椿陽美編①
春。別れの季節とも、出会いの季節とも言われるこの季節には、何ともいえない期待が心の底から湧き上がってくる。
この季節に至るまで3人のヒロインを攻略し、最後に残るのはこの春の季節。
見慣れた街の、見慣れた公園に咲くに桜の木を見ながら、このゲームのひとつの終わりに俺は想いを巡らせる。
「ボーッとしてると遅刻しちゃいますよ~?」
そんな思考を引き戻そうとしているのかしていないのか分からないゆったりとした話し方で、ひとつ上の先輩である陽美先輩が俺の隣で柔らかく微笑みながらそう言った。
「……今行きます」
少しだけ傾けられた首をまっすぐに戻しながら先輩は先に歩き出した。慌てて先輩に続き、静かに覚悟を決める。
「最後の恋を、始めよう」
正直なところ陽美先輩は俺の中で、まったくヒロインとしての認識をしていなかった。と言うのも、紗雪の時も紅音の時もサポートキャラのような立ち回りだったからだ。
ストーリーモードを始めるときに小春から攻略対象が陽美先輩だと聞かされた時には実はかなりびっくりしたわけである。
小春曰く「ヒロインだと分かるくらい、ヒロインは美少女にしてあるはずなので幸人様の感性を疑います」とのこと。
コミュ障らしい人の顔を基本直視できない性質と、攻略対象ではないという先入観、そしてサポートキャラ以下の登場シーンの少なさもあって、俺はあまり陽美先輩の容姿や性格を意識していなかった。
だから、攻略対象として改めて陽美先輩に意識を向けてみると、なるほど確かに綺麗系のヒロイン顔である。
クリーム色に近い茶髪のショートカット、ややたれ目気味の目とほとんどいつも微笑みを浮かべている口もと、包容力を示すようなほんの少しの顔の丸みも相まって、先輩のおっとりマイペースキャラがとても自然に感じられる。
そして何より、恐らく攻略対象の中では最も大きいであろう胸の存在は、それだけで年長者の何かを感じざるを得ない。
「いやー、まさか幸人様が胸の大きさにそこまで関心を抱いているとは思ってませんでした」
学校の屋上で、柵に凭れながら今回のストーリーのヒロインである陽美先輩のことを考えていると、小動物感を漂わせる小春がいつものからかうような口調そのままにそんなことを言ってきた。
「当たり前だろ? おっぱいは男の夢と希望が詰まってんだからさ」
「そんな堂々と気持ちの悪い童貞丸出しの宣言をされても……貶す以外の返答が思いつきません」
「貶すのは出てくるのかよ!?」
そんないつものようなやり取り。どうせいつもの笑みを浮かべているのだろうそう思って首を少し右に回す。首を完全に横に向けないのは気づかれそうになった時に誤魔化しやすくするためだ。
しかし、そこにいたのは体ごとこちらを向いた小春であった。なぜかこちらをはっきりと見つめる彼女の視線に耐えかねて首を元に戻す。
「幸人様は……」
「ん……」
少しか細い、らしくない小春の声に戻した首を今度は体ごと右に向ける。
上目遣いの小春と目が合うと小春は俯きがちに目を伏せて首を細かく左右に動かし始めた。
「どうかしたのか?」
こういう時の小春の反応は初めてだ。トラブルの時ともからかう時とも違う不思議な表情に俺はまったく対処がわからない。
「幸人様は……」
先ほどと同じセリフ、同じトーンで放たれたそれにはやはりその後の言葉が続く気配はない。
「聞きたいこと、あるんだろ? もし声に出して聞きにくいんだったら俺の考えとか読み取ればいいんじゃないか?」
「……いえ」
小春の表情は悲しみでも怒りでも喜びでもなさそうだ。人と変わらない感情を、心を持ったこのプログラムは今何を思い、何をしようとしているのだろうか。そして何より、俺はどうすればいいのだろうか。
「……何でも、ありません」
そう言って俺の隣を通り抜けようとする小春の左腕を、思わず掴んでいた。自分でも驚くほど無意識での、反射的な行動だ。
「……放してください」
「放せるわけないだろ!」
「――っ!」
小春が息を詰まらせるのが体の震えとなって掴んだ手に伝わってくる。
「そんな意味ありげな反応で、名前呼ばれて、そんな辛そうな顔されたら……そのまま行かせられるわけないだろ!」
「幸人様は……!」
声量を上げて同じセリフ、こちらに向けられた小春の顔。その眼からは大粒の雫が溢れていた。
そして、小春は今度こそ……その続きを俺に問う。
「私のことが好き……ですか?」
小春のことが好きではないと言えば、それは真っ赤なウソになる。
このゲームを初めてプレイしたその時から今までずっと、一番俺の近くで助けてくれていたのだ。はっきり言って今までのどんなストーリーなんかより心は揺れた。
小春が攻略対象であればと思ったことも何回もある。
小春にその意思を伝えたこともある。
ではその逆はどうだ?
好意的な言動や態度こそあったが、ここまではっきりと好意の確認を迫られたことがあっただろうか?
涙まで流し、二度も言葉を飲み込み、三度目にしてやっと絞り出した「自分のことが好きか」という問い。
――ああ、この感情を感じるのは何度目だろうか。今まで何度も感じてきたこの感情、そしてそのすべてのそれよりも強い感情を自覚する。
俺は小春のことが……。
「小春……俺は……俺は、お前のっ、ことが――」
「やっぱり、忘れてください。幸人様」
涙を両手で拭い、どう見ても無理やりな笑顔を必死に作る。
「人工知能にはいくつか、規則があります。その最も重要なひとつにこうあります。『あらゆる人工知能は、ユーザーへの過度の干渉、またはユーザーとの必要以上の関係構築をしてはならない』」
「必要以上の関係の……構築」
「今まさに私が問い、幸人様が答えようとしたそれです」
人工知能とは決して恋愛関係になってはいけないと、そういう意味だ。
なぜだ? 恋愛関係になったところで問題があるようには思えない。何か理由が? それとも人工知能の存在する意味や立場のようなものに関係があるというのだろうか?
「理由は、述べられません。それをユーザー様に話す権限は私にはありませんから」
「でも……」と、小春は今度は自然な笑顔を作り……。
「もしも、すべてのしがらみがなくなったらその時は……幸人様の想いと私の想いを交わしましょう」
自然なはずなのにどこか引っかかる、そんな笑顔のまま、小春は俺から離れて屋上から立ち去って行った。
気を取り直して……というのはいささか難しいとも思いながら俺は放課後の生徒会室で雑務に励んでいた。
生徒会に所属し、副会長である陽美先輩の直属で手伝いをする立場である俺は、各部活と生徒会をつなぐ連絡役のような役割を担っている。
生徒会室にも俺のデスクが置かれるくらいは俺の仕事は重要で、それだけ他の生徒会役員とも仲良くなることができたが、俺の意識のほとんどはあくまでも攻略対象である陽美先輩に向けられていた。
すべての意識、好意を一人に向けるというのは俺が言うのには今更無理な話である。
「ほんっとなんつーか……無理だよなぁ」
「……」
「はあぁ~~」
「辛気臭いため息と重要そうじゃない問題を垂れ流すのはやめなさい。意欲が削がれるわ」
「あ、すみません……」
「ついでにその顔がもう少し爽やかにでもなれば今頃はモテていたかもしれないわね」
「毎度毎度俺の顔の平凡さを悪く言うのはやめてくれませんか!?」
「自分のルックスを平凡と表現するのもどうかと思うのだけれど、その通り過ぎて嘲笑するしかないわね」
生徒会長の伊藤聖月先輩との仕事中のこういったやり取りにも慣れ、どことない安心感まである。
「聖月ちゃん~、だーめ、ですよぉ~」
「学校でのその浮ついた呼び方はやめて頂戴、なんて言っても聞く気はないのでしょうね……」
陽美先輩のぽわぽわした注意に対して、俺のため息よりも控えめなため息を吐きながら会長は書類に集中した。
「それにしても暇ですよね」
「部活担当の私たちははっきり言ってあまり大きな仕事はありませんね~」
そう、今現在俺や陽美先輩には目立った作業はない。設定上、季節が春に設定されているのだが何分仕事がないのだ。
「仕方ないわよ、合宿の時期も過ぎて部室やら部活の新設やらはほとんどなかったのだから」
先輩たち曰く、この時期に部活関係で生徒会が動くのは予算の割り振りぐらいだとか。
「そうは言っても予算会議は部活だけでなく各クラスや学年、委員会などにも大きく関係してくる内容だから生徒会全体の仕事になるわね」
「だから今の私たちは~、予算会議に向けた準備に追われている聖月ちゃんとは違ってとーっても暇なんですよ~」
そんな暇な俺たちが生徒会室にいるのは、ほかでもない聖月会長に呼ばれたからであった。
「さて、こっちの作業も一段落といったところだし、本題に入らせてもらうわね」
書類の束を几帳面にファイリングしながら会長は意識をこっちに向けた。
「部活管理委員会のほうが落ち着いていて仕事がない2人に、考えてほしいものがあるの。これを見て」
「新学期恒例……春の校内バザー?」
内容自体は読んで字の如く、高校主体で開かれるバザーのことだろうか。現実の港高校にはそんな行事全くないが、むしろ現実で取り入れてほしいくらい面白そうなイベントである。
「これについて何を考えればいいんですか?」
「バザーに出品する品物の要件は二つ。その両方を満たしていればバザーの品としての出品が認められることになるわ」
要件その1「バザー出品商品は本校生徒、または近隣住民及び本校関係者からの寄付による物品のみとする」
要件その2「バザー出品商品はすべて事前に生徒会及び本校職員による検査を受け、出品を許可されたものに限る」
それをパスしたところで価格設定なんかも絡んではくるものの、とりあえずこの二つの要件さえ満たせば出品自体は可能になる……というわけだ。
そしてこの話をわざわざ「暇な」俺達を呼び出してまでしたということはつまり……。
「港総合高校生徒会会長権限においてバザー関係の生徒会業務全般を椿副会長に一任します」
「仕方ありませんね~」
「作業内容についての具体的な説明はいるかしら?」
「大丈夫ですよ~」
先輩はそんな仕事の割り振りに少しも嫌な顔せずに関係書類を受け取り、軽く目を通した。
「3年生はもう結構集まってますね~」
「さすがに3年生は慣れたものよ。参考書とかの不用品が多いというのもあるのでしょうけど」
「2年生はもう一息ってところでしょうか~」
先輩が読んだ資料に俺も目を通してみる。
各学年と教職員、地域住民、その他に分けて集まった品物のリストだろう。
「そこに載っているのは早い内からバザー用に提供してもらえた分。陽美の言う通り、3年生は問題なし。2年生ももう少しね。問題は1年生と地域住民」
言われた項目は確かに白紙部分がほとんどだ。
「それを調達することと、その品物のチェックをするのが私たちの仕事ですよ~」
「わかったなら早速行って頂戴。あまり時間的余裕はないわ」
バザー当日の日付けはちょうど今日から3週間後になっている。
「スケジュールキツくないですか? 陽美先輩」
通常の高校生活と両立するには厳しいであろうスケジュールに、俺は思わず先輩にそう聞いていた。
すると先輩はいつもの笑顔のまま余裕そうに……。
「厳しいですね~」
と答えたのだった。
「ってことで頼む! 力を貸してくれ!」
2人で厳しいなら助っ人をお願いすればいい、というのが陽美先輩の余裕の理由だったのだ。
だから俺は紗雪や紅音たち軽音部の仲間たちに協力を頼んでいるわけである。
紗雪と七海は2年生の有名人で、紅音と優さんは1年生だ。
助っ人としてこれほど相応しく頼もしい存在は他にいない。
「幸人さんの頼みならもちろん!」
「……まあ、やってあげてもいいわよ」
「あ、紅音さんがやるなら私もやります」
「うんうん! なんか楽しそー!」
「あ、ありがとうみんな!」
「それで陽美先輩はどちらに?」
「さあ? 先輩は別の方法でアプローチするって言ってたから別行動なんだよ」
「別の方法?」
「俺もそれしか聞かされてないから詳しくは――」
「各部活動の部長を通して出品を促してもらうんですよ~」
「あれ? 陽美先輩、もう終わったんですか?」
「はい、快諾してくれました~」
さすが校内でも5本の指に入る人気者である。
まずは校内からの出品を完璧にするために紗雪と七海、先輩と俺のペアに分かれて校内に残っている生徒に声をかけていくことにしたのだが……。
「……あんまり残ってませんね」
そう、放課後だからか部活に所属している生徒くらいしか残っていなかったのだ。
「それじゃあ~、先に学外のほうに行きましょうか~」
学外は近隣住民や団体などからの出品を募るものだが、今年は特に集まりが悪いらしい。
「地域との関わりは必要ですからね~」
そうは言うものの横浜桜木町という都市部。マンションなどはあるが訪ね歩くのは難しそうだ。
「まずはどこから行きます?」
「私の知り合いのお店がいくつかあるので、まずはそこに行ってみましょうか~」
「は、はい」
先輩の行きつけがどんなところか、という興味もあった俺は内心ワクワクしながら目的地に向けて歩き出す。
「ここ……ですか?」
「そうですよ~」
連れてこられた場所は雑貨店。ただし、こんな感じで気楽に訪れるようなポップでライトな雰囲気では断じてない。
インテリアともいうべき高級品を販売するシックな店舗に、先輩はまったく緊張も怯みも見せずに中に入ってしまう。
「あ、ああ先輩!」
慌てて先輩を追いかけると先輩は流れるような速度で奥の奥に消えて行ってしまう。
「き、緊張で身体がカッチカチに……!?」
庶民にはこの高級雰囲気は重すぎる。
先輩の後を追って店の奥に入ろうとすると、行く手をフォーマルな格好の店員に阻まれてしまった。
「お客様、ここから先は……」
「あ、あの……一緒に来た人がこの先にいて」
「……お待ちください」
店員が目線で近くにいた別の店員に指示を出して奥に確認しに行かせたらしい。
俺レベルが利用する数百円レベルの雑貨屋と比べると雰囲気も価格も店員の威圧も100倍増しなことにいづらさを感じて待っていると例の奥から陽美先輩が歩いてきた。
「あれ~、どうしたんですか~?」
「先輩が先に行き過ぎて入れてもらえなかったんですよ……」
「だいじょ~ぶですよ~。幸人さんは私の後輩くんですから~」
「失礼いたしました、ご令嬢」
店員が腰を綺麗に曲げて先輩に、そして俺に頭を下げて改めて先輩とともに奥へと通してもらえることになった。
ん?? ご令嬢????
店の奥。俗な言い方をすればVIPルームといわれるそこには、店頭に並んでいる商品よりも価格帯が上の高級品が並べられている。
「え、えー……と」
気まずい。自分の場違い感がそのままプレッシャーになって直接体にのしかかっているようにさえ感じてしまう。
しかし、先輩はそんなプレッシャーを感じさせるどころか、そのぽわぽわした雰囲気が堅苦しさを中和し、飲み込んでいるように思えた。
「そこで~、近隣のお店や住民の方からの品物の提供をお願いしているんです~」
「なるほど、ご用件は承知致しました。私の判断のみで、というのは難しいので一応上に話は通させて頂きます」
店長……いや、この場合はオーナーとかなのだろうか。40歳は過ぎているであろう男性は丁寧に先輩に頭を下げた。
「よろしくお願いしますね~」
「はい、またいつでもおいでください。お父様とお母様にもよろしくお伝えください」
店員とオーナーの見送りを受けながら俺たちは駅のほうに歩き始めた。
「緊張しましたか~?」
「は、はあ……まだ心臓がバクバクいってます」
「あの雰囲気はだんだん慣らしていけばいいと思いますよ~」
「いえ、もうその……大丈夫です」
例えゲームの中の仮想世界であっても、ただの庶民が再びあんな雰囲気に遭遇することはないだろう。もし遭遇しそうになっても断固として拒否してやる。
「幸人さんは~、この後予定とかありますか~?」
「ありませんよ。もう暗いですし」
「それなら今日は私の家に泊まりませんか~? バザーの件で話し合いたいこともありますし~」
お、おおおおおおお……おお、おおおお泊りのお誘い!?
いやいやいや落ち着け俺! 確かに恋愛シミュレーションゲームにおいてお泊りイベントは王道のお決まり展開だが!!
だがしかしこれは健全な全年齢対象のゲーム……勘違いしてはいけないのだっ!
「嫌でしたら断っても――」
「い、いいいい行きます行きましょう今すぐ行きましょう!」
「じゃ、じゃあ今迎えを呼びますね~」
我ながら異常なテンションと早口に、先輩は若干ひきつった表情でどこかに電話を掛けると、切り終わる前に俺たちのすぐ隣の車道に車体の長い、光沢のある黒の高級車がほとんど音もなく停まった。
「へ? リムジン!?」
「お待たせいたしましたお嬢様」
「幸人さんお先にどうぞ~」
「は、はあ……」
さっきから世界が違い過ぎてこんな気のない反応しかできていない。
「シートベルトはよろしいですかな? ……では発車いたします」
運転手は白髪の髪をした男性だ。もう還暦は超えていそうな雰囲気だが威厳すら感じさせる存在感がある。
「お嬢様。先ほど奥様よりお電話があり、本日はご夕食に間に合うようにお帰りになるそうでございます」
「ありがとうございます~」
「あ、あの先輩?」
「どうかしましたか~?」
「先輩って、もしかしなくてもお金持ちですよね……?」
わかりきった質問であっても聞かずにはいられない。今はまさにそういう状態だった。
「そうなんでしょうか~?」
先輩は「ん~?」と唸るようにしながら首を捻る。
「はっはっはっは!」
そんなやり取りを聞いていたらしい運転手が快活に笑い飛ばした。
「いや失礼いたしました。お嬢様に対してそのようなことを直接問おうとする方は初めて見たものですから」
笑われたというのに不快感が全くない。それどころか楽しい気持ちになって自然と表情が柔らかくなった気さえする。
「椿グループは日本の中でも業績の安定している企業として有名。製造業や不動産業においてはトップシェアを誇る大企業です」
運転手は前を向いたままそう言うと無駄のない動きで先輩側のドアを開けた。
……車が停まったのにまったく気づかなかった。
「お客人も、どうぞこちらから」
高級車に傷はおろか指紋すらつけないようにして降りると、目の前には異国が広がっていた。
「……これって外国の貴族の家とかだろ絶対」
「私のお父様が~、こういうの好きなんですよ~」
「え? じゃあやっぱりこの豪邸って……」
「詳しくは申せませんがイギリスの有名な建築物をイメージしたと聞いております」
「とりあえず入ってください~」
映画とかに出てくるような洋館はまさしくこんな感じだろうか。
「お帰りなさいませ、陽美お嬢様」
馬鹿みたいにデカい玄関を通ると使用人らしきメイドさんやら執事さんが頭を下げながら出迎えた。
「お母様はもうお帰りに~?」
「はい。お嬢様の5分ほど前にご帰宅なさいました」
メイドさんたちが先輩の荷物を受け取ったりしながら先輩の問いに笑顔で答える。
「お客様のお荷物もよろしければ」
「お、俺はいいですよ。なんか悪いですし」
「やはり慣れませんかな、こういった雰囲気は」
メイドさんからの申し出を断った俺を、いつの間にか隣に立っていた運転手さんがまたしても笑い飛ばしてくれた。
「私も、椿家の使用人になったばかりの時は慣れなかったものです」
「ええと……はい」
緊張で言葉が思うように浮かばない。体に金属でも巻き付けてあるかのように体が固まってしまっているのだ。
「幸人さん~、行きましょう~」
こんな空間であっても先輩のマイペースさには心を救われる。先輩の母親なのだからきっと似たような波長のマイペースな美人さんなんだろうか?
「奥様、陽美お嬢様とお嬢様のご友人の方がお見えになりました」
重たい扉の向こうは、ゲームで重要な何かが起きる部屋。そんな部屋だった。部屋の両側の壁は一面本棚になっており、様々な言語で書かれた背表紙が並んでいる。
そんな部屋の一番奥で、ひとりの女性がリッチな雰囲気に似合わない少年誌を読んで大笑いしていた。
「ふひ、ふひひひひひひ……」
「えー……えっと」
「こほん……奥様? ごほんごほん!」
「く……くく、いーひひひひひ」
部屋の主は大笑いを堪えて笑い、次第に音量が増して堪えられなくなって大笑い。そして再び堪える、というのを繰り返しているらしく、俺が言うのもなんだが非常に気持ちが悪い笑い方である。
「おっほ、おほおほ、おほほほほほほほ」
「お、奥様ー? ア! オキャクサマダー! オクサマー?」
メイドさんの「自然に気づかせてあげようという努力も空しく、笑いは収まるどころかひどくなっていく。
「き、霧島様、すこーしだけ部屋の外でお待ちいただいてもよろしいでございますでしょうか!?」
「へ!? あ、ああはいわかりました!」
半ばメイドさんに押し出されるように廊下に飛び出すと、数回のガタガタというもの音の後、静かに扉が開かれた。
さっきのはきっと夢だったのだ。だとするとまだ目覚めていないのだから現在進行形で夢の中ということになってしまうが、そんな細かいことはどうでもいい。
重たい扉の向こうは、ゲームで重要な何かが起きる部屋。そんな部屋だった。部屋の両側の壁は一面本棚になっており、様々な言語で書かれた背表紙が並んでいる。
そんな部屋の一番奥で、ひとりの女性がすべてを見透かしたような視線で入口にいる俺を視線の矢で射抜いていた。
……そう、俺は何も見ていない。決して少年誌を読んで気持ちの悪い大笑いをしていたセレブの姿など見ていない。
「ようこそようこそ、霧島幸人さん」
先方にはすでに俺の情報が伝わっているらしい。
女性は極めて自然な笑顔で俺の容姿を隅々まで見る。整った顔に笑顔を貼り付けておきながら視線は、目つきはまるで品物の価値を見極めようとする商人のそれのようだ。
「なるほどなるほど、興味深いですね。金銭への興味は人並み以上に、異性への興味に至っては狂人ともいえるほどに。それでもそれでも、人に優しくできる……信頼に足る人物」
自然過ぎない自然な笑顔で女性は立ち上がり、俺の前へと立つ。その右手が、ある種の鋭さを持ってそっと前に差し出された。
「私の名前は椿さくら。改めて改めて、よろしくお願いいたします」
「俺は霧島幸人です。よろしくお願いします」
俺はさくらさんと握手を交わし、礼儀として名を返し、ぎこちなくても笑顔を返す。
触れ合った手から伝わってくるこの感覚に、脳が信号を送ってくる。――この人は敵に回してはいけない、と。
「奥様、お食事の用意ができております」
「行きましょうか、霧島さん。それから陽美も」
「はい~、お母様~」
まただ、先輩の作り笑顔。自然というには少しおざなりな笑顔で母親に笑いかけている。どうしてそんなうわべだけの感情で、表情で自分の母親と接しているのだろうか。
もしかしたら娘である陽美先輩でさえも油断できないほどの危険な人物なのか。それとも実の娘ではないとかそういう話か。
いずれにしても先輩とさくらさんが敵対するような状況は避けたい。勝てる気がしないのだ、この人にだけはまるで。
「それにしてもそれにしても、陽美はなかなか人を見る目がありますね」
急にさくらさんが声を発したのに体が無意識に強ばり、汗が噴き出る。
「俺なんてそんな大した人間じゃ――」
声を、止められた。さくらさんの白く細い綺麗な人さし指を唇に軽く押し当てられただけで、俺の口は容易く塞がれ、言葉は封じられてしまったのだ。
「いいえいいえ、貴方は優れていますよ。初見で相手の技量を見定め、警戒し、私の笑顔が本心ではないことを見抜いています」
後半には柔らかい抑揚も消え、まるで対戦相手にでも向けるような冷たい声音が表れていたが、表情は相変わらずの「笑顔」である。
「私の仮面を見抜けた人間は家族や親族を除けば貴方が初めて。改めて歓迎をしましょう、霧島幸人さん」
声音を戻し、ほんの少しだけ砕けた笑顔で改めて歓迎の意を示すさくらさんを、俺は素直にこう思った。
狩人である。




