壱、
それは幸いだったのだろう。
その金切り声に、不審に思った町の墓守の老人が見に来て、私たちを発見してお屋敷に伝えてくれたのだった。
お屋敷からの使いの人たちが、私たちを屋敷まで連れて帰り、紅さまは居室の寝台上で、薬師の治療を受けていた。
わたしはというと、放心状態が続いて、促されてようやく、お湯殿で体を清めて、元の侍女の服を着込んだ。
「よく、見つけてくれましたね」
泣きはらしたわたしの顔に蓮さまはいたわるようにいった。
わたしはうつむいてぶんぶんと頭を振っていた。
「父が、ここによってきてバカ息子を成敗してくれたといったときはわたしも、焦りましてね。あの父はどこかがいかれている人ですから、剣で聞かなければならないと思って、気だけが競って気がついたら口が利けないほど痛めつけてしまっていた……」
蓮さまは苦笑気味にそういって、机に用意された急須にお湯を入れてお茶を二つ入れた。
本当はわたしの仕事なのに、なんで体は動かないの。
「どうぞ。すこし温かいものでも飲んで体の力を抜いて。あれは大丈夫だよ」
紅さまの傷はひどいものだった。
右から左は斜めに切られ、あとすこし入っていれば、死は免れなかっただろう。
そして、とっさに後ろに跳び退って刃の入りを浅くしたのだろうと、ざっと状態をみた薬師の人がいっていた。
「でも……」
「大丈夫。私たちの一族のものは皆傷の治りが早いんだよ」
それに、そこらの虫並みの生命力もあるからと朗らかに笑ってみせた蓮さまにわたしはなにも返せずに、ただ、入れてもらったお茶を両手に持って、静かにすすった。
「……そうだ。先ほど、いったことですが」
わたしは顔を上げてそれに応じる。おそらく、置き手紙のことだろう。
「私どもの父、先ほどもいったように頭がおかしくて、虫の居所が悪いだけで村や町に下って人を切り殺していた」
「……」
なにもいわずにわたしは蓮さまを見上げる。蓮さまはそっと目を伏せて眉を寄せた。
「私の母も、そのせいで……。紅の母親は、紅の目の前で殺されて……」
「え?」
かすれた声に、なってしまった。蓮さまはさびしげに笑ってそっと目を閉じた。
「自分の中にも、あの男の血が入っているなんて信じたくないんです。紅は特に。でも、その姿は父の生き写しで……」
そう呟いた、蓮さまは涙を流しているように見えた。
だけれども蓮さまは泣いているわけもなく、ただ小さく笑ってみせて目を開いてわたしを優しく見つめた。
「おそらくあなたもそこの町の出身なのでしょう。町人が、ユゥイに似ているといっていましたから」
「ユゥイ……」
つぶやいても、懐かしさも何ともない。蓮さまを見上げると、憔悴しきった青ざめた顔で肩をすくめた。
「おそらくあなたの本当の名前。字はわかりませんが」
「……わたしにはもう、紅さまがつけてくださった名前があります」
「ええ。それでも、名は父母からの贈り物。大切に胸の中にしまっておいてください」
優しく笑った蓮さまにわたしはこくりとうなずいてぬるくなったお茶を見下ろした。
「蓮」
落ち着いた、薬師の声。
はっと顔を上げると、難しい会話を蓮さまと薬師がして、そして、その会話が一段楽したところで蓮さまがわたしにうなずきかけてくれた。
「今は意識がなく、傷が膿んでいて大変な状態らしいですが、とりあえず大丈夫みたいです。さ、いっておやりなさい」
温かいその言葉にわたしはうんとうなずいてお茶を置いて、蓮さまの居室を抜けてすこし離れたところにある紅さまの居室に入って寝室に足を踏み入れた。
「う」
かすかなうめき声が聞こえる。
そろそろと移動して寝台の側に座ると、包帯に覆われた肩がすこしだけ布団から出ていた。
「紅さま」
と呟いても答えるべき人は深い闇のそこにたゆたっている。
布団を首元までかけてやると紅さまはかすかに目を開いてぼんやりと天井を見上げた。
「紅、さま?」
小さく呼びかけると、紅さまは左手を出して、痛みに顔をゆがめながらこちらに差し出してきた。
「どうしました? お水でも?」
その言葉に紅さまは小さく首を振りながら辛そうに目を細めた。
ぎゅっと体の奥が締め付けられるような感覚。
震える大きな指先をそっと包み込みながら、わたしはしっかりと握っていた。
「紅、さま?」
紅さまは指先の感触にすこしだけ、眉によっていたしわを解いたようだった。
雨に打たれて、そして傷が膿んで熱が出ているのだろう。
荒い呼吸の中にも安堵の吐息をほうと漏らしてそのまますとんと寝台に体を預けて眠ってしまっていた。
「焔さん」
背中から優しい声が降ってきた。
わたしを最初に案内してくれた侍女の先輩、春さんだ。
「今日から紅様の身の回りのお世話をしなさい」
うんとうなずいて、わたしは春さんを見上げる。
「大丈夫。あなたがしていた仕事は私が引き受けるから。あと、あのバカ娘やったみたいね。一人減ってしまったけれども暇している侍女は多いのよ?」
あなたと違ってねと笑う春さんにわたしはすこしだけ笑ってこくりとうなずいて、お願いしますと頭を下げた。
春さんは笑いながらうなずいて、ふと、紅さまの左手、わたしが握っている手に目を向けた。
「それは紅様が?」
驚いた様子の春さんにわたしはうなずいて、笑った。
「そう。ならばなおさら側にいて差し上げなさい」
深い声の春さんはなぜか泣きそうに眉を下げてそういって、あと忙しいからと外に出て行ってしまった。
「紅、さま」
高い熱にかすれた声を上げてうめき、眠っている紅さまの手をきゅと握り締める。
まだ、この冷たい手には力がない。
だけれども、絶対回復してわたしの手を握ってくださる。
わたしはそう思って、片手を彼の手に残して、もう片手で汗に凝った額をそっと、ぬらした手ぬぐいで拭いていく――。