壱、
そして蓮さまの案内で屋敷をざっとみた。
温かくて、それでいて、雨風のちゃんとしのげる立派なお屋敷だった。聞けば、蓮さまはこのお屋敷のある地域の領主をしているらしい。道理で立派なお屋敷だと思った。
「そして、ここが君に頼みたい人の部屋だ。紅、入るぞ」
そういって蓮さまは広いお屋敷を説明しながら歩いて、とある扉を開けて自分が入ると、扉を押さえてわたしが入るのを待っていてくれた。
「なんです? 兄上」
部屋の奥から男の人の声が聞こえる。
髪をまとめたまま、昼寝でもしていたのか。まとめきれずに顔を覆っている烏羽のような髪に寝癖のつけたその人は出てきた。
彼は、蓮さまとは対照的に鋭く整った顔立ちに険をにじませて蓮さまを見、わたしを見る。
「……この子は?」
「今日からおまえの世話をしてもらう子だ。えっと、名前は?」
わたしは首を振ってきょとんとした。
侍女に名前などあるのだろうか。逆に聞きたい気分だった。
「……もしかして名前が?」
蓮さまの呆然とした声にわたしはこくりとうなずくと、蓮さまの弟君でいらっしゃる、わたしと同じか、すこし上の年の男の人を見上げた。
「……焔」
「え?」
男の人は、そういってわたしの髪に手を伸ばした。わたしの髪はどこの血を引いているのか、夕日色だった。
「おまえの名は、今日から焔だ」
吸い込まれるような黒い瞳にわたしは我知らずに目を奪われていて、そして、こくりとうなずいていた。
「声が出ないと?」
わたしはもう一度うなずく。
男の人はすこし困ったように眉を寄せて、蓮さまを呆れたような目でみた。
「もしかして、ボクが前の侍女がうるさいといったからですか?」
「いや、それもあるが、今日帰ってきたらちょうどこの子が来ていてね。年も近いから友達にも良いと思って」
「余計なおせっかいを」
「親切な親心さ」
きらんと玉が鳴る音がしそうなほど鮮やかに微笑んだ蓮さまに、男の人は深くため息をついて、わたしの肩に手を回して中に案内した。
「ということで、私はもう行くからな」
「はい。ご苦労様でした」
温かくて大きな手に肩をつかまれてわたしは無意識に男の人に寄り添っていた。
「……ということで、まず君は……。お湯殿で体を清めてきなさい」
「お……」
ゆどの? と唇を動かす。
そうすると男の人は目を瞬かせて額に手を当てた。言葉を選んでいるようだ。
「体を清めるのに、川に行くだろう?」
こくりとうなずく。わたしは川で泳ぐのが大好きだ。
「そこまで行くのはここでは面倒だから、水を引いてあるんだ。その水をすこし温めて、ためてあるのだが……そこですこし行水をしてきなさい」
噛み砕いた言葉でそういってくれる彼の言葉に、わたしはこくんとうなずいて、案内されたお湯殿なる場所に入って、初めての温水を堪能した。
「心地よかったか?」
邪魔にならないように定期的に切っている髪を綿の布で包んで、今まで来ていた衣よりもずっと柔らかで温かい衣に身を包んだわたしは、彼の側によってうなずいていた。
「そうか。ならばよかった。……ボクの名は紅、という。覚えていてくれ」
そういってはにかんだ彼にわたしはうなずいて一礼した。
「そんなにかしこまらなくて良い。……これからは楽にしていてくれ。すこし聞きたいことがあるのだが、いいか?」
首をかしげてみせると、紅さまはすこしいいにくそうにしながら口を開いた。
「声は、まったくでないのか?」
その言葉にわたしは首をかしげて肩をすくめた。
正直、どこまで出るのかはわからなかった。
今までそんなものが必要な職業ではなかったから。
「ボクの名をいってごらん」
「……ォン…ぁ…ぁ」
やっぱり出ない。音の残滓の音が出るだけで、まったく言葉ではなかった。
のどに手を当てて目を伏せたわたしに、彼は目を細めて小さく笑った。
「大丈夫。これから出るようになる。完全に音が出てないようならばそうはいえないが、ちゃんと音は出てるから」
ゆっくり出せるように練習しなさいと優しくいった彼に、わたしはこくんとうなずいていた。
これが、ご主人様の紅さまとのはじめての日のことだった。