「空の外部性について」
ちょっとそれっぽく現代の人生論を語ってみようと思う。
まず、お金はあくまでデータであり、約束事。一定の条件下におけるエネルギー(=時間と対称性がある)保存のための概念。価値自体はどこからでも生み出せるし、価値を保存する媒体たる通貨も自ら作れるのが現代。そして法理もプログラムでデザインできるのが現代。極論。
それでも他者の心や自然環境はなかなかデザインできない、誠実に向き合わないといけないのがこの世の美しさでせう。とはいえやはり、結局、突き詰めたら虚無りそうなのは皆わかってるはず。全ては空だ、たぶん。自らも単なるインターフェースでしかない。そこで、空を悟るのが1番合理的なのだが、その合理性はなんのためにあるのか、それが個々に委ねられているのが現代。空の正の外部性で価値をいくらでも作れることに気づかないといけないのが現代。逆に言えば空の負の外部性ー即ち虚無を悟って何もしない、全能エアプニヒリズムという知の誤謬の罠にハマれば、とことん無駄なアホになれるのも現代。取り敢えずは自らのメタ思考層の外側に出ていって、1番楽しいプレイヤーになるとよさそう。身体は外側から俯瞰してプレイする脳を求めている。そういうとなんだか色々と冷めて自己嫌悪に陥りそうだが、自意識過剰はメタ層第一フェーズであって、まだまだその先にメタ認知層が幾重にも広がってるわけだ。外部脳たるAIの普及はその発見の機会でもあったわけ。僕たちは非常に面白いフェーズにいる。シミュレーションとか空とかが体感できるレベルに達していると思う。
だから、帰ってこい。
現代は、「自分が〇〇だったなら〜/でなかったら〜」なんて考える時代じゃない。多分は何者でもないが、何者にでもなれる。そんな時代。こんな「現代」にあって、何か表現したい、真のアーティストになりたい、と思ったなら、とことん手広くやって、一回死んでみないといけないのかもしれない。勿論、死にとうないけど。そのくらいハード。だからこそ、「空だから。」とか言って逃げ回るくらいがちょうど良い。
生成AIの普及によって、人類は「思考」という特権、絶対的命題を奪われてしまった(今のところ一部分だけだが。お願いしたり、問いを立てるのがぼくらの仕事になるかも、ということ)。僕らはたぶん「人間というインターフェースをどう活かすか」という、身体性の境地に改めて立たされてしまったんだ。以前から、身体は常に其処にあったのだけれど。(フィジカルAIについては、一旦不都合だから黙っといて)
だから、帰ってきた。
果たしてこれからどう身を処すべきか、他者とか集団の論理に動かされるのは、理知的なようで、場合によっては非常に愚かなことにもなってしまいかねない。ここは結局選択、条件分岐。でも幾らコントロールしようとしても、予定調和なんてのはない。理解不能なバグに溢れているのは、今も昔も変わらないのが人間界。
とにかく自律的な個人として在りたいのが現代人の平均的思考体系であるはずで、自由意志のハードボイルドをどこまで突き詰められるかが現代人のタスク。皆燃ゆることが大切(笑)。
スーフィー的に酔ってみても良いが、とにかく、化学的陶酔よりかは、哲学的陶酔に浸ること。そうすれば自ずと「いつでも戻れるけど離れてゆく”あほ”」の特権を享受できる。
差分ではなく、あや、またはそれめいた何か。
そう思いました。
戯れるうち、わするる。




