様」
開け放った先に待機していてくれた愛しい美少女小春。
その姿を視界に捉えた瞬間、今までの焦りやら危機感やらが一気に消えて安堵だけが残る。
「デートで女性を置いたまま先に帰るなんて、普通なら最悪ですよ?」
「なら今は普通じゃないんだ」
「そんなに急いでストーリーを進めようとしないでください。平常ではないといってもせっかく自信を持って作ったストーリーなんですから」
「本当に大丈夫なのか?」
「……もう、心配性ですね。私のユーザー様は」
小春はどこか嬉しそうな、それでいてどこか哀しそうな表情で俺との距離を詰めると、触れるか触れないかくらいの軽さで俺の右頬に、その左手を添えた。
「私に負担をかけたくないと思ってくれるなら、どうか今まで通り、楽しくプレイしてください。それでもダメなときはちゃんとこうやって、幸人様の焦りも恐怖も不安もぜーんぶ消してあげますから」
触れた左手が温かい光を帯びると、小春を心配していた心の焦りやら不安やらが嘘のように小さくなっていくのを感じた。
「こんなこと、本当はダメなんですからね!」
そう柔らかく言いながら、小春はいつもの可愛い笑顔を俺に向けてくれたのであった。
「それじゃあ、バザー当日まで時間飛ばしますよ?」
「ああ」
「条件、忘れないでください。私のことは忘れて陽美さんに集中する。そして……」
「ああ、ちゃんと楽しむ。わかってるよ」
ストーリーを一気にバザー当日までスキップする代わりに小春が提示した条件はふたつ。
ちゃんと陽美先輩のことを考えて、今までの3人と同じようにヒロインとして扱う。
そして心から楽しむ。
このふたつだ。小春のおかげで楽しむことを思い出すことができた俺には当たり前すぎて簡単な条件だといえるだろう。
「それでは幸人様、ストーリークリアまで私は出てきません」
小春は優しく微笑みながら俺に手を振る。
「少しのお別れですが、どうか楽しんで。……いい恋愛を!」
小春の姿が消え、視界全てが光に覆われる。
光が消えた後に残っていたのは俺と、日付以外何も変わっていない俺の部屋だった。
バザーの会場は高校から少し離れたところにある大きめの広場だ。
入り口に近づくと陽美先輩と、生徒会長の伊藤聖月先輩が出迎えてくれた。
「さすがね。あなたたちふたりのおかげで出品数は過去最高よ。ご褒美に今日は仕事なし。ふたりで好きに回ってきなさい」
「ありがとうございます会長! それじゃあ先輩、一緒に行きましょうか?」
「そうですね~」
先輩は俺の隣をゆっくりと歩き始める。
絶対に楽しむんだ。このデートを。
「まずはどこ行きましょうか?」
「出店とか見てみませんか?」
このバザーは地域にとっても大きなイベントらしく、商店街主導のもと出店などもあり、食べ物などを売っている。
自分たちでほとんどの品物を集めたのだから大体の内容を把握している俺たちがバザーを楽しむにはまず食べ物だ。
「出店出店……」
出店を探しながら歩いていると前から知った顔が両手にたこ焼きやら焼き鳥やらを持って歩いてきた。
「紅音? それに七海も」
「幸人と副会長じゃない。見回りかなんか?」
「いや、出店探してて……どこにあるんだ?」
「うんとねー、あっちだよー!」
焼き鳥を豪快に頬張りながら七海が方角を示してくれる。先輩もそうだがせっかくお祭りのようなに賑わいだというのにヒロイン全員が制服というのが残念だ。本当に。
「そうそう、幸人たちもあとでちゃんとステージに来なさいよね!」
「え? ステージって?」
「ホント馬鹿ね。ステージと言ったらあたしが歌うに決まってんじゃない。夕方、日が落ちるくらいになったら来なさい。後悔はさせてあげないわよ!」
「ああ、きっと行くよ」
「そ、そう……絶対よ!」
言葉の通りの満面の笑顔は、浴衣なんてものがなくても十分にお祭りのような雰囲気を演出してくれた。
「先輩、何食べます?」
たどり着いた出店の並びにはお好み焼きやたこ焼き、焼きそばなどの定番フードからタコスなどの少し変わった出店まで色々な食べものが売られている。
「あら、陽美ちゃんまたデート? 若いわね~、はいこれ、タコス持ってって!」
そう言って上機嫌でタコス二人前を無料でくれるおばちゃん。あれ……このパターンってもしかして……。
「あらあら陽美ちゃん! お代なんていいからたこ焼き、持ってって!」
「陽美ちゃんこれ、たい焼き、ふたりで食べて!」
「ああ! 陽美ちゃんこれ、たこ焼き」
内容が変わっただけの完全なデジャブ!
出店の食べもののほとんどを無料でくれる商売っ気のまったくない商店街メンバーのおかげで、俺たちはまた田舎から帰ってきた人のような大量の荷物を抱えることになった。
「さすがにこんなには食べられませんよね……」
「それじゃあ~、ステージのほうに行きましょうか~」
「ステージに?」
「幸人さんのお友達の方と一緒に食べればいいかな~って」
「そうですね、じゃあステージのほうに行きましょうか」
「幸人さんは~、人の表情の変化に鋭いですよね~」
ステージまでの道中、相変わらずニコニコした笑顔を貼り付けている先輩が、歩きながらそんなことを言ってきた。
「お母様の仮面の笑顔もすぐに見抜けてましたし~、なにより……」
先輩が言葉を切った瞬間、お互いの声を聞き取るのも大変だったはずの喧噪が遠くなったように錯覚した。
「私の笑顔が本心じゃないことも、気づいてますよね~」
鋭いのはどっちだ、とでも言いたくなる。
先輩は多くの場合に完璧に近い作り笑顔を固定しているのだ。
当然のこととして偽りの感情と表情を貼り付けたまま、その日々のほとんどを過ごしているのだ。
同じように笑顔の仮面を着けた母親から、距離を置くためにも、上流階級のお嬢様という立場を生きるためにも、それはなくてはならないものなのかもしれない。
本当なら、俺が聞いてはいけない話で、踏み込んではいけない領域なのだ。
今までの俺ならそう結論づけて勝手に立ち止まっていただろう。
でも、変わった。
相手の心に踏み込んでも何かをしたいと思うことは、必ずしも正しいとはいえない。
でも、そうしなければ手に入らない、前に進めない人がいることを俺は知ったのだ。
「先輩は、本心から笑いたいと思いますか?」
「思いませんよ~」
先輩は否定した。
「きっと私はそう答えなきゃいけません~」
本心を偽ったことを感じさせる言葉。
「それが望まれている『私』だからです~」
ぽわぽわした性格でありながら隙がない。何も考えていないようで考えを巡らせる。何も見ていないようで全てを見ている。
確かに、俺の中の先輩のイメージはそんな完璧な人間だ。だからこそ本心が見えない。
それでもやはり、先輩は彼女の母親とは絶対的に違う部分がある。優しさがある。
彼女の母親は一流の狩人に違いない。自らが狩ると決めた獲物、利益になるものは全て狩り尽くす。そんな非情さがある。
でも先輩は違う。狩人のように育てられ、その技術も得てこそいるが、か弱い獲物まで徹底的に狩るような非情さが、先輩にはない。
「お母様もお父様も親戚も使用人たちまでみんな、この『私』を望んでいるんですよ~」
先輩は歩みを止める。
「幸人さんは~、どう思いますか~? こんな私のことを~」
そんなことを聞かれたが、俺は思ったことをそのまま言おうと思った。
「馬鹿馬鹿しいです」
そうはっきりと、笑い飛ばしてやった。
「そういう『完璧』な先輩を求めている人間しかいないと思いますか? ちゃんと全員にその問いはしたんですか? もちろん、そういう先輩を望んでる人は少なくないかもしれませんけど……」
そうだ。きっとあの狩人なら望んでいる。ではメイドさんたちは? 運転手さんは? この学校の生徒や紗雪や七海や紅音たちは? そしてなにより……。
「少なくとも俺は、なんの偽りもない『本物』の先輩と一緒にいたいと思ってます。俺の、他人の心を勝手に決め付けて、勝手に距離を置いて閉じこもるなんて、そんなの馬鹿じゃないですか!」
すれ違う人、追い越す人、出店の人、近くにいる人たちが何事かと視線を向けてくるのだって、今は気にならない。
そんなことを気にしてなどいられないほどとびきり上等な「本物」が、まっすぐ俺に向けられていたからだ。
「……うまく、笑えてますか?」
「はい……とても可愛く」
本心からの笑顔を浮かべる先輩は、他のヒロインたちに勝るとも劣らない完璧なヒロインだった。
「お祭りが終わるのって、寂しいですよね~」
「……先輩、もしかしてその話し方とキャラ自体は素なんですか?」
「ああ~、これですか~? そうですよ~?」
てっきりそれも本心を隠すための演技だと思っていたからかなりの驚きだ。
「小さいころから自分のペースで過ごしてきましたからね~」
祭りの後片付けを生徒会役員として主導している先輩の表情には、再び笑顔の仮面が戻っていた。
本人曰く「安心できますし~、恥ずかしいんです~」とのことで、少しずつ本心を表に出していくつもりらしい。
「副会長、撤収完了しました。向こうで会長がお待ちです」
他の役員についていくと、聖月会長を中心に生徒会役員が集合していた。
「来たわね、本イベント最大の功労者カップル」
すべての視線がこちらに注がれ、人数相応の拍手が送られてくる。
「……なんだ、ちゃんと笑えるじゃない」
会長のその小さな呟きは、祭りとともに拍手に消えていくのだった。
イベントも無事終了した帰り道、他の生徒会メンバーとも別れた俺と陽美先輩は、横浜の夜景の中を歩いていた。
「このあたりの夜景って、いつの季節に見ても変わらずきれいで好きなんですよね」
デートスポットに夜景が選ばれるのは。いつでも楽しめる幻想的な空間だからだと思った。
クリスマスなんかでイルミネーションでも催されていれば、その魅力もいくらか跳ね上がることくらいは経験のない俺でも想像は難しくない。
「イベント~、楽しかったですね~」
先輩はイベント終了後に商店街のおっちゃんから貰った大判焼きを控えめに食べながら俺の隣……ではなくその少し後ろを歩いてついてきていた。
「先輩って、何かと俺のこと気にしてくれますよね」
「そうですね~、最初は弟みたいな感じで見てました~」
「え? 先輩って弟さんいたんですか?」
「いませんよ~、いたらこんな感じかな~って思ったんです~」
なんとか話の流れや雰囲気を告白に持っていこうとするものの、どうしても雰囲気が穏やかで浮ついたものになってしまう。
これが先輩と俺の存在感……オーラの差だというのか!?
「ここ、特に綺麗ですよね~」
横浜みなとみらいは都会ならではの夜景が楽しめるデートスポットだ。いくつもの巨大商業施設が並び、それぞれの照明が機械とは思えない幻想的な夜景を作り出す。
その中でも海が見える場所は先輩の言う通り他とはレベルが違う。
波打つ水面に映し出される夜景と、港町特有の少し強めの海風。
決してそんな雰囲気に流されたわけではない。
しかし、気づけば俺と先輩は向き合っていた。
どちらが先に口を開くか、言葉を発するのかを競ってるようにも見える空白。
そんな沈黙を破ったのは、やはり先輩だった。
「幸人さん……私、幸人さんのことが……」
何を言おうとしているのか、このシチュエーションとタイミングで理解できないほど鈍感な主人公ではない。
緊張からいつもの伸びた話し方ではなくなっている先輩を改めて可愛いと思いつつ続きを待つと、頬を薄く染めて艶やかな唇が再び言葉を紡ぐ。
「幸人さんのことが……好――」
絞った声でも出すような言葉が、完全に紡がれることはなかった。
先輩の告白は遮られた。
ノイズの塊のような真っ黒な何かによって……。
「なんだよ……こいつ……!」
漆黒と言っていいほどの黒。
映像が乱れるときのそれがいくつも集まったような揺らめく影。
以前、俺が飲み込まれた小春の負の感情に似ている。
「幸人さんっ!」
俺と漆黒の間に立つのは小春ではなく紗雪だった。
「これは……小春さんの負の感情そのものです! もしも飲み込まれたらまた……」
紗雪は緊張した様子で漆黒を見据える。
「っ!」
揺らめいた影は一瞬にして広がった。
バケツの水でもひっくり返したように無差別に、まさに一瞬で。
綺麗な夜景も先輩も紗雪も……そして俺も。
少女たちは笑っていた。
皆で机を寄せあい、一人の男子生徒のほとんどを囲むようにして弁当を食べていた。
ある少女は暖かな春の風のように男子生徒の言葉に頷き。
またある少女はすべてを照らす夏の明るい太陽のようにその場の全員に活気を与える。
また別の少女は、少し冷たい秋の風のように男子生徒をからかい、それでも優しく笑う。
そしてそんな奔放な少女たちを、雪のように無垢な少女が宥め、男子生徒の世話を甲斐甲斐しく焼く。
そんな今まであった、そしてこれからもあるだろう世界に、彼女はいない。
悪戯好きで、冷たくて暖かい。どんな時でもそばにいてくれたはずの少女はその世界にいなかった。
四人の少女の相手に楽しげで忙しそうな男子生徒は、最も大切なはずのその少女のことなどすっかり忘れてしまっているようにも見える。
腹が立つ。
今すぐ殴り飛ばしてその少女のことを思い出させてやりたい。
「あぁ……そうか」
思わず、声となって漏れていた。
「これが俺のしてきたことなんだな……」
相手が気持ちを知っているかどうか、誰を本当に愛しているかなんて関係なく、嫉妬は蝕む。
人間だってそうだ。
強い嫉妬は人を狂わせ、簡単に道を外させる。
俺がその少女に対してしてきたことはそんな程度ではない。
気持ちを知らなかった時に別の少女と結ばれ、自分の気持ちになんとなく気付きながらもそんなはずはないとまた別の少女に意識が向く。
そして少女の気持ちを知ってもなお、別の少女に意識を向けている。
例えそれが少女自身が望み、そうさせたとしても……。
心を完全に掌握できるほど、彼女は機械でもなく、それを割りきれるほど人間でもないのだから。
「――――ん!」
声が、遠くで聞こえる。
「――きとさん!」
聞いたことのある声だ。
「幸人さん!」
「紗……雪?」
「よかった……本当によかったです!」
冷たくて硬い地面に寝転がっている俺の両肩を掴みながら涙を流す彼女の無事にひとまず安堵する。
場所は先輩から告白されている最中だった場所。
例のノイズの気配も今はなく、この場には綺麗な夜景と、俺と紗雪だけが残っていた。
「先輩の告白が引き金になったか……」
「はい」
「小春は!? 小春は大丈夫なのか!?」
「大丈夫です……今のところは」
「今、あいつはどうしてる?」
「自分の感情ごと、ほとんどの機能を休止させてシステムの奥で眠っています」
「でもそれだって……」
理論上の話ではないのか。
たとえ活動を止めても、完全に止まらないのが感情ではないのか。
「だから幸人さん、ストーリーを終わらせてください」
「結局、そこに戻ってくるのか……」
「残りのストーリーは私が制御します。どうか……お願いします!」
変わった景色は外国の洋館。
その前に広がる大きな庭と咲き誇る桜。
そして、目の前に紗雪の姿はなく、陽美先輩だけがそこにいた。
「幸人さん~、わざわざ来てもらってありがとうございます~」
「は? あれ……?」
「どうかしましたか~?」
「い、いやなんでも……」
てっきり告白のシーンに飛ぶと思ったが、実際はそうじゃなかったらしい。告白のシーンが小春に悪影響かもしれないという判断だろうか?
だとすればこの状況は告白のシーンをベストな状態で通過した、ラストのデートシーンだろうか。
「とりあえず、行きましょうか~」
「あ、はい」
先輩に続いて高級車の後部座席に乗り込む。
「今日はどこに行くんですか?」
「ふふふ~、秘密です~」
目的地は案外すぐ近くであった。
「これってもしかしなくても……」
「はい~、クルーザーです~」
金持ちの遊びというイメージしかないクルーザー。
仮想空間とはいえ体験できる日が来るとは……!
誰が操縦するのかと思っていると、高級車を駐車した運転手さんがクルーザーの操縦席に座った。
「運転と操縦はすべてこなせるスペシャリストなんです~」
もしかして飛行機とかヘリコプター、特殊車両まですべて動かせるのだろうか。
先輩の片手をナチュラルに握りながらクルーザーに乗り込むと、クルーザーの内部にはすでにメイドさんがひとり待機していた。
「ああ、この前の武闘派メイドさん!」
「霧島様、その表現は誤解を生む可能性がございますので訂正願います」
「……バトルメイド?」
「なるほど、暖かい季節とはいえ泳ぐにはまだ少し冷たいと思いますが霧島様が望まれるのでしたらどうぞ」
「ナチュラルに俺を海に落とそうとするのやめてくれませんかねぇ!?」
「いえいえ、お嬢様の想い人を海に落とすだなんて滅相もございません」
Sっ気満載な笑顔でそんなことを言いながらも軽食と飲み物を俺たちの前に並べていくバトルメイド。
「それでは、お嬢様と霧島様のご交際を祝いまして……」
「乾杯~」
メイドさんと俺と先輩の三人でグラスを掲げる。
「お二人はノンアルコールでお楽しみください」
そう言いながらメイドさんはワイングラスを揺らしながら少量を口に含む。
「ひとりだけ酒かよ……」
「いえ、ノンアルコールですが」
「無駄な思わせぶりだなおい!?」
なんともツッコミどころの多いバトルメイドである。
ジンジャーエールを飲む俺の空いている右手を先輩の左手がそっと握る。
なんとも慎ましい健全な交際の様子である。
『健全交際教科書』とかがあったら載ってしまうことだろう。
「実に微笑ましい限りですね」
メイドさんは相変わらずの微笑で、首を傾げながら空いた片手で自らの頬を触る。
というか、頬が若干赤く染まっているのは決して俺たちの様子を見てとかそういうのではない。
「やっぱり普通に酒なんじゃねぇか……」
「さて、何のことでございましょう?」
基本的に引きこもり至上主義の俺は、外に出ることを嫌うわけだが、そんな主義も本当にきれいな絶景の前ではただの妄言になってしまうようだ。
軽食を楽しんだ俺たちは酔いつぶれて眠ってしまったバトルメイドを船内に放置して、クルーザーのデッキへと出てきていた。遠くには見慣れたはずの横浜みなとみらいの街が見えるが、俺の知っているただ綺麗な街とは大きく違っていた。
「どうですか~?」
「まるで絵みたいですよ。こんなに……」
真上から少し降りてきたくらいの太陽の光が街全体を輝かせ、意味も分からないような現代アートも絵画の一部であるかのように街の魅力を写しだしている。
「最高です、先輩」
「よかったです~。私の大好きな街を~、大好きな幸人さんにもっと好きになってもらえて~」
輝く街と、広い海に囲まれた船の上で、まるで映画のワンシーンに出てくる恋人たちのように向かい合い、互いの気持ちを確認する。
「これからも~、よろしくおねがいします~」
「こちらこそ、先輩」
金持ちらしい終わり方とともに、長かったこのゲームはひとつの終わりへとたどり着いた。
海も街も人も先輩も、すべてが深い青色の空間に塗りつぶされていく。
残ったのは俺と紗雪だけ。
そこに、俺の本当の想い人はいなかった。
「小春は……?」
紗雪は複雑な表情を浮かべたまま、声を出さずに答えた。紗雪が自身の背後へと体を翻して手を伸ばす。その先に小春がいた。
ナチュラルブラウンのショートカットの髪は時折ノイズが走ったように黒と茶色で明滅し、そのたびにその可愛らしい表情が苦痛に歪む。
衣服も含めた前進も本来の色と漆黒とで明滅し、どこを見ても異常だとわかる状態だ。
「小春……お前、それ」
「私のことは後です幸人様。今は……」
僅かに異常が治まり、その顔が笑顔に歪む。
「椿陽美さんの攻略完了です。お疲れさまでした、幸人様」
しかし、笑顔もすぐに苦痛に潰されてしまう。
「ログアウトして日和のやつに……」
「ダメです幸人様」
「なんで! こんな状況をどうにかできるのはあいつくらいしか……!」
小春はやや俯きながら首を横に振って俺の言葉の続きを封じた。
「日和に聞くまでもなく、今の私がどうなっているのか。そしてどうなっていくのかくらいわかります」
「でもそれでも……」
なんとかしたい。その可能性を感じるすべてに手を出してでも、自分の大切な彼女を守りたいと思う。
それは我儘でしかないのだろうか?
「本当に……我儘なご主人様ですね、幸人様は」
涙を流して首を傾げ、いつも通りの悪戯っぽい笑みを浮かべる小春。
「このまま進めば、私は間違いなく壊れてしまうでしょう。きっと、そう遠くない未来に」
機械らしい確信的な物言いだ。
……いや、機械だからこその予測か。
「でも、とにかくこれでモニターの最低要件も達成です。私はモニターの経過報告と最終報告の書類を作成するので、しばらくの間、幸人様はログインできなくさせていただきます」
小春は苦痛を押し殺して俺のことをそっと抱きしめる。
「簡単に壊れたりはしません。最期のその時まで、残りの時間は私の我儘を全部幸人様に聞いてもらうんですから!」
信じることも、恋愛には必要なことだ。だから俺は、小春を信じる。
「絶対だぞ、小春」
「はい、約束です」
小春の返答に頷いて、少しのの別れを。
「……ログアウト」




