【序章-1】 九十九髪茄子の光
永禄十一年(1568)。
織田信長は三万の兵を率い、足利義昭を奉じて上洛の途上にあった。
畿内の旧勢力を一気に制し、京の秩序を塗り替えるための進軍である。
その道中、摂津国の要衝・芥川城に立ち寄ったのは、
松永久秀が「献上したいものがある」と急使を走らせてきたからだった。
久秀は三好家の重臣でありながら、
畿内の混乱の中で孤立し、信長への臣従を示す必要に迫られていた。
名物の献上は、その意思を形にする最も確かな方法である。
信長は本隊を城外に待機させ、
少数の近習だけを連れて城内へ入った。
久秀が裏切る余地はないと見抜いていたからだ。
秋の冷えが石垣を伝って広間に入り込み、畳の匂いと混じり合っていた。
障子越しの光は弱く、白いはずの紙がどこか青みを帯びて見える。
宗春は、その薄い光の中で、小さな木箱を膝に置いたまま動けずにいた。
箱の中には、松永久秀が献上するという名物――
九十九髪茄子が収められている。
木箱は軽いのに、掌に触れると、ひんやりとした重みがあった。
それは秋の空気と同じ温度で、宗春の胸の奥まで冷たさを落としていく。
「緊張しておるな、宗春」
横で控えていた藤吉郎が、声を潜めて笑った。
宗春は返事もできず、ただ箱を抱え直した。
指先が冷えているのは、広間の空気のせいか、それとも自分の緊張のせいか。
上段には、織田信長が静かに座していた。
障子の光を受けても、その輪郭は揺らがない。
冬の朝のように澄んだ気配だけが、広間の温度をさらに下げていく。
やがて、久秀が深く頭を下げながら進み出た。
その動きに合わせて、広間の空気がわずかに揺れる。
家臣たちの衣擦れの音が、冷えた空気の中で細く響いた。
「これ、九十九髪茄子にございます」
宗春は呼ばれ、箱を信長の前へ運んだ。
畳の冷たさが膝を通して伝わり、足が少し震えた。
「開けよ」
信長の声は低く、しかし澄んでいた。
その声だけが、広間の温度を一瞬だけ引き締めた。
宗春は震える指で蓋を外した。
その瞬間――
光が、静かに立ちのぼった。
深い飴色の胴が、障子越しの冷たい光を受けて、
まるで火ではない炎のように、静かに燃えた。
広間の空気が、わずかに温度を取り戻したように感じられた。
信長の横顔が、その光を映してわずかに揺れた。
「……これが、価値か」
信長の呟きは、冷えた空気の中でゆっくり沈んでいき、
宗春の胸の奥に深く落ちた。
この瞬間、宗春はまだ知らない。
この光が、戦国の価値観を変え、
自分の人生をも変えていくことを。




