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私の婚約披露パーティーで、婚約者は親友と誓いを交わした。

作者: 熾星
掲載日:2026/10/16



 婚約披露パーティーで、私の婚約者は親友の手を取って会場の中央に立っていた。


 司会者に促され、二人はこの日のために用意されていたメッセージを読み上げた。水原莉央が着ていた白いドレスは、衣装合わせのときに私がいちばん気に入っていたものだった。


 その隣には、柏木遼平。


 私は少し離れた場所で、控えめなシルクのワンピースを着て立っていた。


 事情を知らないゲストの中には、私を受付を手伝っている友人だと思った人までいた。


 本来なら、遼平の隣にいるはずだったのは私だ。


 高校時代から付き合って、八年。


 いつか結婚しようと何度も話してきた相手が、別の女性の手を取っている。


 途中で遼平がステージを下りてきた。


「莉央の新作、ちょうど婚約とか結婚式の場面を書いてるんだって。実際の空気を知りたいらしいから、今日くらい付き合ってやってよ」


 私の顔を見て、声を少し落とす。


「本番の結婚式で隣にいるのは真帆なんだから」


 八年間、何度も見てきた顔なのに。


 目の前にいる人が、ずいぶん遠く見えた。


 前に式場のブライダルフェアへ行ったときも、莉央は「小説のために模擬挙式を体験したい」と言った。


 ウェディングドレスを着て、バージンロードを歩いてみたい、と。


 遼平は笑って付き合った。


 そして今日は、婚約披露パーティーの空気を知りたいと言われ、また隣に立っている。


 私と遼平の八年間は、少しずつ莉央の「実体験」に変わっていた。


 ステージの上で、司会者が微笑む。


「それでは、お二人で記念ボードにサインをお願いします」


 莉央が遼平を見る。


 二人は笑いながらペンを取った。


 会場に拍手が広がる。


 私は握りしめていた手をほどいた。


 もう、この人と先の人生を歩くつもりはなかった。



1



 会場を出ても、背後ではまだ拍手が続いていた。


 入口付近では、小声で話すゲストの声が聞こえる。


「ウェルカムボードの人と違わない?」


「白いドレスの人が婚約者じゃないの?」


 足を止める理由もなく、そのままホテルを出た。


 莉央が着ていたあのドレスは、衣装合わせで私が真っ先に目を留めたものだった。


 けれど遼平は、


「婚約のお披露目だけでこれはちょっと華やかすぎない?」


 そう言った。


 私も納得して、今着ているシンプルなドレスを選んだ。


 その「華やかすぎる」一着が、今日は莉央のものになっていた。


 ホテルの外には、私と遼平の写真を使ったウェルカムボードが置かれている。


 撮影した日、私は遼平の肩に寄りかかり、彼は私を見ながら笑っていた。


 カメラマンが、


「新郎さん、真帆さんしか見えてませんね」


 とからかって、みんなで笑った。


 視線を外し、タクシーへ乗り込む。


 車が走り出してすぐ、LINEが届いた。


「どこ行った?」


「さっきはステージの上だったから追えなかった。莉央一人だけ残すのも変だろ」


「もうすぐ終わるから戻ってきて。あと挨拶と写真、それからケーキが残ってる」


 画面を見つめた。


 莉央が一人で立つのは気まずい。


 それは気になるらしい。


 自分の婚約披露パーティーで居場所をなくした私が、どんな顔をして会場を出たのか。


 そこには触れていない。


 返信欄を開く。


「戻らない」


 指が止まった。


 そのまま続ける。


「婚約もやめる」


 送信した途端、電話が鳴った。


「真帆、自分が何言ってるか分かってる?」


 出るなり、遼平はそう言った。


「みんな来てるんだぞ。いきなり帰って、どうするんだよ」


「戻らない」


「子どもじゃないんだからさ」


 声を潜めながらも、苛立ちは隠れていなかった。


「知り合いも仕事関係も来てる。嫌なことがあったからって、途中で全部放り出すのは違うだろ」


 窓の外を流れていく街を見た。


「じゃあ、そっちで好きにして」


 少し間が空く。


 遼平の声が柔らかくなった。


「……言い方きつかった。悪かった」


「戻ってきてよ。今日の主役は真帆だろ? 残りは一緒にやればいいし、さっきのことも莉央の取材に一回付き合っただけだって」


 向こうで、莉央の高い声が響いた。


「遼平!」


 遼平の言葉が止まる。


「莉央?」


 通話が切れた。


 黒くなった画面を見つめる。


 彼女が呼べば、すぐそちらへ行く。


 私は自分の婚約披露パーティーからいなくなったのに、遼平が気にしているのはゲストと進行、それから莉央の居心地だった。


 胸の奥に張りついていたものが、静かに剥がれていった。



2



 高校時代から仲のいい友人たちのLINEグループが騒がしくなっていた。


「真帆、今日って遼平との婚約パーティーだよね?」


「莉央のInstagram見た?」


「何があったの?」


 アプリを開く。


 莉央はもう写真を上げていた。


 誓いのメッセージを読むところ、記念ボードにサインするところ、二人でケーキにナイフを入れるところ。


 中央には、遼平の隣で笑う莉央が写っていた。


 投稿にはこう書かれていた。


「大好きな親友のおかげで、新作のために本物みたいな婚約パーティーを体験できました♡ これで主人公たちもちゃんと書けそう!」


 共通の知人から、すでにいくつもコメントがついている。


「普通にお似合い」


「事情知らなかったら二人が婚約したのかと思う」


「高校の頃から、この二人そのうち付き合うと思ってた」


 莉央は全員にまとめて返していた。


「違うよー! 今日の主役は真帆! 私はあくまで取材です!」


 思わず乾いた笑いが出た。


 主役が誰なのか、一応覚えてはいるらしい。


 LINEグループでは、昔の話まで掘り返されていた。


「高校の頃から莉央って遼平のこと好きっぽくなかった?」


「一緒に帰ってるところよく見たよね」


「二人付き合ってるの? って聞かれても、莉央って否定しなかったし」


「真帆はずっと幼なじみだからって言ってたけど」


 握っていたスマートフォンが冷たく感じる。


 遼平と莉央は家が近く、親同士も昔から知り合いだった。


 趣味も合う。


 高校では二人が付き合っていると思っていた人も多かった。


 私は、その関係の途中から加わった。


 莉央から着信が入る。


「真帆、怒ってる?」


 声はやけに小さかった。


「Instagramのコメントは気にしないでね。みんな何も知らないから。ちゃんと、今日の主役は真帆だって書いたし」


 少し間を置いてから、さらに続ける。


「それより、戻ってきたほうがいいよ。あと……遼平には謝ったほうがいいかも」


「どうして?」


 電話の向こうが静かになる。


「だって、何も言わずに帰ったじゃない。みんな遼平に聞くから、かなり困ってるよ」


 すぐに声が変わった。


 遼平が電話を取ったらしい。


「真帆、莉央に当たるなよ」


 低い声だった。


「今日だって、莉央が場をつないでくれたから何とかなったんだ。真帆が急に帰ったら、みんな困るだろ」


 聞いているうちに、怒りより先に呆れが湧いた。


 莉央が私の選んだ服を着る。


 私の婚約者の隣に立つ。


 二人で誓いの言葉を読む。


 それを見て帰った私が、なぜか謝る側になる。


 目の奥が熱くなった。


 けれど声は静かだった。


「遼平、もう終わりにしよう」


 電話の向こうが止まる。


「婚約も解消する」


 数秒後、莉央のすすり泣く声が聞こえた。


 遼平がそちらへ向き直る。


「泣くなって。真帆、今は頭に血が上ってるだけだから」


「お前のこと本気で責めてるわけじゃない。夜になったら俺が話す」


 少しして、低く笑う気配がした。


「真帆なら落ち着けば大丈夫」


 私は窓を開けた。


 走行音と風が一気に車内へ入ってくる。


 八年間、私は遼平と大きな喧嘩をほとんどしてこなかった。


 嫌なことがあっても、少し距離を置けば落ち着いた。


 遼平が迎えに来て、抱きしめて、謝れば、そのまま関係を続けてきた。


 彼の中では、今日もその延長なのだろう。


 タクシーがマンションの前に着いた。


 運転手がバックミラー越しに何度かこちらを見て、口を開く。


「詳しいことは分からないけどさ」


 少し困ったように笑った。


「自分の大事な日にこんな顔させる相手なら、離れたほうが楽になることもあるよ」


 私は目を伏せた。


「……ありがとうございます」


「今日はあったかいものでも食べて、寝な」


 その言葉だけで、また泣きそうになった。



3



 玄関に入って、すぐには靴を脱げなかった。


 壁には、色の薄くなった付箋が残っている。


 遼平が数年前に書いたものだ。


「真帆が毎日、ここを家だと思えるようにする」


 私は幼い頃に両親を亡くした。


 その後は伯父の小野寺隆夫と、伯母の和子に育ててもらった。


 遼平は、私が「家」という言葉にどれだけ執着していたか知っている。


 働き始めた頃、彼は無茶なくらい仕事をしていた。


 取引先との会食で飲みすぎ、胃を悪くしたこともある。


 その夜、病院から帰る途中で遼平は私を抱きしめた。


「真帆にちゃんとした家を作りたいんだよ」


「子どもの頃に足りなかった分も、これから少しずつ埋めていけばいいだろ」


 あの頃は、愛されていることを疑ったことがなかった。


 けれど改めて部屋を見回すと、小さな変化がいくつも見つかった。


 食卓に飾っていた私の好きな紫陽花は、いつの間にか莉央の好きなかすみ草に変わっている。


 テレビ台の端には私と遼平の写真。


 中央に置かれているのは、同窓会で撮った遼平と莉央の大きな写真だった。


 私が作った陶器のカップも棚の中へ移され、その場所には莉央の新刊が置かれている。


 一つずつなら、理由はいくらでもつけられた。


 花なんて何でもいい。


 写真の置き場所なんて気にしすぎ。


 本も、たまたまそこに置いただけ。


 そうやって自分を納得させるうちに、私はずいぶん端へ追いやられていた。


 スマートフォンが鳴った。


 伯父と伯母からのビデオ通話だった。


 呼吸を整えてから出る。


「真帆ちゃん、今日パーティーだったでしょ?」


 伯母は画面越しに嬉しそうに笑った。


「服、ちゃんと見せてよ」


 伯父も横から顔を出す。


「今回は二人とも仕事を休めなくて悪かったな。来月の式は絶対行くから」


 伯母が頷く。


「もう新幹線も調べてるんだから」


 しばらくして、伯母の表情が変わった。


「真帆ちゃん、目どうしたの?」


「ちょっとメイクが合わなかっただけ」


 伯母は画面をじっと見た。


 それ以上聞かず、別の話をする。


「来月は在来線で新幹線の駅まで行って、そこから乗り換えればそんなにかからないみたい」


 伯父も頷く。


「真帆の家族が誰もいないのは寂しいだろ。俺たちはちゃんと行くからな」


 伯母が立ち上がり、棚から通帳と封筒を持ってきた。


「あと、これ」


「お父さんとお母さんが残してくれたお金。ずっと預かってたけど、本来は真帆ちゃんのものだから」


「結婚するときにもらうって言ってたでしょ。そろそろ手元に置いておきなさい」


 伯母の声が少しだけ真剣になる。


「自分のお金は、自分で持っておいたほうがいいよ」


「何かあったとき、逃げ道がないからって我慢しなくて済むように」


 涙が頬を伝った。


 慌てて横を向く。


 胸の中に浮かんだことは一つだけだった。


 帰りたい。


 通話を終え、そのまま翌日の切符を取った。



4



 自分の荷物をスーツケースへ詰めながら、何度もスマートフォンが光った。


 莉央のInstagramでは、パーティーの様子がまだ更新され続けている。


 赤いドレスへ着替えた莉央は、遼平と一緒に各テーブルへ挨拶に回り、写真を撮り、最後には二人でケーキを切っていた。


 もう「取材」という言葉で片づけられる範囲ではなかった。


 遼平からもLINEが届く。


「疲れたなら今日は休んで。話は明日でいい」


「真帆が帰った後は莉央が手伝ってくれた」


「夜は友達と少し飲んでから帰る」


「明日の午前、市役所は予定通りでいいよな?」


 最後に、


「ケーキ、真帆が好きな栗のやつだったから取ってあるよ」


 と書いてあった。


 当たり前だ。


 あのケーキは、私が何週間も前からパティシエと打ち合わせをして決めた。


 味もデザインも、上に乗せる小さな人形も、私と遼平のために作ってもらったものだ。


 準備が進むにつれ、遼平は何か決めるたびに莉央の意見を聞くようになった。


 背景の色が古いと言われれば変える。


 音楽が好みじゃないと言われれば選び直す。


 今日、そのケーキの上にいた私たちの人形まで、友人たちの悪ふざけで崩されていた。


 スマートフォンを置いた。


 明日の列車を待つ気になれず、夜の便へ変更しようと立ち上がる。


 視界が暗くなった。


 足元が揺れ、腰がドレッサーにぶつかる。


 次の瞬間、下腹部に強い痛みが走った。


 薄い色のスカートに赤い染みが広がっている。


 震える指で119へ電話した。


 救急隊を待つ間、壁につかまりながら玄関まで移動する。


 背中には冷たい汗が流れていた。


 インターホンが鳴り、なんとか鍵を開けたところで意識が遠のいた。


 目を開けると病院だった。


 医師がベッドのそばに座っている。


「検査の結果ですが、妊娠五週前後だと思われます」


 一瞬、言葉の意味が分からなかった。


「……妊娠?」


「出血があります。流産につながる可能性もあるので、今は安静にしてください」


 そっと下腹部に手を置いた。


 私はずっと子どもが欲しかった。


 早くに両親を失ったからかもしれない。


 自分に子どもができたら、たくさん愛したいと思っていた。


 遼平も知っている。


 いつか子ども部屋をどこにするか、二人で話したこともある。


「真帆に似たら、絶対頑固だろうな」


 そう言って笑っていた。


 スマートフォンが鳴った。


 遼平だった。


「なんで返事しないの?」


 苛立った声だった。


 体に力が入らず、短く答える。


「病院にいる」


 少し間が空いた。


「真帆、そういうことで心配させるのやめろよ」


 息が止まりそうになる。


「人が心配するようなことを軽く言うの、真帆がいちばん嫌ってたじゃん」


 そこまで言ってから、遼平は口にした。


「……ご両親のことだってあるだろ」


 耳の奥が鳴った。


 小さい頃、熱を出した私は、どうしても飴が欲しいと両親にねだった。


 二人は車で買いに出て、途中で事故に遭った。


 そのまま帰ってこなかった。


 長いあいだ、私は自分を責めていた。


 その話を遼平にした夜、彼はずっと私を抱いていた。


「真帆のせいじゃない」


 何度も、そう言ってくれた。


 今、その記憶を一番よく知っている人が、私を傷つけるために使った。


 何も返せない私に、遼平は続ける。


「パーティーのあと、莉央が婚姻届の出し方も実際に見たいって言い出してさ」


「用紙は自分の欄も証人欄も埋めてあった。俺のところだけ空いてて……閉庁前に市役所へ行ったんだ」


 指先の感覚が薄くなる。


「遼平」


「何?」


「提出したら、法律上どうなるか分かってた?」


 向こうが黙った。


「……分かってた」


「それでも出したの?」


 長い沈黙。


「そのときは、取材の延長だと思ってた」


 遼平の声が低くなる。


「受理されても、すぐ離婚届を出せばいいって。真帆にはあとでちゃんと説明すればいいと思った」


 私は目を閉じた。


 婚姻届まで、「あとでどうにかできるもの」だった。


 私なら結局許す。


 そう信じていたからできたことだ。


 通話を切る。


 高校時代の友人たちのLINEには、すでにスクリーンショットが回っていた。


 莉央と遼平が、夕方の市役所前で婚姻届を手にしている。


 莉央のInstagramには、


「取材で婚姻届まで出す自分、我ながら本気すぎる(笑)」


 と書かれていた。


「これ、本当に出したの?」


 誰かがコメントしている。


 莉央は笑顔の絵文字だけ返していた。


 スマートフォンを伏せる。


 下腹部に置いた手を動かせなかった。


 子どもが欲しかっただけじゃない。


 遼平と一緒に、その子を迎えたかった。


 その未来は、もう残っていなかった。


 翌日、体調を確認した医師に相談した。


「妊娠を継続しない方向で考えています」


 改めて産婦人科で診察を受け、必要な検査と説明を受けた。


 手術方法やリスク、今後の体調についても医師と話し合い、日程を決めた。


 数日後。


 処置の日、麻酔が入る前に浮かんだのは高校生の遼平だった。


 校門の前で鞄を背負い、私を待っている。


「真帆、帰ろう」


 笑っていた顔が、ゆっくり遠くなる。


 術後は一晩休み、医師の確認を受けてからマンションへ戻った。


 最後のスーツケースを持ち出す。


 首から、小さな家の形をしたペンダントを外した。


 遼平が社会人一年目にくれたものだった。


「これからは、ここが俺たちの家だから」


 そう言っていた。


 ペンダントをリビングのテーブルに置く。


 そばには産婦人科の診療明細と、処置後の注意事項が入った封筒を残した。


 それから、雪丘町へ向かう列車に乗った。



5



 雪丘町に着いた頃には、すっかり夜だった。


 伯父と伯母の家の前で、しばらく動けなかった。


 本当なら今日は、遼平と婚姻届を出しているはずだった。


 それが今は、大きな荷物を持ってここにいる。


 どう説明しようか考えていると、内側からドアが開いた。


「真帆ちゃん?」


 伯母の和子が目を丸くする。


 驚きはすぐ笑顔に変わった。


「こんな時間にどうしたの?」


 奥から伯父も出てきた。


「とにかく入れ。外、寒いぞ」


 暖かい空気が頬に触れた。


 伯母に手を握られる。


 その手のぬくもりに触れた途端、涙が落ちた。


「どうしたの。家に帰りたくなった?」


 涙を拭きながら頷く。


「うん」


 少し笑った。


「おばさんの豚汁、食べたい」


 伯母も笑う。


「こんな時間に注文するの?」


 手を軽く叩かれた。


「隆夫さん、野菜切って」


「俺かよ」


 伯父の声に、久しぶりに肩の力が抜けた。


 三人でテレビを見ている間も、スマートフォンは何度も震えた。


 遼平からだった。


「真帆、家帰ったけどどこ?」


「この二日、俺も余裕なくて言いすぎた。悪かった」


「婚姻届のことはすぐ処理する。莉央とは離婚する」


「結婚式も全部やり直す。真帆の好きなようにするから」


 最後に、


「レモン海老、買ってきた。好きだっただろ。帰ってきて」


 と届いた。


 画面を閉じ、ブロックする。


 伯母は何も聞かなかった。


 赤くなった私の目を見て、ただ手を握る。


 少ししてから、明るい声で言った。


「そうだ。倉庫整理してたら、真帆ちゃんが子どもの頃の物がいっぱい出てきたんだよ」


「見に行く?」


「うん」


 その夜は、それで十分だった。



6



――柏木遼平


 遼平がマンションへ戻ると、部屋は暗かった。


 寝室の照明をつけると、クローゼットの半分以上が空いていた。ドレッサーから化粧品が消え、いつも部屋の隅にあったスーツケースも見当たらない。


 胸の奥が重く沈んだ。


 真帆の同僚へ何人か電話をかけた。


「知らないよ。結婚の準備で休むって聞いてたけど」


「今日、婚姻届出す予定じゃなかった?」


 返ってくるのは似たような答えばかりだった。


 通話を切るたび、部屋の静けさが増していく。


 遼平の中では、真帆はいつもここにいる人だった。


 喧嘩をしても、少し時間を置けば戻ってくる。


 そんな思い込みが、ずっとあった。


 玄関へ戻ったところで、床に小さな赤い跡を見つけた。


 視線が止まる。


 電話で聞いた真帆の声が蘇った。


「病院にいる」


 上着を掴み、部屋を飛び出した。


 病院の受付で名前を出しても、返答は変わらなかった。


「申し訳ありませんが、患者さんの情報はお答えできません」


「婚約者なんです」


「ご本人の同意が確認できない場合は、お伝えできません」


 結局、真帆がそこにいるのかどうかさえ分からなかった。


 空が白み始める頃、マンションへ戻った。


 リビングのテーブルに、小さな家のペンダントが置かれている。


 その横には病院の封筒。


 手を伸ばしかけ、指が止まった。


 しばらくして封筒を開くと、産婦人科の診療明細と、人工妊娠中絶の処置後に渡される注意事項が入っていた。


 妊娠週数も記されている。


 その場に崩れるように座り込んだ。


 真帆は妊娠していた。


 救急車で運ばれている間、自分は莉央と婚約パーティーの続きをしていた。


 真帆が「病院にいる」と言ったときも、信じなかった。


 彼女が長いあいだ抱えていた両親の事故まで、怒りに任せて持ち出した。


 そして、そのあとで莉央と婚姻届を提出した。


 テーブルの上のペンダントを見る。


 何年も前、自分で真帆の首につけたものだ。


 家を作ろう。


 そう言った。


 今は、その言葉ごと置いていかれた。


 朝になって、莉央がやってきた。


「遼平、次の小説さ、主人公たちが新婚旅行に行くんだけど――」


「もういい」


 掠れた声に、莉央が黙る。


 顔をじっと見たあと、表情を曇らせた。


「どうしたの?」


「真帆が出ていった」


 莉央が目を瞬いた。


「どこに?」


 遼平は首を振る。


「それなら、少し放っておけばいいじゃん」


 莉央はなだめるように笑った。


「真帆って怒ってもすぐ落ち着くでしょ。何か買って謝れば――」


「少し?」


 遼平が顔を上げる。


 莉央の笑みが止まった。


「婚約パーティーに出たいって言ったのは莉央だろ」


「婚姻届まで出したいって言ったのも」


 莉央の顔色が変わる。


「……私のせいにするの?」


「だって、莉央があんなこと言わなかったら――」


「遼平」


 莉央の目に涙が浮かんだ。


「本当に分かってないの?」


 遼平が眉を寄せる。


「私、なんであのドレス着たかったと思ってる?」


 涙が頬を伝う。


「なんで何度も、遼平と一緒にそういうことをやりたがったの?」


 遼平の表情が固まった。


 莉央は笑った。


「婚姻届まで一緒に出したのに」


 声は震えている。


「それでも全部、私だけのせいにするの?」


 返す言葉がなくなった。


 真帆がパーティーの準備をしていた頃の姿が浮かぶ。


 ゲストリストを何度も確認し、小さなギフトを自分で包み、ケーキや音楽を何日もかけて選んでいた。


 夜にはウェディング雑誌を抱えて床に座り、


「結婚式、本当にやるなら花は何がいい?」


 と楽しそうに聞いていた。


 真帆は、二人の未来を本気で楽しみにしていた。


 けれど遼平は、婚礼もケーキも後からやり直せると思っていた。


 真帆が傷ついても、時間が経てば元に戻ると決めつけていた。


 今、部屋に残っているのはペンダントと病院の書類だけだった。


 「後で」と先延ばしにしてきたものは、もう同じ形では戻らない。



7



――小野寺真帆


 雪丘町へ戻ってから、数日ほとんど何もせず過ごした。


 伯父も伯母も、電話の様子や私が急に帰ってきたことから、ある程度察していたのだと思う。


 それでも、無理に聞き出そうとはしなかった。


 伯母は私の手を軽く叩き、


「話したくなったら話せばいいよ。今はちゃんと食べて寝なさい」


 それだけ言ってくれた。


 三日目の午後、インターホンが鳴った。


 玄関を開ける。


 柏木遼平が立っていた。


 数日でずいぶん痩せていた。


 目の下には濃い影があり、顎には無精ひげが伸びている。


 私を見た途端、目を見開いて手を伸ばした。


 扉を閉めようとすると、遼平が慌てて手を添えた。


「真帆、待って」


 声が掠れている。


「俺が悪かった。分かってる」


 隙間から、小さな家のペンダントを差し出してきた。


「莉央とは離婚の手続きに入ってる」


「結婚式も全部やり直す。次は真帆の好きなようにするから」


 銀色の小さな家を見る。


 形は何も変わっていない。


 扉を少しだけ開けた。


「遼平」


 すぐに顔を上げる。


「昔は、これを見ると嬉しかった」


「いつか本当に二人の家ができるって思えたから」


 ペンダントを押し戻す。


「でも、もういらない」


 遼平の顔から血の気が引いた。


「真帆……」


「もう一回だけ、俺に――」


 扉を閉める。


 遼平の声は向こう側へ消えた。


 その夜、遼平は玄関の外で朝まで座っていた。


 朝、伯母がゴミを出そうと扉を開け、目を丸くした。


 壁に寄りかかっていた遼平が、慌てて立つ。


 足がしびれていたのか、少しよろめいた。


「……まだいたの?」


 伯母の声には怒りより疲れが滲んでいた。


「すみません」


 遼平が頭を下げる。


「真帆が会いたくないのは分かってます。ただ、少しだけ話したくて……」


 伯母は家の中を振り返り、扉を少し閉めた。


「真帆、昨日遅くまで眠れなかったの」


 遼平の口元が動く。


「……体、大丈夫ですか?」


「どう思う?」


 遼平は俯いた。


「八年も一緒にいたんでしょう」


 伯母が静かに言う。


「あの子がつらいときほど何も言わなくなるの、あなたが一番分かってたんじゃないの?」


 遼平の手が強く握られた。


「分かってるつもりでした」


 声はかすれていた。


「だから、何をしても真帆なら我慢してくれるって……勝手に思ってたんだと思います」


 伯母の表情が少し和らぐ。


「許してほしいなんて、今は言えません」


 遼平は床を見たまま続ける。


「ただ、後悔してることだけは伝えたかった」


「もし、いつか話してもいいと思ってくれる日が来たら――」


「遼平」


 伯母が遮った。


「そういう言葉は、真帆を傷つける前に言えてたら良かったね」


 遼平が顔を上げる。


 伯母の目は赤かった。


 それでも声は穏やかだった。


「せっかく、安心して眠れる場所に帰ってきたの」


「今は、そっとしておいてあげて」


 遼平はしばらく黙っていた。


「……分かりました」


「帰りなさい」


 扉が閉まる。


 玄関の前に残っていた気配も、しばらくすると遠ざかっていった。



8



 数日間の休暇を終え、楓森市へ戻る日が来た。


 伯父は食べきれないほどの保存食を持たせようとし、伯母は両親の残した通帳とカードを私の鞄へ入れた。


「結婚するかどうかなんて関係ないの。これは真帆ちゃんのお金だから」


 手をぎゅっと握られる。


「何かあったら帰っておいで。ここはずっと真帆ちゃんの家だよ」


 喉の奥が熱くなった。


「うん」


 遼平は長いあいだ、「家を作る」と言ってくれていた。


 けれど私は、帰る場所をずっと持っていた。


 楓森市へ戻り、引っ越し業者を頼んだ。


 遼平と結婚後に住む予定だったマンションから、自分の物を運び出す。


 以前借りていた小さな部屋は、婚姻届を出してから解約する予定だったため、まだ契約が残っていた。


 そこへ戻ることにした。


 荷物を整理すると、アルバムや高校時代に二人で買った星形のライト、遼平が残した付箋まで次々出てきた。


「朝ごはん冷蔵庫。温めて食べて」


「今日は遅くなるから先に寝てて」


 本に挟まれた小さなプレゼントまである。


 昔なら、全部大事な思い出だった。


 今は、長くしまわれていた他人の持ち物を見ているような気分だった。


 まとめて段ボールへ入れる。


「この箱は処分でお願いします」


 そばにいた遼平が近づき、箱の縁へ手を置いた。


「これも?」


 アルバムを持ち上げる。


「高校の頃からの写真、全部入ってるよ」


 受け取って、数ページだけめくった。


 笑っている私たちがいる。


 アルバムを箱へ戻す。


「大事だったよ」


「だから取っておいた」


 遼平が息を止める。


「今はもう、持ってなくていい」


 引っ越し後も、遼平は何度か会社の近くへ来た。


 受付には花束が届いた。


 紫陽花や薔薇。


 大学時代に一度好きだと言った花まで混ざっていた。


 事情を知らない同僚は、


「すごい。恋人から?」


「毎日花って、映画みたい」


 と笑った。


 受付へ行き、その場で受け取りを断る。


 会社にも、今後は私宛ての私的な贈り物を取り次がないでほしいと頼んだ。


 遼平にはLINEを一通だけ送る。


「会社には来ないで」


「次に来たら、総務と警備に相談する」


 それから職場の入口は静かになり、花も届かなくなった。


 数日後、高校時代の友人からXの投稿が送られてきた。


「真帆、これ見た?」


「莉央の読者にまで広がってる」


 タイトルは、


『親友の婚約と婚姻届まで「取材」にした小説家って、さすがにどうなの?』


 投稿者は私の名前を出していなかった。


 けれど莉央自身が、過去に写真や「実体験」を何度も公開していたため、読者にはすぐ特定されたらしい。


「これ取材じゃなくない?」


「友達の婚約者と本当に婚姻届出したの?」


「男も同じくらい意味分からない」


「実体験をもとに書いてますって、そういう意味だったんだ……」


「友達の人生を作品のネタにするの普通に無理」


 話は広がった。


 莉央の連載は更新停止。


 予定されていた雑誌との企画も保留になった。


 編集部は私生活について触れず、「今後の契約について確認中」とだけ発表した。


 遼平についても、共通の知人の間ではかなり噂になっていたらしい。


 私はXを閉じた。


 もう、自分の生活には必要のない話だった。



9



 その頃、部署で本社プロジェクトへの半年間の参加者を募集していた。


 上司に会議室へ呼ばれる。


「本社でプロジェクトリーダーの補佐が一人必要なんだ。期間は半年くらい」


 資料を渡される。


「評価が良ければ、次の人事で主任候補として推薦するつもりだけど、どう?」


 私の顔を見て笑う。


「手持ちの案件もちょうど終わりそうだし、行ってみない?」


 考えたのは数秒だった。


「行きたいです」


 上司が少し驚いた。


「早いね。家帰って考えなくていい?」


「大丈夫です」


 以前なら、最初に遼平のことを考えていた。


 半年離れたら関係は大丈夫か。


 彼は嫌がらないか。


 結婚式の予定はどうするか。


 そのせいで見送った仕事もあった。


 今は、自分が行きたいかどうかだけ考えればいい。


 出発は三日後に決まった。


 伯母から電話がかかってきて、


「薬持った? 食事抜いたら駄目だよ。夜更かしもしすぎないように」


 延々と注意される。


 笑いながら全部返事をした。


 出発当日。


 空港のロビーで名前を呼ばれた。


「真帆」


 振り返ると遼平がいた。


 以前のようなひどい顔色ではなかった。


 それでも疲れは残っている。


「どうしてここに?」


「会社に何回か行ったけど会えなくて」


 言ったあと、慌てて付け足した。


「もう中には入ってない。前に知り合いから、本社に半年行くって聞いた」


 少し距離を取ったまま、こちらを見る。


「十分だけ、話せない?」


 搭乗まではまだ時間があった。


「十分なら」


 空港のカフェへ入る。


 遼平がカプチーノを置いた。


「前、好きだったやつ」


 湯気だけが上がっている。


「話して」


 遼平は鞄から書類を出した。


 以前二人で住む予定だったマンションの、贈与に関する書類だった。


「真帆、もう何言っても遅いのは分かってる」


 声が掠れている。


「この部屋、真帆に渡したい」


「家を作るって言ったのに、何もできなかったから。せめて――」


 書類を押し返す。


「いらない」


 遼平の指が止まる。


「私の両親のことを、傷つけるために使ったでしょう」


「その時点で、あの部屋を家だと思えなくなった」


 遼平の顔が青ざめた。


「あれは本当に……」


「怒ってたんだよね」


 言葉を止める。


「だからこそ、一番痛いところを選んだんだと思う」


 遼平が俯く。


 やがてスマートフォンを取り出し、何かを見せてきた。


 新しい会場案だった。


「結婚式、やり直せる」


 焦ったように画面を操作する。


「真帆が気に入ってたドレス、店に聞いたらまだ用意できるって」


「花も全部紫陽花にする。ケーキも、あの人にもう一回頼める」


 画面を見るだけで、口を挟まなかった。


 遼平の声が小さくなる。


「一年でも、二年でも待つ」


「真帆が帰ってくるなら」


 私は顔を上げた。


「遼平」


 彼がこちらを見る。


「ケーキは作り直せるし、結婚式もやり直せる」


 そこで言葉を区切った。


「でも、八年間をもう一回やり直すことはできないよ」


 遼平が目を閉じる。


 呼吸が乱れた。


「莉央を好きだったことは一度もない」


 目を開き、真っ直ぐこちらを見る。


「好きだったのは、ずっと真帆だけだ」


 腕時計を見る。


 席を立った。


「もう関係ないよ」


「私たちは終わってる」


 搭乗口へ向かう。


 飛行機が離陸すると、窓から明るい雲が見えた。


 半年という時間が、思っていたよりずっと短く感じられた。



10



 本社で過ごした半年は、忙しいまま終わった。


 新しい土地で、新しい同僚と新しい仕事に向き合う毎日だった。


 やることが多く、以前の出来事を考える時間は少しずつ減っていった。


 楓森市へ戻ったのは金曜日だった。


 プロジェクト評価は良好。


 数週間後の人事で、主任への昇進も決まった。


 担当プロジェクトは社内表彰も受け、報奨金が給与と一緒に振り込まれた。


 上司とチームのメンバーが、小さな歓迎会を開いてくれた。


 帰宅して鏡を見る。


 少し痩せた。


 けれど顔色は、出発前よりずっといい。


 食事会の帰り、知らない番号から電話がかかってきた。


「もしもし」


 相手は何も言わない。


 かすかな呼吸だけが聞こえる。


 切ろうとしたところで、声がした。


「真帆……」


 胸は静かなままだった。


「……遼平?」


「うん」


 少し間が空く。


「戻ってきたって聞いた」


「昇進もしたんだってな。おめでとう」


 声がかすれていた。


「それと……ごめん」


 黙って聞く。


「莉央のことを話したいわけじゃない」


「言い訳も、もうしたくない」


 深く息を吸う音がした。


「真帆が帰ってきたって聞いて、どうしても直接おめでとうって言いたかった」


 長い沈黙。


「真帆」


 声が震える。


「まだ、会いたいと思ってる」


 それから、小さく続いた。


「ごめん」


 私は通話を切った。


 過去へ戻るつもりはなかった。


 誰かを許すことで、自分が幸せになった証明をする必要もない。


 隣を歩いていた同僚が聞く。


「誰?」


 私は少し笑った。


「昔の知り合い」


 主任として迎えたある朝、いつもより早く会社へ向かった。


 朝の光がビルの間へ差し込んでいる。


 会社の近くまで来たところで、見覚えのある二人が目に入った。


 莉央が遼平の袖をつかんでいる。


 遼平は手を外し、莉央がまた追いかける。


 何か言い争っているようだった。


 半年ぶりに見る莉央は痩せていた。


 いつもきれいに整えていた髪も、簡単に一つにまとめているだけ。


 遼平も髪を短くし、以前のような荒れた姿ではなくなっていた。


 けれど二人の表情に、昔のような親しさは見えなかった。


 数秒だけ眺めて、会社へ向き直る。


 スマートフォンが震えた。


 社内表彰の報奨金が振り込まれたという通知。


 部署のグループチャットでは、若手社員たちが「主任、今度ごちそうしてください」と騒いでいる。


 笑いながら返信し、社員証をかざしてエントランスを通る。


 背後の声は、ガラス扉が閉まると聞こえなくなった。


 朝の光が明るい。


 私の行く先は、まだずっと続いている。





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― 新着の感想 ―
どこかで見たことある設定と思ったら、中華系か! 広告で入ってくるやつ。 全く感情移入できないんだよなあ、登場人物全員。
なろうではあまり流行らないけど中華系小説によくある設定ですね 中華系小説サイトからパクってきたんすか? AIであちこち省略してボロ出てる感じに見えました
婚約披露パーティーでケーキ入刀をした後に婚姻届を提出している? 結婚式の間違いかと思ったけど「婚約披露でそのドレスは派手すぎる」と発言しているの結婚式ではないんですよね?
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