第八回 曹操揮鞭由此強 陳宮密謀陥兗州
初平二年、春まだ浅い頃のこと。
北の空を覆う勢いで、黒山軍の旗が魏郡、東郡へと押し寄せていた。東郡太守の王肱はただ狼狽するばかりで、防ぐ術もなかった。そこに現れたのが、旧知の鮑信と共に兵を率いた曹操だった。
戦後、静かに酒を酌み交わしながら、鮑信が言った。
「よくぞ、ここまで被害を抑えられましたな、孟徳殿。戦とは、かくも血が流れるものだと思っておりました」
曹操は杯を静かに置き、応えた。
「無駄な血は、未来を枯らすだけだ、元忠。民の命こそ、国を築く礎石なのだ。私は、この時代の無意味な死を、一つでも減らしたいのだ」
その言葉に、鮑信は深く頷いた。袁紹の推挙もあり、曹操は東郡太守に就任する。だが、彼は小さな成功に満足する男ではなかった。
その翌年、初平三年。東郡太守として黒山軍と戦う曹操のもとに、一報が届いた。
「孟徳殿!」
夜陰に響く陳宮の興奮した声。兗州刺史の劉岱が、青州から雪崩れ込んできた黄巾軍に敗れ、命を落としたというのだ。曹操の才覚を誰よりも高く買っていた陳宮は、その好機を逃すまいと興奮していた。
「今こそ『覇王の業』を成す時です。兗州は主を失い、混乱の極みにあります。この機を逃してはなりませぬ!」
曹操は陳宮の言葉に深く頷いた。
「公台、君の言う通りだ。だが、兗州の有力者たちが私をすんなり受け入れるだろうか?」
「ご心配なく。私が先行して、彼らを説得してまいります。済北の相、鮑信殿も、きっと賛同してくださりましょう!」
陳宮は先行して兗州に赴き、別駕や治中といった有力者たちを説得して回った。鮑信も陳宮の意見に賛同し、共に曹操を迎え入れることを決めた。
こうして曹操は兗州牧となった。しかし、その戦いは壮絶を極めた。鮑信は黄巾軍の猛攻から曹操をかばい、無数の矢を受けて倒れた。
「鮑将軍が!黄巾の矢に……!」
兵士の叫びが響く。曹操は彼の亡骸に静かに手を合わせ、己の無力さを噛み締めた。だが、悲しみに暮れる暇はない。彼は黄巾軍を降伏させ、彼らを再教育し、自軍に組み込んだ。「青州兵」と名付けられた彼らは、曹操の理念を理解する特別な部隊となった。
勝利の後、曹操の陣営には、荀彧の推挙で迎えられた策謀の士、戯志才がいた。彼は世俗から身を遠ざけていたが、その才は曹操からも重んじられていた。しかし、その才能が花開く前に、彼は病に倒れ、早逝した。
曹操は彼の死を深く悲しみ、彼を失った穴はあまりにも大きかった。曹操は遠く離れた荀彧に手紙を送った。
「戯志才が亡くなり、計略を相談できる者がいなくなった。元より汝南・潁川は優れた人物の多い地だが、誰か彼の後を継げる者はいないだろうか。」
荀彧は曹操の悲痛な思いを察し、すぐに返事を書いた。
「ご期待に沿える人物がおります。郭嘉と申します。彼の才は、戯志才に勝るとも劣りません」
そして、その郭嘉を連れて、荀彧自身も曹操の元へとやってきた。曹操は自ら出迎え、彼の聡明な瞳を真っ直ぐに見つめた。
「聞けば、君は袁本初を去ったとか。なぜだ?」
荀彧は澱みなく答えた。
「袁公は天下の器に非ず。小利にこだわり、大局が見えておられません。しかし、あなたは違う。あなたの目は、民の苦難と、その先に広がる太平を見据えている」
曹操は大声で笑い、彼の手を取った。
「良い!まさに我が子房が来た!君がいれば、私の志は成し遂げられるだろう!」
長安から金尚という男が、兗州牧に任命されたと名乗ってやってきた。
「私は長安の命により、兗州牧として赴任した。速やかに職務を引き継いでいただきたい」
曹操は冷静に彼を迎え入れた。
「金尚殿、お言葉ですが、今の兗州は戦火に荒れ果て、長安の庇護も及ばぬ状態です。あなたがこの地に来られても、その混乱はさらに深まるだけでしょう」
金尚は訝しんだ。
「では、どうしろと?」
「もし私を信頼してくださるならば、この兗州の再建を私に一任してはいただけませんか。私は必ず、この地を安定させ、帝への忠誠を尽くします。その功績は、必ずや金尚殿の功績としましょう」
金尚は曹操の合理的な提案と、その揺るぎない自信に圧倒され、最終的に曹操の意を汲んで去っていった。しかし、この一件は袁術の不満を招き、彼は兗州へと侵攻を開始した。曹操は袁紹と協力し、袁術軍を壊滅させ、南へと追いやった。
その勝利の直後、曹操の元に信じがたい知らせが飛び込んできた。父の曹嵩と弟の曹徳が、徐州で命を落としたというのだ。
「落ち着け!何があったのか、すべて話せ!」
曹操のただならぬ気迫に、使いの者は震えながらも告げた。
「……お父君と、弟君の曹徳様が、徐州で、陶謙の兵に殺されました……!」
曹操はよろめいた。その怒りを抑えられなかった。
「……嘘だ!父上は、ただ静かに故郷へ戻るだけだった……!なぜだ!なぜ父を……!」
軍議の場では、復讐を叫ぶ声が渦巻いた。
「陶謙に復讐を!徐州を血の海に!」
曹操は立ち上がり、静かに、しかし力強く叫んだ。
「静まれ!これは復讐ではない。陶謙の罪を明らかにし、父の命を奪った者たちを裁くための、正義の戦だ!民を巻き込むな。家畜にまで手を出すな。秩序を乱す者には、容赦なく罰を与える。分かったな!」
初平四年と興平元年の二度、曹操は徐州に侵攻した。しかし、彼の軍は陶謙の軍とは激しく戦いながらも、無辜の民には一切の危害を加えず、略奪も最小限に留めた。徐州の民は、曹操の軍の規律正しさと、その行動に驚き、やがて彼の名声は広まっていった。父の死という深い悲しみを抱えながらも、曹操は自らの理想を貫き、乱世を生き抜いていくと決めたのだった。
北風が吹き荒れる兗州の地は、もはや曹操の手に落ちていた。勢いに乗る曹操は、天下の覇を唱える日を夢見ていたが、その高揚感の裏側で、静かに、そして深く、曹操と兗州の士大夫たちとの間に亀裂が生まれ始めていた。
が求めるのは、華美な言葉を弄するだけの「浮華の徒」ではない。民を支え、天下を動かす地道な実務に長けた人材であった。
中でも、辺譲という男は、その才気を恃んで新しい主君に頭を下げようとしなかった。同郷の者から、その傲慢な言葉が曹操に告げられる。
「曹操様、辺譲という男が、その才を恃みに公然と主君への軽侮を口にしております。曰く……『所詮は宦官の孫。この私が、どうしてそのような男に頭を下げねばならぬか』と」
報告を聞いた曹操の顔から、笑みが消え失せる。その目は、冷たい氷のように光っていた。
「才気か。才気など、私に従うことで初めて価値を持つ。私に屈せぬ才は、ただの禍にしかならぬ。…奴を処刑せよ。才があるが故、見せしめが必要だ。」
冷徹に言い放ち、曹操は郡に命じて辺譲を処刑させた。
この報せは、兗州の士大夫たちに衝撃を与えた。特に、かつて曹操を民を救う英雄だと信じていた陳宮の怒りは激しかった。
「信じられぬ!辺譲殿は、ただ言葉が過ぎただけだ!それを理由に殺すとは……!曹操殿は、もはや民を救う英雄ではないのか!」
陳宮の言葉に、陳留太守の張邈が応じた。
「公台、お前は甘い。曹操殿は恐ろしい男だ。我々はもともと袁紹殿と同盟して曹操殿を助けたに過ぎぬ。だが、その袁紹殿が最近になって私を非難していると聞く。いつか曹操殿が私を攻撃する口実を作るのではないかと、夜も眠れぬのだ……!」
張邈の疑心と、陳宮の募る憤りが一つになった。彼らは叛逆を決意する。折しも、曹操は父の死の復讐のため、徐州の陶謙を攻めるべく、軍の大部分を率いて兗州を離れていた。
「将軍!あなたこそが天下に並ぶ者なき最強の武将。曹操殿が不在の今、共に立ち上がれば、この兗州は将軍のものとなりましょう!我ら義によって集い、この地の民を守るのです!」
陳宮の言葉に、最強の武将である呂布が不敵に笑う。
「ふん、面白い。天下の覇者、この呂奉先が、この地で新たな力を示す時が来たようだな!」
陳宮は呂布、そして張邈、その弟の張超、王楷、許汜らと共に反乱を起こした。陳宮の檄に、兗州の郡県のほとんどが呼応し、呂布の旗の下に集結した。しかし、曹操に味方したのは、わずかに鄄城、范、東阿の三城のみだった。
「まさか、張邈殿が……。しかし、動揺してはならぬ。この危機、乗り越えられぬはずはない」
反乱の報を聞いた荀彧は冷静に言った。東阿を守る程昱は、陳宮軍の攻撃を迎え撃つ。
「公台の才は厄介だが、必ずや策はある。私の策に従うならば、東阿は必ず守り抜いてみせましょう」
興平二年春、父の死の復讐を終えた曹操が、ついに兗州へと戻ってきた。勢いを失っていた呂布軍を圧倒し、鉅野で薛蘭・李封を撃破する。
「呂布よ!その才、私に敵うか!所詮は勇猛なるだけの獣よ!」
曹操軍の巧妙な戦術に、呂布軍は敗北を重ねた。陳宮は自ら呂布を諫め、東緡へ出撃し、曹操軍を攻撃する。
「将軍!ここが正念場です!この戦に勝たねば、我らの未来はない!どうか、私の策を信じてください!」
しかし、呂布はもはや耳を貸さなかった。
「うるさい!貴様の策など、もはや役に立たぬ!この戦、もううんざりだ!」
陳宮の言葉は虚しく、曹操軍の巧みな伏兵に遭い、再び大敗を喫した。もはやこの地にとどまることは不可能だと悟った陳宮は、呂布に頭を下げた。
「呂布殿、もはやこれまで。この地を捨て、再起を図るしかありません」
呂布は陶謙の死後に徐州牧となっていた劉備を頼って落ち延び、張邈もそれに付き従った。しかし、曹操は、張邈が弟の張超に家族を預けていることを知ると、すぐに張超を攻撃した。
「裏切り者には死あるのみ。張邈の三族を皆殺しにせよ!」
こうして張超は破られ、張邈の三族は皆殺しにされた。張邈自身も逃走中に部下に殺された。
かつて民を救うために手を結んだ二人は、互いの信念の違いから道を違え、泥沼の戦いの果てに、それぞれ異なる未来へと歩み始めたのだった。
兗州の地をその手中に収めた曹操は、さらなる勢力拡大のため、徐州の陶謙を攻めるべく軍を率いて旅立った。しかしその留守を突き、陳宮と張邈は最強の武将である呂布を盟主として迎え入れ、兗州のほとんどを掌握した。
徐州への遠征中、曹操のもとに呂布が兗州に入ったとの報せが届いた。
「呂布?たかが一匹の武夫ではないか。奴に何ができるというのだ。私の知己である張邈が、天下を論じた陳宮が、その程度の男に操られるはずがない!」
曹操は歯牙にもかけず、悠々と食事を続けていた。しかし、配下が詳しく事態を説明すると
「は、しかし、兗州の郡県のほとんどが呂布に呼応したとのこと……。鄄城、范、東阿の三城のみが抵抗しております」
曹操の顔から笑みが消え失せた。最初は信じられないと笑っていたが、内心は穏やかではなかった。やがて、自らの驕りに対する激しい怒りがこみ上げてきた。
「なぜだ!なぜ、私を裏切るのだ!孟卓!公台!お前たちは私の友ではなかったのか!私は、民のため、天下のために力を尽くしてきたはずだ!なぜ、こんな裏切りが……!」
曹操は叫び、目の前にあった膳をひっくり返した。食器は砕け散り、曹操は頭を掻きむしり、その場に崩れ落ちた。ただ事ではない主の姿に、報告の兵は恐怖に怯えた。しかし、その場に控えていた典韋は静かに下がらせ、曹操の荒々しい愚痴をただ黙って聞いていた。狂乱した曹操とまともに話し合える人間は、郭嘉しかいなかった。
郭嘉が静かに幕舎に入ると、曹操は取り乱したまま呂布への恨み言を口にした。しかし、郭嘉はそれを静かに笑い、冷静に語りかけた。
「公。お怒りはごもっとも。しかし、膳をひっくり返すなど、みっともない真似はおよしくだされ。天下の笑い者になりますぞ」
「奉孝……お前まで、私を笑うのか!?」
「いいえ。ただ、あなた様があまりにも取り乱していらっしゃるので。この郭嘉に何かお話いただけることはございませんか?」
郭嘉の言葉に、曹操は感情を露わにする。
「兗州は私の本拠だ!それを奪われたのだぞ!なぜ、天は私を助けないのだ!」
「…さて、よろしいか。この度の危機は、徐州での勝利を確信し、すでに天下を手にいれたかのような錯覚に陥っていた、あなた様の心の隙を突かれたにすぎません」
郭嘉の言葉は、曹操の胸に鋭く突き刺さった。
「何を言うか!私は…」
「反論なさるお気持ちはよくわかります。しかし、あなた様は徐州を平定すれば、すべてが片付くと思い込んでいらっしゃった。それが慢心です。天下は、あなた様が想像されるほど単純ではない。呂布の侵攻は、天が与えた試練と心得ましょう」
曹操は絶句し、やがて静かに立ち上がった。
「…郭嘉。貴様の言う通りだ。私は、少しばかり浮かれていたようだ」
「さよう。まずは心を落ち着け、冷静に状況を見極めることです。そして、速やかに兗州へお戻りください。戦はまだ、始まったばかりにすぎません」
「わかった。典韋、郭嘉の言う通り、全軍に帰還を命じる。…郭嘉、貴様がいなければ、私は今頃どうなっていたかわからぬな」
兗州に戻ってきた曹操を迎え撃つべく、呂布は濮陽に籠城する戦略を取った。曹操が攻撃を仕掛けると、呂布はこれを連破し、曹操軍は劣勢に追い込まれた。しかし、兗州を襲った旱魃と蝗害は、呂布軍の兵糧を枯渇させた。呂布は曹操に止めを刺す機会を逸し、山陽へと駐屯せざるを得なかった。
その後も、呂布軍と「兗州連合軍」は一年以上に亘り激戦を繰り広げた。だが、寄せ集めの軍である呂布軍は、曹操が率いる精鋭には太刀打ちできなかった。