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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
奸雄世に問う
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第九回 施空城計耍呂布 奉天子以令諸侯

興平二年、夏。黄金色の麦畑が広がる兗州に、呂布の軍勢が黒雲のように迫ってきた。その先頭に立つのは、赤兎馬に跨り方天画戟を構えた呂布その人。その威圧的な姿は、見る者に畏怖の念を抱かせた。


定陶を攻められ、救援に駆けつけた曹操軍を打ち破って勢いに乗る呂布は、鉅野の薛蘭、李封も瞬く間に蹴散らした。そして今、曹操の本拠地を陥落させんと、数万の兵を率いて押し寄せてきたのだ。


その時、曹操はまさかの事態に直面していた。主力は皆、麦刈りに出払っており、城に残る兵はわずか。呂布の大軍を前に、誰もが顔色を失った。曹操自身も内心では激しく動揺していたが、それを表には出さなかった。


「総員、門を開けよ!」


意外にも、曹操は大声で命じた。固く閉ざされていた城門が、ゆっくりと開き始める。兵士たちは不安な表情で顔を見合わせた。敵の大軍を迎え入れるなど、正気の沙汰ではない。


だが、曹操は泰然自若と城楼の上に姿を現すと、隣に置かれた酒杯を手に取り、静かに一献傾けた。そして、楽士に合図を送ると、音楽が街に響き渡り、街の真ん中で一人の女が優雅に舞を舞い始めた。


城外では、街の人々がいつもと変わらぬ様子で麦の収穫に精を出している。差し迫った呂布軍の来襲など、まるで気にも留めていないといった風情だ。


城のすぐ前まで進んだ呂布は、街の異様な光景に目を疑った。固く閉ざされているのが通常の戦前の街の姿であるはずなのに、門は開け放たれ、中では女が舞い、曹操は酒を飲んでいる。これは一体、どういうことだ?


「これは必ずや、曹操の奸計に違いない」


呂布は即座に結論を下した。街の中に伏兵を潜ませているのだ。軽率に街に突入すれば、必ずや痛い目に遭うだろう。あの狡猾な曹操のことだ、きっと何かしらの罠を仕掛けているに違いない。


深読みした呂布は、先に進むことを躊躇した。街の様子をもう少し観察するうちに、彼は徐々に不安を募らせていった。もし本当に伏兵がいるのなら、これほど長い時間隠れていられるはずがない。やはり、何か裏がある。


結局、呂布は兵を退かせることを決断した。


「今日は縁がないようだ。退却する!」


城の外で身支度を整える呂布の軍隊を見送りながら、城楼の上の曹操は、口元をわずかに上げた。彼の心の中では、呂布の愚かさを嘲笑っていた。


後に、この日の決断を深く後悔したと伝えられている。あの時、街に突入していれば、手薄な曹操軍を容易に打ち破ることができただろうに。だが、呂布の疑心暗鬼が、彼自身を滅亡の一歩手前で救った。そしてそれは、後の歴史を大きく変えることになる。


戦いが終わったばかりの濮陽城は、まだ勝利の熱気に包まれていた。城を奪還した曹操は、疲れ果てた体を椅子に預け、わずかな安堵を胸にしていた。しかし、その安堵はすぐに打ち砕かれることになる。

部屋の扉が開き、一人の男が入ってきた。


荀彧。普段は冷静沈着で、感情を滅多に表に出さない男だった。だが、その日の彼の顔には、怒りがはっきりと刻み込まれていた。付き従っていた他の将軍や文官たちは、そのただならぬ雰囲気に察し、そっと部屋を後にした。


「申し上げます、曹公」


荀彧の声は静かだったが、鋭い刃物のように曹操の耳を貫いた。


「なぜ、呂布の誘いに乗り、無謀にも濮陽へ戻られたのですか!あなたは軍を率いる将軍であり、一州を治める牧でもあります。なぜ、たった一人の武夫の挑発に乗って、危険を冒したのです!」


曹操は言葉を返さない。荀彧の怒りが、単なる口答えで済まされるものではないと悟っていた。


「この度の勝利は、血と犠牲の上に成り立っています。兵士は多くが傷つき、民は飢え、畑は荒れ、家々は焼かれました。これが真の勝利だと言えますか!あなたが天下を志すのであれば、戦に勝つことだけが、あなたの志ではないはずです!」


荀彧の声が、徐々に熱を帯びていく。その剣幕は、曹操の最も信頼する軍師とは思えないほどだった。


「天下を欲するならば、まず民の心を得なければなりません。その心が、今、あなたから離れつつあることに、お気づきですか!この濮陽を奪い返したところで、兗州は再び疲弊しました。そのわずかな勝利の代償は、あまりにも大きすぎます。天下が欲しいのであれば、先ずは足下の兗州をしっかり治めるべきです!」


その叫びは、もはや忠言を通り越して、魂の叫びのように響いた。普段は泰然としている曹操も、その迫力に圧倒され、ただ沈黙するしかなかった。内心では、怒りも、反発も湧き上がってきた。


「……やかましい!私はただ、失った故郷を、父の仇を討ちたかっただけだ!」


と叫びたかったが、その言葉は喉の奥に引っかかり、出てこない。


部屋の外で控えていた典韋が、たまらず中に顔を覗かせた。彼の主君である曹操が、誰かにこれほど激しく叱責される姿を見たのは初めてだった。剛毅な典韋の心にも、荀彧の痛々しいほどの真剣さが伝わり、珍しくその口から言葉が漏れた。


「軍師殿、どうかそのあたりで……。主公も、この度の戦で随分とご苦労なされました」


無骨な体躯に似合わぬ、その真剣な心遣い。激昂していた荀彧は一瞬言葉を失い、曹操もまた、思わず目を細めた。この場に不釣り合いなほどの、純粋な優しさ。二人にはそのひたむきな忠義の心が、ひどく微笑ましく、愛おしくさえ思えた。


しかし、典韋の声も荀彧の怒りの深さを際立たせるだけだった。


荀彧は、全てを吐き出すと、深々と頭を下げ、部屋を出て行った。残されたのは、重苦しい沈黙と、酒器のひび割れた音だけだった。


曹操はしばらく、その場から動かなかった。彼の表情から、勝利の喜びは消え、代わりに深い思索の色が浮かんでいた。怒りも、不快感もなかった。ただ、己の心を見透かされ、痛いところを突かれた者の、静かな自省があった。


「良い……。悪来、こいつの言う通りだ」


彼は独りごちた。


「私が呂布と戦っている間、この男はただ城に籠もっていたわけではない。疲弊した民を助け、食糧を集め、兵を補充し、この兗州を懸命に守り抜いていたのだ。私がどんなに敗れても、こうして帰るべき場所があったのは、この男がいてくれたからだ……」


その事実に思い至った時、曹操は自らの浅はかさが恥ずかしくなった。彼は怒りと焦りで、荀彧が命を賭して守り続けた最も大切なものを、危うく自らの手で壊すところだったのだ。


「天下は、一時の戦功ではなく、地道な治世から生まれるもの……か」


荀彧の激怒は、彼自身の命を賭けた忠言だった。曹操は立ち上がると、卓上に広げられた兗州の地図に目を落とした。そこに記された城や村、そして民の暮らしを、彼は初めて、ただの戦略的な点ではなく、自らの天下統一の礎として見つめ直すのだった。


しかし、天下の情勢は、彼の決意をただの内政官に留めてはおかなかった。


建安元年、冬の厳しい寒さが残る頃。長安では、実権を握る李傕と郭汜の対立が、ついに激しい内紛へと発展していた。


「この漢王朝を我が物にするのはこの李傕だ!貴様ごときが、この私に逆らえると思うな!」


「笑わせるな、李傕め!この天下を我が物にするのはこの私だ!貴様こそ、この郭汜に逆らえると思うな!」


互いに罵り、兵を差し向け、長安の街は血で染まっていた。彼らの愚かな争いは、まるで天の采配のように、別の道を開いた。董承や楊奉らに守られ、憔悴しきった漢の献帝が、東へと脱出したのだ。


「曹公!天子様が、今、東へ向かわれております!」


荀彧と程昱が、血相を変えて曹操の元に駆け込んできた。


「今や天下は群雄が割拠し、民は塗炭の苦しみを味わっております。この混乱を収めるには、ただ武力で敵を討つだけでは足りません。我々に大義がなければ、やがて民は離れ、志も瓦解するでしょう」


「天子を奉じて不臣を制し、令をもって天下に号令なされよ!陛下を迎え入れれば、曹公は天下の秩序を回復する唯一の存在となります。これこそ、真の天下統一への道!」


二人の言葉は、曹操の心に深く響いた。それは、前回荀彧が説いた「足下の兗州をしっかり治める」


という言葉の、より大いなる意味だった。


「この命、天から与えられたものか……」


曹操はすぐさま軍を率い、献帝を迎えに駆けつけた。その道中、曹操は献帝の苦労を慮り、ただの兵糧ではなく、滋養に富んだ温かい食事や、体を休めるための上質な寝具を用意させた。また、献帝の身なりを整えるための美しい絹の衣も新調させ、すべて万全の準備を整えてから、献帝のいる場所へと向かった。


河の畔で憔悴しきっていた献帝は、曹操が恭しくひざまずく姿を見て、安堵の涙を流した。


「そなたは、朕を救いに来てくれたのか……」


皇帝のその言葉に、曹操は深く頭を垂れた。


「陛下、ご安心ください。これより先は、この孟徳が、陛下をお守りいたします」


許昌への入城は、まさに盛大なものだった。民は道に詰めかけ、歓声を上げ、旗を振って天子を歓迎した。曹操は献帝を自らの本拠である許昌に迎え入れた。献帝は曹操を大将軍とし、武平侯に封じる。


「そなた、曹孟徳。朕に代わり、この乱世を正す者となれ!」


しかし、天下の実権を握ったこの時、曹操の目はすでにその先を見据えていた。


「さて、袁本初よ。天子の権威に逆らえるか、それともただの地位に拘泥するか……。お前の器量を、見せてもらおうか」


曹操は袁紹に太尉の地位を送る。すると、袁紹は激昂した。


「フン、たかが太尉か!曹孟徳め、天子を抱き込んで、私にそのような下位の官職を押し付けるとは!虫が良すぎるわ!」


傲慢にそれを拒否した袁紹に対し、曹操は再び使者を送った。


「袁本初殿は、四世三公の名門。大将軍の位は、私よりも本初殿にこそ相応しい。私の代わりに、彼にお伝えくだされ」


この曹操の「謙譲」の報せに、袁紹は笑った。


「ふん、所詮は奸雄の偽りの謙譲よ。だが、これも私の天下を正当化する大義となる。よし、受けてやろう!」


こうして袁紹は、その虚栄心を満たされたまま、曹操に大将軍の地位を譲り受けた。一方、曹操は司空、行車騎将軍として、より実務的な権限を握ることになる。


そして、この年、曹操は再び荀彧の進言に従うかのように、内政の要である屯田制を開始した。荒れた土地を軍隊が耕し、食糧を確保するこの制度は、棗祗や韓浩らの意見を汲み入れたものであり、安定した国家基盤を築く上で、極めて重要な意味を持っていた。


許昌に入城した曹操は、まず民の飢餓を救うべく、腹心たちを集めた。


「聞けば、袁本初は桑の実を、袁公路はドブガイを食らって食い繋いでいるとか。我が軍とて、人肉を食料に混ぜ、兵糧を減らして兵の不満を買い、担当官を処刑するありさま。このままでは戦どころではない」


その言葉に、内政官の棗祗が恭しく進み出た。


「曹公、この棗祗に、一つご進言がございます。戦乱により農民は逃げ出し、空いた耕地が数多残されております。ここに、路頭に迷う流民を割り当て、耕作をさせるべきかと」


「ほう…具体的には?」


「はっ。これを屯田と称します。流民を屯田民とし、五十畝の土地と農具、耕牛を貸し与えます。その代わり、彼らには通常の五、六倍にあたる収穫の五割、牛を借りた場合は六割という高額の税を納めさせます。彼らは一般の民とは異なる、特別な戸籍に入れられ、食糧生産に専念させれば、いずれ百余万斛の食糧が手に入りましょう」


曹操の目が輝く。


「よかろう!直ちにこの策を施行せよ!」


曹操の決断に、隣で聞いていた程昱が口を挟んだ。


「曹公、内政と同時に、軍事の礎も築くべきかと。かの青州兵のように、兵役を特定の家系に永代の義務として負わせる兵戸制を確立なされば、兵の供給は常に安定し、この乱世を勝ち抜く大きな力となりましょう」


「うむ、そちらも任せる」


曹操は深く頷いた。


飢餓から民を救い、兵を養うための食糧を確保する屯田制。


そして、その兵力を安定的に維持する兵戸制。


これら二つの制度は、やがて来るべき戦乱を勝ち抜き、後に魏という強大な国家を支える、揺るぎない礎となったのである。


その頃、長安では、互いに疑心暗鬼に陥った李傕と郭汜が、ついに命を落とす。李傕は漢政府の命を受けた韓遂や馬騰によって滅ぼされ、郭汜も部下の裏切りによって殺されていた。彼らの末路は、まさに自らの欲と猜疑心が招いたものだった。


一方、張済は劉表との戦いで命を落とす。


「不覚……!」


その最期の言葉と共に、彼は矢に倒れた。だが、彼の従子である張繍は、叔父の死を悼む劉表の申し出を受けた。


「張繍殿、そなたの叔父殿の死は、この劉景升も心痛む。だが、この荊州には、もう争いは不要。我らで共に、この地を守らんか」


「劉公の慈悲、張繍、しかと受け止めました。これよりは劉公の下、共に兵を休め、民を安んじましょう」


かつての天下を騒がせた者たちは、次々と時代の流れに呑まれていく。今や、天子を奉じ、足元の治世を固め始めた曹操こそが、来るべき戦乱の世を終わらせる、新たな時代の盟主として立ち上がったのだった。



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