2話 忠告
雨が続いていたので地面はぐちゃぐちゃだろう。
足元が泥まみれになるのは嫌なので下駄を履いた。
夜中でみんな寝ているだろうから音を立てないように気を付けなくては。
私は静かに戸を開け、頭だけ出して外の様子を確認した。
雨は降っておらず、雲の隙間から満月が出て辺りを明るく照らしていた。
数日ぶりに見た月が満月だったので、ちょっと得した気分になった。
長屋の軒先は長いため、雨に濡れずに厠まで行くことができる。
それでも雨脚が強かったり風が吹けば濡れてしまうので、雨が止んでいるのは嬉しい。
名取の衆の集落は、町や他の集落から離れた山の中に在る。
しかもとても狭い土地に密集して人が住んでいる。
衆長の十三郎の一族や一部の人間以外は、みんな長屋で生活しているのだ。
私は足元に注意し、足音を鳴らさないようにしながら厠に向かった。
長屋の厠は男女両用が三つ、男用の戸のない簡易式のものある。
十三郎様は規律を作り徹底しいる。
なので集落の住居密集地では男がその辺で立ち小便することさえ許さない。
この集落は非常に密集し壁に囲まれているので臭いが籠もりやすいからだ。
最初は男たちは文句を言っていたそうだ。
しかし十三郎様には逆らえず、今ではみんなが厠で用をたす。
私が厠に行くのが億劫なのは、遠いのと濡れるのが嫌であって、怖いからではない。
昼に聞いた便器の穴から手が出て下に引きずり込まれる怪談を信じている訳では断じてない。
それに長屋の厠は他と違うんだし問題ない。
私がお姉ちゃんを誘ったのは甘えたいだけで、決して怖いわけではない。
私はそう自分に言い聞かせて、そそくさと厠に向かった。
いきなり私の肩に生暖かい感触が……えっ? まさか手?
私はいきなりの出来事に全身から血の気が引き、叫び声も出せない。
人間はあまりにも驚くと体が硬直し声も出ないというのは本当だ。
後ろを振り返ることすら怖くてできない。
「おい。聞いているのか?ささら」
聞いたことのある男の声だった。
危うくちびりそうだった。
こっちはおしっこ我慢してんだぞ。
「びっくりさせんなよ、司郎さん。いきなり肩に手を置くなんて意地悪だ。ちゃんと声に出して呼び止めて欲しい」
振り返ると男が怪訝な顔をしていた。
その男は三十過ぎの屈強な筋肉質の大男だ。
彼は松明を片手に私のすぐ後ろに立っていた。
「呼んださ。考え事して俯いて歩いてるから、気付かなかったんだろ」
真後ろだったとはいえ、松明持った男に気が付かなかったとは不覚だった。
「見回りご苦労。それで何? 用が無いのなら、早く厠に行きたいんだけど」
「今夜冷えるからな。別に用は無い。こちらに気付かずに呆と歩いてたから注意したくなってな。忍びたる者は、常に用心を怠るな」
「おうよ。任しとけ」
「返事だけは達者だな」
司郎さんの笑顔が松明に火でゆらゆらと揺れている。
「同年代では随一の実力だぜ。口だけでなく腕も達者だ。今度の任務に私も連れてけ」
私は得意げに右腕を出し左手でポンポンと叩いた。
「十三郎様には言ったか?」
笑顔が一転し、真剣な表情でこちらを見た。
「ただの盗賊なら良いが、鬼関の武器を持っていやつが何人かいるから駄目だってさ。師匠は私を過小評価し過ぎだよな? なんたって随一だぞ」
「お前は鬼関の武器を過小評価し過ぎだ」
司郎さんは微笑みながら私のおでこを大きな拳で小突いた。
まったく痛くなかったが、私は大げさに痛がる振りをした。
「じゃ私は厠に行くわ。俺が良い女だからって覗くなよ」
私は意地悪顔で言った。
「あ、最後に一つ。兵介には気を付けろ」
「あの女たらしは、覗きまでするのか?」
「それは知らんが、あいつの行動は目に余る」
兵介は十七歳の男で、忍びとしては優秀なのだが、女たらしでみんなからの評判は悪い。
衆長の十三郎様は厳格な方で、規律を重んじる。
なのでよく二人は衝突していた。
兵介は同期の女に手を出してお咎めを食らったことがあった。
それ以来、集落の女に闇雲に手を出すことはしなくなった。
だが、その代わりに近くの村や町の女に手を出しているそうだ。
普通ならただの好色野郎で済むのだろう。
でも我々はで忍びあり、他人に正体を知られてしまうこと御法度だ。
その行為は自分の身だけでなく名取の衆全員の身を危険に晒すことになりかねない。
規律を守ることは、結束を固めることでもあるのだ。
「お前たちは年頃なのに女二人だけで住んでるんだから、戸締りはきちんとしろ。名取衆は皆仲間だが、血の繋がった家族じゃない。あいつに限らず規律を破る者もいるからな。それにお前は男の怖さを分かっていない――」
「早く厠に行きたいだが」
話しが長くなりそうなので私は話しを遮った。
尿意の限界だ。人前でお漏らしなんてできない。