第三話
「継大君、今日は少し顔色が悪いね」
毎朝早朝に巡回してくる看護婦がむう、と口を膨らませてそう言った。この看護婦はもう少し年齢を考えたほうがいい。五十を過ぎた女が口を膨らませても何の可愛げもない。俺はその行動を見なかったことにして、看護婦に口を開く。
「詩笑さんは?」
「ああ、あの子は三科先生に呼ばれてね」
「…何、もしかして俺が悪化してるとか?」
詩笑さんというのは俺と奈留川宵の担当をしている看護師で、この看護師と比べてかなり若く、外見だけなら高校生でもまだ通じるんじゃないかというくらいだ。
名前も覚えていないこの看護婦は、俺の自嘲気味な言葉に薄く半笑いを浮かべるだけで否定はしてこない。それが肯定であることを分かっているのだろうか。
「大丈夫よ、すぐに良くなるわ。今日は顔色が悪いから安静にしておくのよ」
看護婦は満面の笑みでそう言う。お決まりの台詞に今度は俺が半笑いをして会釈をした。早くナースステーションに戻ればいいのに。むしろ過労か何かでぶっ倒れて俺の目の前に一生現れないで頂きたい。俺は偽善を偽善と思わない連中が一番嫌いなのだ。
俺の願望が届いたのか、看護婦は奈留川宵のベッドに目を向け、奈留川宵が寝ていることを確認すると「またあとで検診に来るね」とまた胡散臭く笑って病室を出て行った。
「もう一生来んな」
「あら酷い。駄目だろう?仮にも世話してくれてる看護婦さんにそんな口きいちゃあ」
「……いつからいたんですか、ヨルさん」
「んー、割と前から」
俺の吐き出した独り言に返事が返ってきたと思えば、ミシリと俺のベッドに腰を下ろす影。本当に影と言っても過言ではないような黒のコートに黒のダメージジーンズ、黒のブーツとさながら悪の組織、闇社会の人間ですと言わんばかりの全身真っ黒の服装をした中性的な顔立ちの人間。肩ほどまでの綺麗な黒の髪を相変わらず無造作に後ろに一つで結い上げ、へらりと笑みを浮かべている。
アオノヨル。俺がこの人について知っているのはそういう名前だということを、いつもその真っ黒な服装をしていることくらいだ。中性的な顔立ちと低くも高くもない声のせいで性別もわからない。アオノヨルというのが本名なのかすら定かではないが、三科先生と知り合いというようなことも言っていたので、唯一知っている名前は信じておこうと思った。
「で、何しに来たの、ヨルさんは」
「散歩がてら生意気な二重人格少年をからかいにね。また私が病室に入ってきたこと気付かなかったねえ…これで僕の38連勝負け無しー!」
わーぱちぱちぱちー、と馬鹿にするかのように続けるヨルさんに俺は乗せられてはいけないとそっぽを向いた。ヨルさんはいつもこんなふうに意味もなく俺のところに顔を出しに来ては俺の怒りを蓄積させるだけさせて帰っていくのだ。怒らせてやろうという気が前面に出ているからいっそのこと清々しさも覚える。
ヨルさんは一人称が安定していない。だから余計性別が分からず一度訊いたことがある。結局教えてはくれなかったが、その後からの一人称はともかく喋り方もわざと安定させていないんじゃないだろうかとさえ思う。
「ま、継大君じゃなくて今日は珍しくもう一人の方のケイタに話があるんだよねえ、僕」
「ケイタに…?」
「今は起きてるのかな?」
「寝てる。でも俺らは情報を共有し合ってるから俺だけが今聞いてもケイタに筒抜けるよ」
「へえ……便利だけど、不便そうね」
「嘘をつく、隠す、俺らがそんなことする必要性はないから別に問題ない」
「…ほんとうに?」
意味ありげにヨルさんは薄く微笑んで俺の顔を覗く。本当もなにも、俺がそうだと言っているんだからそうに決まっている。ヨルさんが今問いかけた真意が分からない。俺が眉根を寄せて睨みつけるようにヨルさんを見つめると、ヨルさんはふっと吹き出した。
「いやあ、大した信頼関係だなあと思ってね。以前継大くんはもう一人を制御できずに身体の権利渡してもう一人は暴走。その時に起こったことを君は憶えている?憶えていないでしょう。他にも過去の様々な継大君にとって最悪な出来事はもう一人が抱えているはず。それを共有すればきっと君はフラッシュバックを起こすよ。だけどフラッシュバックしていないということはだ、つまり共有なんかされちゃいないのさ。君の情報はもう一人に筒抜けでも、もう一人は情報を選んで君に渡している」
一気に、そう得意げに捲し立てたヨルさんは口角を上げて笑みを貼り付けたまま俺を覗き見て動かない。俺もどうしたらいいのか分からず、ただ視線を逸らしてしまえば確実にヨルさんの言うことを肯定した上で否定することになってしまうと思い、ヨルさんを見つめることしかできなかった。
真っ黒な眼二つに、口元を歪ませた俺が映っている。ヨルさんは一体何を言いたいのか。言っていることはわかる。しかしそんな事を俺に直接言って、何がしたいというのだろうか。
「だから、何だよ」
ようやく吐き出した言葉はやけに震えている。
「あっはっははは!そんなに身構えないでよ!言ったでしょう、からかいに来たんだよって」
「はあ…?」
「ま、そうだね。今までだったら精神に揺さぶりを少しでもかければ、君は怒鳴り散らして麻酔でようやく眠らされるか、すぐにもう一人のケイタ君が出てきて同じく麻酔で強制退場だったろうに、よくまあ数ヶ月で安定して共存できるようになったもんだ」
「ヨルさんさ、いい加減にしてくれないかな」
「精神が強くなってきてる証拠だよ、すごいじゃない。良かったねえ」
「今度同じようなこと言ったら殺すから」
「あはは、継大君が言うと冗談に聞こえないなあ」
俺はヨルさんをキッと睨み上げてから布団を引っ張って、ヨルさんに背を向け布団にくるまる。この人と喋るといつも疲れる。冗談が冗談に聞こえないし、本気が本気に聞こえない。全く掴みどころがなさすぎてうんざりする。でもいつも最終的にはアメを渡してくるのだ。今みたいに。
「ああそうだ、継大君でももう一人でもどっちでもいいんだけど、本当に言うことがあったんだ」
「……何?」
寝返りを売ってヨルさんの方を向くと、ヨルさんは黒いコートをはためかせて立ち上がり、屈託のない笑みを浮かべてくるりとその場で回ってみせた。訝しげにヨルさんを見上げれば、横になったままでいいからちゃんと聞いてね、と念を押される。肯けば、ヨルさんはベッド脇にしゃがみ込み、まるで今から悪戯をしに行く子供のように嬉々として喋り出す。
「これさ、秘密ね。絶対に誰にも喋っちゃいけないよ?」
「いいから何だよ」
「私ねえ、未来を壊す力、持ってるんだよ」
何を突然、突飛なことを言い出すんだろうか。
は?という状態で固まる俺に、そのままヨルさんは続ける。
「頭のイカれたやつだって思った?ねえ、今思ったでしょ。でも残念ながら本当なんだよ。もしこれが漫画みたいな超能力的なものだったら僕すごく喜んだんだけどねえ…でも、もっと現実的な話」
「どういうことだよ?」
「破壊と想像は表裏一体って言葉知ってる?」
「いや、だから分かりやすく、」
「新にそのコード盗られたんだ」
「…三科先生?」
「そそ、三科新、君らの先生。あいつ学会でそれを発表する気みたいで、でもそれ使用用途を間違えばとんでもない事になっちゃうんだよ。僕はもう目をつけられてて新から取り返すことができない…でも継大君ともう一人の君も、身体能力が恐ろしくいいだろう?代わりに取り返して欲しいんだ」
突然の話すぎて、意味が分からなすぎて話についていけない。元々ヨルさんのことも何も知らないのに、コードがどうのと言われても困る。俺はただの一精神患者だが、思考能力が一般人より劣っている事はないと思う。リアリティな話だと言っていたけど、全然現実味がない気がするのは気のせいなのだろうか。
そもそも、この話もヨルさんが俺をからかうためだけに作っているのかもしれない。ああきっとそうだ。その結論なら納得も合点もいく。
「ま、学会まではまだもう少し時間があるから…君も知り合って数週間の人間の話を信じられないだろうしね」
「まあ、ヨルさんのこと名前以外知らないしね」
「ひとつだけ忠告しておくよ。新が継大君とそこの女の子だけを新病棟に隔離したのは、きっと君達を実験台にする気だ」
「は?実験台…?」
「見たんだ、君達のカルテ…病状・処置・経過、そこに至るまでの経緯。実験台にはぴったりだ。天涯孤独で精神患者。精神なんて人間の一番曖昧な部分だろう。結果が失敗してもどうとでも理由を後付けできる」
「何だよ、それ」
「ここじゃあ詳しい話するのは難しいから、明後日のこの時間、気が向いたら散歩がてら裏庭の方に来てよ。そこから外に抜けれるから、外で詳しい話をしよう」
ヨルさんはいつになく周囲に気を配りながら、若干早口でそう言うと最後ににこりと笑って窓枠に脚をかけた。そしてじゃあね、と手を振って外に飛び出していく。
一気に静かになった病室で、俺はただ惚けたように開け放ったままの窓を見つめ、それから眉根を寄せる。さていよいよ分からない。急な話の展開に、俺は布団に入り直して天井を見つめ、呟く。
「ケイタ、起きてる?」
『少し前からな』
「今の話って何?下手な短編小説の話?」
『どっちかっていうと売れずに廃版になった小説だろうな』
「…そうじゃなくて、事実だと思うか?それともヨルさんが適当に作り上げた架空の話か」
『知らねえ。明後日になりゃ分かるんじゃねえの?』
それもそうか。と俺は自分を無理やり納得させる。
しかし頭の中では、天涯孤独な精神患者は実験台にはうってつけだと言うヨルさんの言葉がぐるぐると回る。それはつまりいてもいなくてもどうなろうと、どうでもいい存在ということだ。
『継大、顔色悪ぃぞ』
ついさっき看護師に言われたことと同じことを言われ、俺は苦笑するしかなかった。