序章
この小説には暴力シーンやグロテスクな表現が含まれます。ご注意ください。
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
死が身体を浸食しているというよりも、生が身体から乖離しいるというほうがしっくりくる。
昔は死ぬのがとても怖かった。
なのに、いざ自らの死に直面すると意外に冷静なものだ。
自分が死ぬことに恐怖を感じないのは、血の出し過ぎで頭が回っていないからなのか。
それとも、多くの人を殺めてきたから慣れてしまったからなのだろうか。
私の体からは血が止めどなく流れ落ち、雨で泥濘んだ地面に、錆臭く赤黒い水溜りを作っている。
横たわる私の目の前に一人の男が立っていた。
その男は紅黒い水溜りに膝をつき、血と泥だらけで惨めな姿になった私を何のためらいもなく抱き起こした。
私を腕に抱き、顔を覗き込んだその男は泣いる。
男に涙は似合わないと涙を拭ったが、私の手に付いた血と泥で顔を汚してしまった。
ぴりぴりと痺れていた手足の感覚が徐々に薄れ、じわじわと冷たくなってきた。それが次第に指先から体全体に広がるのを感じる。
痺れが無くなると、傷の痛みも薄れてきた。
痛みが無くなる。
それは触れる物の感覚も失うことでもある。
私を抱く男の腕の温もりや頬を触れる肉刺だらけ掌の感覚を、私はもう感じることもできない。
視覚にも変化が起きた。
男の顔に付いた赤いはずの血が茶色く見える。
それは血の色が変化したのではない。私の目が色を見分けられなくなっているのだ。
私の世界は赤味を失い、世界のすべてが徐々に色褪せていく。
そうして遂には、すべての物が何色なのか判別がつかなった。
色鮮やかった世界が色を失い、灰色世界へ変貌していく。
死は優しさの欠片も無い。
死はその色の亡い灰色の世界すら、私から容赦なく奪っていく。
視界の端からポツポツと白い光の玉が現れて、それが瞬く間に増えていった。
現れたその白い玉は黒い玉に変化して、私から視界を奪い去る。
今の私の視界はもとの四分の一しかなく、目の前の男の顔を見るのが精一杯だ。
感覚や視覚だけでなく、今度は聴覚も鈍ってきた。
この世界は音で溢れているはずなのに、今の私はほとんど聞こえない。
かろうじて聞こえるのは、私を抱く男が私に語り掛ける言葉だけだった。
だが、その声もほとんど聞こえず、遠く間延びしていて何を言っているのか分からない。
まるで洞窟の入り口から奥に居る私に話しているような、そんな感覚だ。
私は男に最後のお願いをした。
空が見たいと。
私は空に向かって手を伸ばす。
雲の隙間から陽光が伸び、空高くには一羽の鳥が優雅に飛んでいた。
それが、私の最後に見た風景だった。
もう……何も見えないし、聞こえない……。
ちゃんと喋れているか自分では分からないが、それでも私は男に言った。
「――、最後までごめん。――をお願い。今まで、ありがとう……」
人は利己的で残酷で愚かな生き物だ。その心は醜く腐臭を放ている。
そして、自分もそうだった……。
死に恐怖がないのは、そんな人間で溢れかえるこの世界から解放されるという安堵があるかもしれない。
それでも、たとえこんな世界でも……心残りは、幾つかあった。
その一つが、美しい空が見れなくなることだ。
あの世と呼ばれる場所が本当に在って、それがこの世の行いで行き先が決まるというのであれば、私が行くのは地獄だろう。
地の国や根の国というのだから、空や草木も無い場所なのかもしれない。
たとえ空があっても日の射さない一面が灰色の曇り空だろう。
私は空を見るのが大好きだった。
淡い桜色の花弁と白色や黄色の蝶が優しい風と舞い踊る、春の青空。
紫から燈まで多彩な雲と茜色から群青色の空に変化する、夏の朝空。
天に落ちる錯覚しまう雲一つないどこまでも澄み切った、秋の碧空。
無数の星々が煌めき数多の星々が落ちる月の無い透明な、冬の夜空。
だけど、私にはもうその空を見ることさえもできない。
なぜなら、私は全てを失ったのだ。
己の命さえも。