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青葉七海編③

 デートというのは何度経験しても緊張するものだ。普段普通に話せている相手であっても、デートというだけで普段通り接することができない何かがある。

俺は水泳の大会を控えた七海なみを誘い、息抜きも兼ねてプールに来ていた。この前海に行ったばかりのような気がするが、七海の提案なのだからいいのだろう。

「ユッキー! あっちの流れるプールに行こー!」

七海は楽しそうにはしゃいでいる。ちなみに水着も海の時のようなウェットスーツではなく青色のビキニだ。

いつの間に造ったのかが不思議なほどの大きなレジャー施設。プールのほかに遊園地なんかも敷地内にあるらしい。

デートにはもってこいな場所なのは確かである。

「結構混んでるな……」

海の時もそうだったが、ゲームの中だというのにプールは人で溢れていた。

「俺への嫌がらせか何かか……?」

「ユッキー! こっちこっちー!」

流れるプールで既に遠くに流されている七海が手を振りながらさらに遠くなっていく。

「ゆっくり泳いでれば後ろから七海が来そうだな」

そう思ってゆっくり泳いでいると、不意に右腕を誰かに掴まれた。

「七海早かった……な?」

幸人ゆきとさん」

「さ、紗雪さゆき!? なんでここに……?」

紗雪のことは誘ってもいない。何よりこの状況で紗雪が出てくることに七海攻略上の意味があるとは到底思えないのだ。

「どうしたんだよ紗雪?」

「幸人さん、来てください」

腕を引かれるがままに流れるプールから出ると、少し離れた場所にあるベンチに紗雪とふたりで座った。

「それで、どうしたんだよいきなり……」

「ごめんなさい……私にもどうしてここにいるのか……?」

「はぁ?」

「でも、気がついたらここにいて、幸人さんの姿を見たらいてもたってもいられなくなって……」

キャラが勝手に動いた? 管理しているはずの小春の悪戯か、それとも七海のストーリーに何か関係しているのか?

「どうしたらいいんでしょう……こんなこと初めてで……」

「俺にもどうしたらいいか……」

そもそもこんなイレギュラーは経験したことがない。しかも小春が出てくる気配もないのだ。

「ちょっと待っててくれ。この状況を何とかできそうな奴を探してくる」

小春こはるさん……ですか?」

「紗雪……なんでそのことを?」

自由遊戯フリープレイモード中ならともかく、今は七海の攻略パートのはずで、メタ発言はあり得ないはずだ。だとすればこの紗雪には攻略パートの制約が作用していないということになる。

あるいは自由遊戯モードに切り替わっていたのか……。

「とにかく小春に聞いてみる。呼び掛ければ来てくれるはずだから、紗雪はここで待っててくれ」

不安そうに頷く紗雪を残して少し離れた場所で小春を呼んでみる。

「……反応がないな」

「幸人さん……どうしましょう」

紗雪は不安のあまり今にも泣き出してしまいそうだ。

「とにかくしばらく待っていてくれ。きっと小春が来てくれるはずだ」

確証はないが、あの小春が仕事を放り出すようなことはないはずだ。

「幸人さん、私はその……大丈夫ですから」

「でもどうにかしないとまずいだろ?」

「小春さんは……私がひとりで探しますから」

「探すって言ったってどうやって?」

「プログラムの奥に行ってみます。私なら行けますから」

紗雪が近くの壁に触れると深い青色の穴が開く。

「消えちゃったりすることはないはずですから安心して……七海ちゃんのところに行ってください」

やはり不安そうな表情で右足を前に出す。

「俺も、一緒に行っていいか?」

「え?」

「こうなった原因が知りたいんだ」

「……でも待ってください。七海ちゃんをそのままにして行くわけにはいきません」

それはそうだが……。

「それじゃあ……七海ちゃんも連れていきましょうか?」

「でもあいつは……」

「はい。モードによる制限が掛かっていますから、状況の理解はできないでしょう」

「それなら連れてはいけないはずだよな?」

「とにかく、七海ちゃんのところに行きましょう。説明はそれからです」

紗雪は足早に流れるプールのほうへと歩いていく。

「あー! ユッキー、探したんだよー! ……あれ? 紗雪ちゃん!」

なぜ紗雪がいるのか、という疑問は一瞬で消えていつも通りの明るい笑顔を浮かべる七海の右手を紗雪が握る。

「……ごめんね」

紗雪が静かにそう呟いた瞬間七海の意識が唐突に途切れて人形のように倒れた。

「紗雪!?」

「私たちは制限がなければプログラムに干渉することができます。本来であればどのモードでもできないはずですけど……」

紗雪も性質こそ違えど小春と同じ数字の羅列、プログラムだからできるということだろうか?


紗雪が両手を前に突き出して左右に広げると半透明のパソコンのキーボードとデスクトップのようなものが現れる。

「……全然わからねぇ」

デスクトップを覗いても数字と英単語と記号が並んでいるだけで理解はできない。

「今から七海ちゃんの制限を無くします」

キーボードを操作してなにかをしている紗雪の姿はいつもの控えめな紗雪とは違う何かに見える。

「これでいいはずです!」

カチッという小気味いい音とともに七海の目が開いて俺たちを捉える。

「あれ? 紗雪ちゃんにユッキー……?」

「七海ちゃん、ストーリーの邪魔をしてごめん。困ったことになっちゃって……」

紗雪が事の顛末を説明すると、七海は明るく頷いてくれた。

「うん、わかった。小春こはるんを探せばいいんだね!」

俺たちは状況の理解ができたらしい七海も連れて先ほどの穴へと飛び込んだ。


無限に広がるような深い青色の空間。果てしない広さには俺と紗雪と七海だけが存在していた。

「七海ちゃん、どう思う?」

「うーん、ストーリーの時からちょっと動きにくい感じがしてたんだよねー」

ストーリーの時とは違って元気さが抑えられている様子の七海は冷静に分析を始める。

「考えられるのはコンピューターウイルスとかじゃないかなー?」

「でもそうだとしたらストーリーの進行も難しくなるはずじゃありませんか?」

「そもそも小春がいる場所とかわかるのか?」

「はい。コンピュータープログラムの奥深くにあるんです。OSの中枢が」

しばらく歩いていると七海が唐突に走り出した。

「あれだよー!」

七海は何もないところで立ち止まると地面に向かって例のキーボードで何かを入力しているようだった。

「足下気を付けてねー!」

紗雪が頷いて俺の左手を握る。

「……へ?」

直後に足場が七海の位置を中心に円形に消えて俺たちは全員深い青色の空間へと落ちていく。

「う、うわああああああああ!!」

死ぬ……! これは普通に死ぬ!

しかし、地面らしき場所に叩きつけられる直前に謎の浮力で落下エネルギーが相殺されて床に着地することができた。

「ここがプログラムの中枢……?」

「そうだよ! 私たちが産まれた場所!」

深い青色の空間に無数の数字が浮かび、絶え間なく変化している。

「ねぇ紗雪ちゃん、なんか……変じゃない?」

「う、うん……」

「何が変なんだよ?」

立ち止まる二人を追い抜いて俺は前に進む。ユーザーには絶対に安全なシールドがある。例えトラップがあったって怪我をすることはないはずだ。

「ユッキー! 危ない!」

七海の叫び声に振り返ろうと首を回転させた俺は、自分へと向かってくる光線を見た。

「なっ……!」

言葉を紡ぐ間もなくその光線がまっすぐ俺に突き進んでくる。

直接俺の身体を焼くようなことはなかったが、シールドが防いだ爆風で俺の体が2メートルくらい後方に吹っ飛ばされる。

「な、なんだぁ?」

「対ウイルス用の攻撃システムです!」

「これが作動してるってことはもしかして!?」

紗雪と七海が慌てて俺の近くに立つ。

「でも俺にはこのシールドがある。大丈夫だ」

「幸人さんのそのシールドも……今のレベルの攻撃をあと何回か受けたら壊れてしまいます」

「そういうプロテクターがついてるウイルスでも除去できるように作られてるんだよー!」

「じゃあ……」

「やっぱり1度帰りましょう。ここは危険です」

紗雪がキーボードで何かを入力しながら後退する。

「小春さんはこの先……比較的近くにはいますが……」

「ならそこまで行けばなんとか……」

「そこに行くまでにもいくつかトラップはあります。万が一幸人さんのシールドがもたなかった場合……」

良くない影響が俺の身に起こる……。

「紗雪ちゃん、攻撃プログラムの解除はできない?」

「解除には人間の管理者の権限とパスワードがいるようです。でも……プログラムの実行を遅延させるくらいならできます!」

「どれくらい?」

「3秒ほど」

「それだけあれば十分だよ!」

七海は明るく笑うと俺の右手を掴む。

「ねえユッキー、私の手の感触にだけ意識を集中して、絶対に放さないでね?」

「始めますよ……!」

紗雪がキーを叩くと七海は光になった。

いや、きっと俺もそうなっているのかもしれない。すごい速度で空間を駆け抜けて俺たちが通った後ろを光線が焼いていく。

隣を見ると同じ早さで紗雪も並走していた。

「もう少しです!」

攻撃が止まったかと思ったその時、その人工知能は何もない空間にひとり佇んでいた。


普段通りのナチュラルブラウンの髪の毛、おとなしめな顔立ちで小動物を連想させるような雰囲気。

人工知能の少女はその二重のかわいらしい両目をこちらに向けた。

「幸人……様」

「小春……! どうしたんだよこれは……」

「ダメです! こっちに来たら……!」

小春がその目を見開いて警告を発した直後、小春の足下からその化け物は現れた。

映画に出てくるような巨大な蛇。真っ黒な長い胴体をうねらせ、小春の華奢な体へと噛みつこうと動く。

「く……!」

辛うじて一歩下がって蛇を避けた小春に以前見た余裕は感じられない。

「なんで瞬間移動しないんだ!?」

紗雪と七海のほうを見ると二人とも膝をついて頭を抱えていた。

「あ、頭が……!」

「あのウィルス……プログラムを麻痺させる、何かを発してる、みたい……!」

「じゃあ小春もそれで!?」

小春はヨロヨロと蛇を避けているが、動きにキレがなく危なっかしい。

「小春!」

俺は普段通りの動きができる。迷うことなく小春のほうへと走り出していた。

「こいつを倒すにはどうすればいい! 何か方法はあるのか!?」

「2分間、時間を稼げればこいつを除去するプログラムを構築できます!」

「よし、俺が引き付ける。小春は急いでプログラムを!」

「しかし……! ……わかりました」

小春が少し離れた位置で作業を開始する。蛇は迷わず俺に牙を剥いてきた。

「速い!」

蛇の速さは俺なんかとは比べ物にならない。

あっという間に鋭い牙が俺の腹を抉ろうとしてシールドに阻まれる。

「くっそおおお!」

その隙を使って蛇の首に飛び付く。この位置なら噛みつかれることはない。振り払おうともがく蛇の動きに揺さぶられながらもなんとかしがみついていると、唐突にその蛇の感触が消失した。

勝ったのか……?

否、奴は消失したのではなかった。奴は1度実体を消して再び現したのだ。

しかも蛇の胴体が俺を締め付けるような状態で再出現したのである。

シールドによって蛇の胴体の締め付けを耐えるが、次第にシールドが押し潰されて蛇の横っ腹が俺に迫ってくる。死を覚悟して目を強く瞑る。

くそ……まだなのか!?

小春……小春小春小春小春小春小春小春小春っ!


「お待たせしました!」

響く小春の声に目を開けると小春が蛇の頭に右手を触れていた。

「消えて、ください!」

小春の放った何かが蛇の体を消し去っていく。蛇は感情が無いように苦しむでもなく消えていった。

「こ、小春!」

力が抜けたように前屈みに倒れそうになる小春をなんとか受け止めると、紗雪と七海も近づいてきた。

「皆さんも馬鹿ですね……こんなところに飛び込んでくるなんて」

小春こはるんがいなくなっちゃったらユッキーが悲しんじゃうでしょー!」

「それに私たちも泣いちゃいますよ?」

紗雪は明るく、しかしいつもと違う笑みで小春に応える。

「幸人様も……ご迷惑をおかけしました」

「さっきの蛇ってコンピューターウィルスか?」

「はい。ただ、奇妙なことに侵入させないための防壁を素通りしてきました。4号機()の認識ではウイルスではなくアップデート用のプログラムだったんです」

「もしかして例の統治者が?」

「わかりません。こんな回りくどい方法を彼が用いるとは思えないんです」

小春でも確証は得られないらしい。

「紗雪さんも、助かりました。あなたがいなかったら……」

「気にしないでください。でも、私もいきなり七海なみちゃんの攻略モード中に出現しちゃって……。これもウイルスの影響ですか?」

「それは全体をスキャンしてみないと何とも……。では攻略モードに戻しましょう」


小春が悪戯っぽい笑みを浮かべると、俺を唐突な浮遊感が襲う。

落ちるような感覚に思わず目を瞑ると、落ちた先は柔らかい何かの上だった。

「いたた……」

「痛いよ~、ユッキー……」

「わ、悪い七海!」

柔らかかったのは水着姿の七海の上に乗っていたからである。

「戻すならもっとちゃんと戻してほしかったな……」

「あはは、ホントだね!」

周りを見ると最初にいたプールのようだ。プールサイドには他に人がおらず、俺と七海しかいない。

「さっきまでとは違って人がいないな」

「まだ少しウイルスの影響が残ってるのかもね」

「あれ? 七海の制限は解除されたままなんだな」

「うん、そうみたい」

少し話し方が違うから何だか別人みたいだ。

なんというか、いつもの元気さがない。

「私はね、ストーリーだとすごく元気な役なんだけどねー」

「どうする? 七海」

「ユッキーはストーリーの私と今の私、どっちがいいー?」

「どっちも好きだけど……どうして?」

「もしよかったら制限かけずにストーリー進めようかなって思って」

「ああ、それはいいな。ストーリー自体も早く終わりそうだ」

小春が知ったら怒りそうだが。

「でも、ここから先のストーリーもそんなに長くはないみたいだよ? プールでデートしたら何回か水泳の練習の手伝いをして水泳の大会やって終わりみたいだから」

「告白とかそういうのはないのかよ……」

「うーん……ないみたい?」

「小春も適当なシナリオ作りやがって……」

「でもとりあえず、プールでデートしよ! 話はそれからだよ!」

自由遊戯フリープレイモードの状態に近いヒロインとまともに何かをするのはほとんど初めてだが、この「七海」はなんとも接しやすい性格である。

元気すぎないからか、あるいはすごく普通の女の子のような親しみやすい雰囲気があるからか。

「制限なくてストーリーの進行に問題は?」

「ないよー。私がシナリオ通りに動けばいいだけだもん」


 ということでいつもと違う雰囲気のデートが始まった。人のいないプールではさすがにやりにくいので、ほどほどな混み具合へと七海なみに変更してもらった。

仕組みこそわからないが、制限こそなければ七海や紗雪さゆきたちも多少プログラムやシステムに干渉したりすることができるらしい。

「それじゃあユッキー、遊ぶぞ!」

七海はやはりさすがで、人の多い流れるプールでもスルスルと進んでいっていつの間にか後ろから追突してくるほどだ。

「ユッキーは泳ぐの得意じゃないの?」

「まあ人並み、かな? 小さいころから海で遊んでたりしてたし」

「じゃああっちの波の出るプールに行こう!」

「あ、ああ」

手を引かれて連れていかれた先、波の出るプールには人がおらず、しかも波が怒り狂った竜のようにうねりをあげていた。

「な、なにこれ……?」

「少し設定変えてみたんだ」

少し変えたレベルでは絶対にない。先ほどのコンピューターウイルスとの戦いよりも濃厚な危機感、死のにおいが漂っている。

「まあ見てて!」

小春のフォルムチェンジの時のように七海の体が光に包まれると、海に行った時と同じウェットスーツ姿に変わった。

しかもその手には背よりも高いサーフボードが抱えられている。

「まさかこの波の中を……?」

「うん! 大丈夫だよ、絶対安全な設定にはしてあるから」

それに……と七海は笑いながら波に向けて走り出す。

「私はプログラムだから!」

荒れ狂う波に涼しい顔で乗った夏の化身は、現実ではありえないようなターンや逆走をして俺を楽しませようとしてくれているらしい。

波を普通くらいの高さに調節すると、俺をサーフボードに乗せてくれた。

「私が支えてるから大丈夫だよー!」

「うわっと……」

慌てる俺の反応を楽しむかのように笑いながら俺の腰を支えてくれる七海。

不安定なはずなのにサーフボードから落ちそうにないという謎の安心感の中、波の細かな飛沫と涼しい風がマリンスポーツの爽快さを感じさせてくれる。

「ね? マリンスポーツも楽しいでしょ!」

「ああ、ぜんぜん知らなかった」

趣味はアニメとゲームというインドア派の俺が知ることができず、知ろうともしてこなかった世界の扉を七海が開いてくれた。

感覚的には現実と変わらないこのゲームだからこそ得られる感情、喜びといえるかもしれない。


 デートは無事終了し、残すは七海のクライマックスイベントである水泳の大会のみとなった。

先ほどのウイルスによるトラブルの後始末や機体のリフレッシュ、そして俺自身の休憩も兼ねて一度ゲームを中断した俺は現実のスケジュールを確認する。すでに年末の雰囲気を醸し出している世間など少しも興味がなく、ELSのプレイしかしていない俺であるが気分的には極めて充実していた。

「だからと言って現実を疎かにしちゃダメですからね? 勉強も趣味も恋愛も現実リアルで充実しないと意味ないんですから」

スマートフォンの画面に映った小春こはるが真顔に近い笑顔でそう言った。いつも通りの笑顔でないのは何かの作業をしながら話しているからだろうか。

「忙しいならわざわざスマホに来なくてもいいんじゃないか?」

「そうもいきません、万が一先ほどのウイルスがスマートフォンに影響していたら大変なことになるかもしれませんから」

スマホにもウイルス対策ソフトは入っているのだが、小春はそれでも不安要素は自分で取り除きたいようだ。

「本体のほうはもう大丈夫です。ストーリーも七海さんの大会の3日前に設定されてます」

「ってことは本番前に何かあるってことか?」

「むしろそちらがメインですね、本番前に七海さんを元気づけることがクリア条件になります」

「わかった。もういいのか?」

「どうぞ、すぐに始まりますから」


 ログインしてゲームを再開した俺はスマホに届いていたメッセージを見て前に皆で行った海へと向かっていた。

七海から届いた七海らしくない文章

「江の島で、待ってる」

いつになく深刻な何かの気配、雰囲気を感じながら、俺は七海のいる場所へと向かった。


見渡す限りの海、静かな中に唯一響く波の音、そしてらしくないくらい静かに佇む七海。

いつもと違う。表情には笑顔もなく、かといって不機嫌な様子もない。まさしく無表情。俺に意識を向けつつも、視線はキラキラと光る海の先へと注がれていた。

「七海?」

そんな「普通」ではない状況に、俺は声を掛けずにはいられなかった。

「ごめんねユッキー、急に呼んだりして。大会の前に、私のことを誰かに話したかったんだ」

七海の声にいつのも声量と伸びがない。

「別に、七海に呼ばれるなら迷惑だなんて思わない」

「そっか……。ユッキー、ユッキーから見て私はどう見える?」

「え? ……そうだな」

七海の印象……か。

「元気で泳ぐのが好きな女の子、かな?」

素直に答える。

「……よかった」

「え?」

「私はね、高校に入るまで人見知りで内気な性格だったし、水泳も音楽も、お姉ちゃんがやっていたから始めたの」

「……」

七海は何かを秘めたような瞳で穏やかに広がる海を見続けている。

「きっかけは全部周りの身近な人たちに与えてもらってきた。自分から進んで何かをすることはできなかったから……」

元気で誰とでも明るく接することができる七海。でも、そんな七海にも自分に対するコンプレックス、悩みがある。

「でも、七海はすごいよ……きっかけは他人から与えられたものであっても努力して結果を出したり、自分の内面を変えようとするなんてさ」


そう、俺にはできない。誰の手も借りずに努力で能力を伸ばしたりコンプレックスを改善するなんてことは誰にでもできることじゃないはずだ。

いや、思い立つことは誰でもあるかもしれないし、行動さえ起こせれば誰でもできることかもしれない。

しかし多くの人は「自分はこういう運命だ」とか「どうせ努力をしたって……」などと自らを卑下し悲観し、やがて諦めるのだ。

「お姉さんのこと、意識してるのか」

質問ではなく肯定。内気な人間、受け手な人間が自分自身の意思決定やアイデンティティの確立で悩む気持ちは、俺にもよくわかる。だからこその肯定。


七海と俺は表面的には違えど、内面や悩みは誰よりも近いかもしれない。

「その明るさは七海のお姉さんにもない、七海の特徴っていうか……魅力、みたいなものだと思うぞ」

我ながらよくこんな寒いセリフを言えたものだと思うが、七海はスッキリしたようにいつもの……いや、いつも以上に明るい笑顔を向けてくれた。

ずっと憧れ、追いかけてきた姉に対してきた劣等感と自分自身への不安や疑問。七海の内面のケアという目標は、おそらく達成された。


 七海を家まで送り、俺も自宅に戻ると日付を大会当日へとスキップした。

「今日で七海の攻略も最後か……」

「そうですね。前の2人のヒロインとは違って告白などはありませんが、恋愛感情だけが人付き合いの楽しさではありません」

目を閉じて精神を集中させるように正座をしながら、小春はもっともらしいことを言ってくれる。

「何してんの? お前」

「実は大型のアップデートがありまして、それの適用化を」

「大型のアップデート?」

「それはあとで説明しますから、まずは七海さんの攻略パートのラストを見届けてきてください」

アップデートの中身が気になりながらも、俺は七海が出場する大会の会場へと向かった。

大体は他県の大きなプールで大会が行われるらしいが、そこはさすがのご都合主義。いつものことながら横浜の街中に大きな屋内プールが出現している。

「さすがにこれは違和感でしかないだろ……」

横浜という街をよく知っていればいるほど違和感が大きそうだ。


「あ! ユッキー!」

大会前の七海なみが学校名の入ったウィンドブレーカー姿で駈け寄ってきた。

「調子はどうだ?」

「最高だよ! ユッキーが応援してくれるなら絶対勝てる!」

緊張感など全く感じさせないのが七海のすごいところだろう。

「客席で応援してるからな!」

この状況で心配するのは野暮というものだろう。


観客席は結構な混み具合だ。

「席空いてるか……?」

「幸人ー! こっちよこっち!」

ツインテールを揺らしながら両手を振る紅音あかねの声のするほう、中央寄り最前列の席へと歩いていくと他にも紗雪さゆきゆうさん、陽美はるみ先輩などの生徒会のメンバーが最前列に陣取っていた。

「ほら、あんたはここよ」

座席の列のほぼ中央、紗雪と紅音の間の空席に腰を下ろすと、プール全体がよく見渡せた。

アナウンスやらが終わると選手たちが続々とプールサイドに出てきた。当然七海の姿もあるが、少しも緊張した様子もなく俺たちを見つけて笑顔で手を振ってきた。

「あの状況で緊張してないっていうのはさすがよね……」

七海に少しだけ手を振りながら素直に簡単したように、そして少し羨むように紅音がそう呟いた。

紅音や紗雪には七海が「弱いところなどない元気な女の子」に見えているのだろうか?

だとすればそれは七海が何より望んだ姿であるに違いない。

「俺、水泳とか詳しくないんだけど、七海の種目わかるか?」

「自由形ってことくらいしかわかんないけど……」

時間潰しの質問でしかなかったため、それ以上は何も言わずに広いプールへと視線を戻す。

七海の出番はまだのようだ。

「あ! この次みたいですよ」

紗雪の言葉通り七海が水着姿で上方向への伸びをして準備をしていた。

もう一度こっちに笑顔で手を振ってスタート位置に立つ七海。

スタートの合図とともに弾けるような躍動で青い水へと飛び込んだ。


「速いですよね!」

「圧倒的じゃない!」

紗雪と紅音がそういうのも当然と言わんばかりの速度で七海は水の中を突き進んでいる。

水と一体化しているような安心感のある泳ぎでターンし、速度が落ちることもなくスパートをかける。

紗雪とスノボをしたときや紅音たちとバンドをしていた時のような高揚感を感じながら、余裕でゴールした七海に手を振り返していた。

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