【序章-4】宗春の余韻と藤吉郎の“動”
広間を辞したあと、宗春はしばらく足を動かせずにいた。
廊下に流れ込む秋の風が、広間の冷気とは違う、少し柔らかな温度を帯びている。
その温度の差が、さきほどの光景をいっそう鮮やかに思い出させた。
九十九髪茄子の飴色の光。
障子越しの冷たい光を吸い込み、静かに燃えるような深さ。
信長の横顔に映った、あのわずかな揺れ。
宗春は胸の奥に、まだその光が残っているように感じた。
廊下の先には、庭へ続く縁側がある。
宗春は吸い寄せられるように歩き、縁側に腰を下ろした。
庭の苔は薄い陽を受けて、ところどころ銀色に光っている。
風が吹くたび、竹の葉がかすかに触れ合い、冷たい音を立てた。
宗春は、膝の上で手を組んだ。
その指先には、まだ木箱の冷たさが残っている。
(静けさ……)
自分が口にしたその言葉が、広間の空気とともに蘇る。
名物の価値など知らない。
だが、あの器から立ちのぼった“気配”だけは、確かだった。
静けさ。
深さ。
沈む光。
それは、宗春がこれまで触れてきたどんな器とも違っていた。
(あれが……価値なのか)
宗春は、信長の言葉を思い出した。
「静けさの中にこそ、力は宿る」
その意味はまだわからない。
だが、胸の奥で何かがゆっくりと動き始めているのを感じた。
それは、光でも音でもなく、ただ“温度”として広がる。
庭の向こうで、誰かの足音がした。
宗春は顔を上げた。
藤吉郎が、にやりと笑いながら近づいてくる。
その笑みは軽いが、目だけは妙に鋭かった。
「おい、宗春。固まってどうした。名物に魂でも抜かれたか?」
宗春は返事に困り、ただ首を振った。
藤吉郎は縁側に腰を下ろし、足をぶらぶらさせた。
その動きは子どものように軽いのに、視線は宗春の胸の奥を覗き込むようだった。
「まあ、わからんでもない。あれは……すごいもんだ」
声は軽い。
だが、その奥にある“何かを嗅ぎ取る気配”は隠せていない。
宗春は横目で藤吉郎を見た。
この男は、軽口を叩きながらも、誰よりも早く信長の“次の一手”を読む。
「宗春」
藤吉郎が、足を止めて少し真面目な声で言った。
「おまえ、さっき信長様に褒められたな」
宗春は驚いて藤吉郎を見た。
藤吉郎は笑っていない。
秋の光を受けたその目は、宗春の“静けさ”とは違う、
動き出す者の光を宿していた。
「信長様に“よい目だ”と言われるのは、そうそうないぞ。
あれは……おまえの始まりだ」
宗春の胸の奥で、また小さな温度が広がった。
それは、九十九髪茄子の光と同じ温度だった。
庭の竹が、風に揺れて音を立てた。
その音は、静かで、深く、どこか温かかった。
宗春は、ゆっくりと息を吸った。
自分の中で、何かが確かに芽吹き始めている。
それはまだ小さく、弱く、形もない。
だが、確かにそこにある。
信長の冬の美学の中で、
宗春の春が、静かに動き出していた。




