壱、
「焔」
「……ぁい」
一応口を動かしてそういう。言葉ではないがそれでも声を聞いてもらいたくてわたしはいう。
紅さまとわたしは不思議なほど合った。
割れた石の破片がぴたりとはまってもとの石を形付くるような不思議な感覚。
「これを兄上のところに届けてくる。君はここで待っていてくれ」
うなずいて紅さまが出て行くのを見送る。
ここに連れてこられてもう数ヶ月が経つ。
夏の一雨が待ち遠しい日差しが和らぎ厳しい冬の気配をにおわす秋がすぐそこまで来ていた。
ここの屋敷の人たちはみんな優しかった。
侍女以下の仕事をしてきたわたしに、根気よく仕事を教えてくれ、また、普通に話しかけてくれる。
それは、侍女などの下働きだけではなく、紅さまをはじめ蓮さまや、蓮さまの奥方様もそういう方だった。
なんとなく、わたしの家を思い出した。
わたしの家も、記憶が確かなら、ここまで大きくないものの侍女はいて、家事を手伝ってくれて、わたしの相手もしてくれていた。
「焔さん」
振り向くとすこし気位の高い侍女の一人がいた。正直、わたしはこの人が苦手だ。
「ああいうのは私たちが行くの。わたしがやりますといって、手の書状をとって蓮さまのところに行くのよ?」
すこしきつめの口調にうなずいて謝るように頭を下げる。
「本当に、声でないの?」
バカにするようなその声。
わたしには慣れたその声音。わたしは頭を上げてうなずく。
「こんなに立派なのどがあるのに、何故出ないのかしらね?」
ぬっと白い手が伸びて、わたしののどをつかもうとする。
「あっ!」
わたしはなにが起こったのかわからずにのどをつかまれていた。
途端にこみ上げてくる嘔吐感。わたしは顔をゆがめて手をばたつかせていた。
「あ、……あい、で!」
あかんぼうがうにゃうにゃいっているような声でわたしは抵抗する。
どうしても、のど元や、首を触られるのは嫌いだった。それは、父母を殺されたときにわたし自身ものどをつかまれ殺されそうになったからだろう。
「ほら、声出るんじゃない?」
わたしが本気で嫌がっているのをみて小気味よさそうに笑う彼女。そんな人だったのか。
わたしがばたばたと手をさせているのにもかまわずに、彼女はのどをつかむ指に力をこめて、本当にのどを握ってきた。
「ああああ!」
瞬間膨れ上がる恐怖。
わたしはなにも考えられなくなって、こぶしを握って振り回していた。
「危ないじゃない?」
彼女はそういって、息が詰まらない程度に握ってくる。その時だった。
「なにをしている!」
鋭い声に、彼女はハッとした顔をしてぱっと離れた。わたしは、ただ狂乱の中にいてわからなかった。
「ああああ!」
暴れるわたしをみて紅さまは驚いた顔をしていたのだと思う。
そして、わたしののど元についた赤い手跡に、紅さまは、あろうことかその侍女の頬を打った。
「貴様はなにをしている!」
怒鳴る紅さまに侍女は屈辱に顔を赤くさせて、声を震わせて申し訳ございません。からかいがすぎました。と白々しくいってみせる。
それでも、紅さまの気は治まらない。
「もうどこへと行くがよい。私はもう貴様の顔などみたくはない」
そういうと侍女を部屋から追い払い、泣き叫び壁にもたれてがたがたと体を震わせるわたしにそっと近づいてきた。
「大丈夫だ。焔」
「いや、いや」
その時は確かに言葉をしゃべれた。頭を両手で抱えて首を振っていた。
紅さまは、わたしに目線を合わせるように床に膝をついてわたしの顔を、涙と鼻水でひどいことになっている顔を覗き込んだ。
「焔」
優しい声音。わたしはぼろぼろと涙を流しながら紅さまの優しいお顔をみる。
お兄様である蓮さまよりはするどく整って、すこし近づくことをためらわれるような顔立ちは、時にびっくりするぐらい優しい表情をされる。
「もう、大丈夫だ」
そういってわたしに両手を差し伸べてそっと抱きこんでくれる。近くにあるはずのぬくもりが遠くにあるような気がした。
わたしは彼の腕の中に長い時間いたんだと思う。
そして、気がついたときには、紅さまが使われているふかふかの寝台の上で寝ていた。
「焔、いるか?」
蓮さまのすこし焦った声。わたしは慌てて体を起こして、着衣の乱れがないかを確認したあと、寝室から出た。
「ここにいたか。紅は、そこにいるか?」
わたしは首を横に振った。
いつの間にか日が暮れていて、真っ暗な闇の中、大粒の雨が降り出していた。
「くそ、あいつどこに家出した?」
めずらしく悪態をつく彼に首をかしげて机の上に書き置きがあることに気づいて目を通した。
「焔?」
「……わる、かった? イエン、の、ふぼ、ころした、の、は、……わが、ちち?」
声が出ることにも驚いたが、その内容にも驚いた。
「……父上が君の父母にも手をかけていたのか?」
「ちち、うえ」
まだ、かすれる声で首をかしげると、蓮さまは嫌な予感がするといって、詳しい話は紅が戻ったらするといって部屋を出て行ってしまった。