第2章 藤吉郎の“動”(1570〜1573) 【第2章‑1】動の気配(1570年・姉川前夜)
元亀元年(1570)。
織田・徳川連合軍は、浅井・朝倉連合との決戦を控え、北近江へと進軍していた。
姉川を挟んで両軍が対峙し、戦は目前に迫っている。
浅井長政は信長の妹・お市を娶り、同盟関係にあったはずの男だった。
だが、朝倉義景への義理を優先し、信長を裏切った。
その裏切りは畿内の秩序を揺るがし、信長はこれを断ち切るために北へ向かっていた。
宗春は信長本隊の後方に位置する小隊に随行していた。
冬の茶室で“沈む光”を見てから数ヶ月。
宗春の目はまだ“静けさ”を捉えることに慣れ始めたばかりだったが、
戦場の空気は茶室とはまったく違う温度を持っていた。
朝の冷気は鋭く、兵の息は白く曇る。
甲冑の擦れる音、馬のいななき、遠くで響く陣太鼓。
そのすべてが、宗春の胸の奥に重く積もっていく。
だが──
その張りつめた空気の底に、宗春は“別のざわめき”を感じていた。
それは光ではない。
沈むでも、揺れるでも、立つでもない。
もっと速く、もっと熱く、もっと粗い。
宗春がその正体を探ろうとしたとき、
前方から馬の蹄の音が近づいた。
「おい、宗春」
声は軽い。
だが、その目の奥に宿る光は、以前よりも鋭く、速かった。
藤吉郎だった。
馬を止め、宗春の横に並ぶと、にやりと笑った。
「固まってどうした。風にでも呑まれたか?」
宗春は首を振った。
藤吉郎は軽く笑いながらも、視線は前方の空気を探るように動いている。
「……揺れてるんだよ。浅井も朝倉も、腹が決まっておらん。」
宗春は風の流れを感じ取ろうとしたが、藤吉郎の言う“揺れ”は風ではない。
藤吉郎は続けた。
「迷いがある。
進むか退くか、決めきれん迷いだ。
ああいう揺れはな……動く者には、よう見える。」
声は軽いのに、言葉の奥に“何かを嗅ぎ取る気配”があった。
宗春は思わず藤吉郎を見た。
その目の奥にある光は、茶室で見た“静けさ”とはまったく違う温度を持っていた。
沈む光ではなく、形を探す揺れでもない。
もっと速く、
もっと鋭く、
もっと熱い。
藤吉郎は宗春の視線に気づき、少しだけ真面目な声になった。
「宗春。
おまえは“静けさ”を見る目を持っとる。
それは信長様が好かれる目だ。」
宗春は息を呑んだ。
「けどな。戦場は違う。
静けさよりも、“動き出す瞬間”がすべてだ。
光が形を決める前に、掴んじまうんだよ。」
藤吉郎は馬を進めながら、振り返って言った。
「宗春。
おまえの目で、わしの“動”を見てみろ。
静けさとは違う光が、きっと見える。」
宗春はその背中を見つめた。
藤吉郎の周囲には、確かに光があった。
それは──
信長のように沈む光ではない。
形を探す揺れでもない。
もっと速く、
もっと鋭く、
もっと熱い。
動き出す光。
宗春の胸の奥で、
またひとつ小さな芽が伸びた気がした。




