第一話
まあ何というか、いつもの如く俺――境井継大の真向かいのベッドに寝ていた女が突然発狂した。普通ならあり得ないようなことでもこの病院内では至って日常的な普通のことである。
この女が今日も今日とて発狂し出すだろうということは予想の範疇だった。
発狂といっても気狂いしたわけではないし、言い方が悪いが頭がおかしい人間でもない。彼女は至って普通の平凡な人間だ。…俺にしてみればの話だが。
俺は携帯をカチカチと弄りながら、ちらりとその女――奈留川宵に目を向けて口を開く。
「今日はどうしたの宵」
「呼び捨てにすんな餓鬼!」
「…宵、さん、が今日の朝呼び捨てにしろって言ったんだけど」
「はあ?寝惚けてたんじゃない?それより…ねえ、何で私こんな場所にいるわけ!?あんたと同じ部屋なんて死ぬより嫌!早く出てってよ殺すわよ!」
「俺だって嫌だよ。宵さんみたいなヒステリーな女なんて」
「はあ!?あんたムカつく!殺す!」
殺すなんて物騒な真似、例え脅し文句であってもやめて欲しい。俺は平和主義者なんだ。いや、もう一人の俺はどうだか分からないけれど。
殺人鬼の如く俺を睨み付ける奈留川宵に、俺は冗談抜きで今にも殺されそうな気がした。この奈留川宵は危険だということを俺は身を持って知っている。
俺は溜め息と共に携帯を閉じて、直ぐ様ナースコールを押した。
俺も奈留川宵も、自分の中にこの人格とは別の人格が存在している。面倒なのは、奈留川宵は自分がそういった人間であることを知らず、更にはその別の人格が不特定の多重人格だということだ。
何でこんな女と同室になってしまったのだろうか。俺はつい最近まで本気で凹んでいた。それまでは一人部屋で、自由で有意義でのんびりとした入院生活を送れていたというのに。
ナースコールで飛んできた看護婦は、僅か数分で発狂している奈留川宵をいとも簡単に言いくるめて眠りに就かせ、俺ににこりと笑顔を向ける。
「ありがとうね継大君」
「別に。五月蝿かったから」
「じゃあまた何かあったら呼んでね。すぐ後に検診で来るけど」
「うん」
俺は看護婦の顔を見ずに頷いた。
病室が静かになり、奈留川宵の規則正しい寝息が聞こえてきた。奈留川宵は何であんなに人格が生まれたんだろうか。なんてどうでもいいことを、その寝息を聞きながら考える。
この病院に入院している人達はひとつのルールを与えられる。それは詮索しないことだ。
自分から自分の話をするのは一向に構わないけど、他人の話を聞くことは許されない。それが引き金となってトラウマを甦らせてしまうかもしれないから、らしい。
フラッシュバックは当人にとっては最悪とも呼べる苦痛だし、周囲からしたら困惑するだけでいいことは何一つないのだから、それは正しいルールなのだろう。
だから俺は奈留川宵について何も知らないし、奈留川宵も俺のことを知らない。お互いに知ろうともしていない。
同じ空間で生きているのに俺達は全くの無関係、素晴らしいくらいに他人だ。