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「君のような地味な女は不要だ」と婚約破棄されたので、王室監査印付きの『赤の帳簿』を提出して退場します

作者: 夢見叶

「リディア・ベルンシュタイン! 貴様との婚約は、今この時をもって破棄する!」


 王宮の大広間に、場違いな怒声が響き渡った。

 華やかな音楽が止まり、グラスを傾けていた貴族たちの視線が一点に集中する。


 視線の先にいたのは、私――リディアだった。

 そして、顔を真っ赤にして私を指さしているのは、婚約者のジェラールだ。

 彼の腕には、露出の多いドレスを着た可愛らしい男爵令嬢が、これ見よがしにしがみついている。


「……ジェラール様。ここは王宮の夜会です。そのような戯言ざれごとは、場所を弁えてはいかがですか?」

「黙れ! 保身に走るな、この悪女め!」


 ジェラールは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

 周囲の冷ややかな視線に気づいていないのは、彼と、その腕の中の恋人だけのようだ。


「お前が我が家の資産を横領し、私腹を肥やしていることは調査済みだ! 地味で何の魅力もないお前を、情けで婚約者として置いてやっていたのに、恩を仇で返すとはな!」

「横領、ですか」

「そうだ! 私の調査によれば、領地の税収の三割が使途不明金となっている。お前が管理していた帳簿だ、言い逃れはできまい!」


 私は小さく息を吐いた。

 怒りよりも先に、呆れが勝つ。

 彼が言っている「使途不明金」は、すべて彼が賭博と、隣にいる彼女へのプレゼントに費やしたものだ。私が私財を切り崩して穴埋めし、なんとか領地経営を維持していたというのに。


(……でも、ちょうどいいわ)


 私は扇を閉じた。パチン、と乾いた音が響く。

 今日この日まで、私は「耐える係」を演じてきた。

 亡き父との約束、家の体裁、領民の生活。守るべきもののために、この愚かな男の尻拭いを続けてきた。


 けれど、彼が自ら「破棄」を口にしたのだ。

 しかも、国王陛下も臨席される、この公式の場で。


「ジェラール様。その言葉、撤回はなさいませんね?」

「当たり前だ! お前のような薄汚い女、こっちから願い下げだ!」

「そうですか」


 私は一度だけ目を伏せ、そして顔を上げた。

 もう、慈悲深い婚約者の顔はしない。


「承りました。婚約破棄、謹んでお受けいたします」


 私の即答に、ジェラールは一瞬だけ呆気にとられ、すぐに顔を歪めた。私が泣いて縋るとでも思っていたのだろうか。


「ふん、罪を認めたか。なら、すぐに衛兵を……」

「いいえ。罪を認めたわけではありません」


 私は手元に持っていた鞄から、一冊の分厚いファイルをバサリとテーブルに置いた。

 赤い革表紙に、金の刻印が施された重厚な帳簿だ。


「これは……?」

「あなたが『横領の証拠』だと言った、過去三年分の真実の記録です」


 私は公然と宣言する。

 逃げ道は、ここですべて塞ぐ。


「ここには、いつ、どこで、誰が、何に金を使ったかが、すべての領収書と署名付きで記録されています。ジェラール様が先月、宝石店で購入された『愛の証』の首飾り……そこの彼女が着けているものの代金が、領地の治水工事予算から流用されたことも、すべて」


「な、何を……! そんなでっち上げの帳簿が、証拠になるものか!」

「なりますよ」


 私は帳簿の表紙を指先で叩いた。

 そこには、王家の紋章と、天秤のマークが刻まれている。


「これは先週、王室監査局に提出し、監査長官の決裁印をいただいた『確定申告書』の写しですから」


 その瞬間、ジェラールの顔から血の気が引いた。

 王室監査局。

 この国において、国王に次ぐ権限を持つとされる、恐怖の徴税・監査機関。その刻印が押された書類は、裁判における絶対的な証拠となる。


「ば、馬鹿な……いつの間に……」

「あなたが彼女と避暑地で遊んでいる間に、私は王都で監査を受けていましたので」


 私は彼に背を向け、大広間の上座――玉座の脇に控えていた人物を見上げた。

 群衆が、波が引くように道を開ける。


 そこに立っていたのは、美しい銀髪の男。

 この国の財務を統括する「氷の公爵」、アレクシス・フォン・ルークス様だ。

 冷徹で、一度目をつけられたら家ごと取り潰されると恐れられる彼が、今はなぜか、上機嫌に口角を上げていた。


「――ご苦労、リディア嬢」

「お待たせいたしました、閣下」


 アレクシス様が、優雅な足取りで階段を下りてくる。

 その威圧感に、ジェラールが震えながら後ずさった。


「か、閣下……これは誤解で……」

「誤解?」


 アレクシス様は、虫でも見るような目でジェラールを一瞥した。


「リディア嬢から提出されたこの帳簿は、我が監査局の精鋭が三日徹夜して裏を取ったものだ。貴様の署名入りの借用書、闇カジノの出入り記録、横領の全容……完璧だよ。実に美しい資料整理だ」


 アレクシス様は私の手元から帳簿を取り上げると、愛おしそうに撫でた。


「計算ミスひとつない。摘要欄の簡潔さ、証憑書類のファイリング……これほど優秀な管理者を、貴様は『無能』と呼んだのか?」

「あ、う……」

「貴様の家の資産は、先ほど凍結した。横領した公金は、爵位返上と家財没収ですべて返済してもらう」


 ジェラールが膝から崩れ落ちる。

 男爵令嬢が悲鳴を上げて彼から離れようとしたが、すぐに衛兵に取り押さえられた。


「連れて行け。視界に入ると不愉快だ」


 アレクシス様が手を振ると、二人は泥人形のように引きずられていった。

 断罪は一瞬。

 後に残ったのは、静まり返った大広間と、私と、アレクシス様だけ。


 私は深くカーテシーをした。


「ご助力、感謝いたします。これにて、私の役目は終わりました」

「待て」


 去ろうとした私の腕を、アレクシス様が掴んだ。

 驚いて振り返ると、その氷のような瞳が、熱を帯びて私を射抜いていた。


「役目は終わり? 何を言っている」

「……え?」

「私は言ったはずだ。『この帳簿のように、完璧な管理者が欲しい』と」


 アレクシス様は、私の手を取ると、そのまま衆人環視の中で膝をついた。

 大広間が、今日一番のどよめきに包まれる。

 あの冷徹公爵が、女性に跪いているのだ。


「リディア。あの男には過ぎた宝だった。だが、私になら扱える」

「閣下、それは……」

「仕事中毒の君が好きだ。地味で、堅実で、誰よりも数字に愛された君が欲しい。私の公爵家に来てくれ。資産も、領地も、私の心も、すべて君に管理してほしい」


 それは、求婚だった。

 書類仕事のオファーに偽装された、とてつもなく重い愛の告白。


「逃げ道はないぞ。王室監査局長権限で、君の身柄は私が拘束する」


 アレクシス様が、私の指先に唇を寄せる。

 その瞳の奥にある執着を見て、私は観念したように、ふっと笑みをこぼした。


 どうやら私は、とんでもない「再就職先」を選んでしまったらしい。

 でも、不思議と嫌な気分ではなかった。


「……帳簿のチェックは厳しいですよ?」

「望むところだ」


 私の言葉に、氷の公爵様は、春の日差しのように甘く笑った。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます!


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