参、
「そこまでだ」
鋭い声が、辺りに響き渡る。
人垣が屋敷の方向からぱっくり割れて栗毛の馬が見えた。
「兄上」
紅さまの驚いた声。
栗毛の馬に乗っていたのは蓮さまだった。
呉藍の、紅さまがよくお召しになられている衣とよく似た染め抜きのされた衣を身にまとい、出かけるのだろうか、贅の凝らされた剣を腰に佩いている。
「朝早くから何事かと思えば、よってたかって十八の男を打っているのか」
蓮さまは厳しい口調でそういうと紅さまに馬の綱を渡してわたしを視線で示す。
「一度帰ってなさい」
「……はい」
紅さまは一礼すると、わたしをみた。
わたしは蓮さまをみて、庄屋さんをみて、もう一度蓮さまをみた。
「お願いします」
「先ほどから話は聞かせてもらっていた」
小さくなった庄屋さんを前に、領主としての顔になった蓮さまに一礼して、わたしは紅さまに飛びつくように駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
馬の手綱を握って呆けたようにしている紅さまにそう尋ねると紅さまは目を瞬かせて、ほうと息をついてうなずいた。
「ボクは大事だ。なぜ……?」
「わたしは、朝起きたらだれもいなくて外に出たら、こうなっていたんですけど……」
「兄上が謀ったのか」
苦々しい顔でそういった紅さまは馬を引きながら屋敷に帰ろうとした。
「お供します」
「いや、良い。キミはもうボクの侍女ではないのだから。今日は助かった」
そういって頭を下げた紅さまはわたしに背中を向けて行こうとした。
「なぜ……」
「キミはボクの傍にいたくないから出ていったのだろう? ならばここでさようならだ」
紅さまは振り返ってそういう。
振り返ったその顔は諦めがついたような、どこか吹っ切れた顔だった。――悲しいお顔。
わたしはただ頭を振るしかできなかった。
「ボクはそういったつもりだが?」
あの時にと付け足された言葉に、わたしは、声を出そうとした。
――でも、出ない。
何故、と思ったときには遅かった。頬が熱かった。
「焔?」
不思議そうな声。聞きなれた言葉は、懐かしく、胸を締め付ける。
「そんな、そんな……」
それだけしかいえないわたしに紅さまは困った顔をした。
紅さまは馬の手綱を握ったまま、もう片手でわたしの頬に触れた。冷たい手だった。
「何故、泣く?」
その手がわたしの頬を包み込む。
そして、すこしだけ硬い親指でわたしの目元をぬぐう。優しい手で拭われてもあふれ出す雫は止まらない。
「……」
困り果てて紅さまは眉尻を下げた。すこしだけ泣きそうにも見えるその表情は思いのほか幼い。
「あた……わたしは、わたしは、そんなつもりで出て行ったのでは……ありません」
嗚咽を噛み殺しながらそういうと、紅さまは目を見開いて首をかしげる。
「わたしは、……紅さまのお邪魔になるのではないかと、そう思って。ただ、もうわたしなんかいらないのだと思って」
うつむいて、わたしはそれだけをいって目をぎゅっとつぶった。
長い時間そうしていたんだと思う。
ぎゅっと握った自分のこぶしは冷たく刺すような痛みを訴え、雫にぬれた頬は凍りそうなほどだった。
聞こえたのは深い、深いため息。そのため息が震えているのは寒さのせいなの。
そのため息に溶けた言葉は聞こえなかった。
別れの言葉だと思って、わたしは、恐怖をこらえて顔を上げた。その時だった。
頬に触れていた紅さまの手がわたしのうなじに回ってぐっと引き寄せられた。
もつれるように倒れこむと、そこには、紅さまの胸があった。
手や、頬は冷たいのに何故、ここだけは温かいの。
我知らずに吐息を漏らしてしがみついていた。温かくて、暖かくて、もう離したくないと思った。
「なんてバカなんだおまえは」
とくとくと早い胸の音が聞こえる。力強い、それでいて、震えた音。同じだけの速さで私のも鳴っている。
「……」
強く抱きこまれる。
これほどの強い力で抱きしめられて苦しくない人がいるだろうか。
それとも、苦しいのは力だけではないからだろうか。
胸がぎゅうっと締め付けられて、なんだか泣きたくなる。実際、もう泣いてしまっているのだけれど。
「いや、ボクがバカだった。キミは、あんな風な恨みの心など、持っていないんだな」
深い声音に抱き込まれた胸から見上げると、鋭い顎先しか見えなかった。だけれども――。
「紅、さま……?」
ぽたりと冷たい雫がわたしの頬に降ってきた。
それは、紅さまのあご先から、わたしの頬へ降る冷たい雫。
紅さまは、わたしの髪に顔を埋めるようにして声を震わせはじめた。
「申し訳ない。ボクは疑いすぎていた」
彼の涙声をざっと簡単にすると、そういうことらしかった。
「……ここは寒い。とりあえず帰ろう」
しばらくして落ち着いたころには、二人ともすっかり冷え切って、そういった紅さまにわたしは涙をぬぐってこくんとうなずいた。
紅さまの白い面が、寒さに赤くなっている。
「あ」
紅さまが自分の手をみて声を上げた。何事かと思ったが、すぐに思い当たった。
「う、馬は……?」
紅さまは、しまったという顔を作って辺りを見回した。そこにはもう馬の姿は見えなかった。
「……兄上に怒られる」
焦りを含んだ声が、遠くでかき消される。
「紅! おまえ、馬逃がしやがったな!」
と、遠くで馬を駆らせて、脱走した馬を追っているのは薬師の人だった。
なぜ、そんなぞんざいな口を利けるのだろうか。
それが顔に出ていたらしい。紅さまはわたしを引き寄せて苦笑した。
「気を悪くするな。あれは、ボクのもう一人の兄。父親違いだから、あまり似ていないが」
ボクは父親に似ているからなと皮肉っていう彼のわき腹をつついて首を横に振った。
「だれに似ていようが、紅さまは紅さまです」
元気に馬で駆けずり回っている薬師、たしか陽さんだったか、をみていた紅さまはしばらくそうしていたが、ふっと肩の力を抜いた。
「そのとおりだな。ボクはボクだ。父親の代わりでもなんでもないんだ」
ようやく眉のしわを解いてやわらかい表情をした紅さまのお顔は、驚くほど蓮さまに似ていた。
「あなたさまもずっとそう思っていて、気づかなかったのであれば、周りはずっと深いのでしょうね」
「ああ。そうだな」
屋敷に向かって歩き出した私たちは、あとで陽さんの皮肉と、蓮さまの叱責をそろって受けた。




