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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
奸雄世に問う
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第六回 大将軍横遭非禍 曹孟徳養兵自重

中平六年四月。長きにわたる病と苦痛から解放されるかのように、漢の霊帝が崩御した。その報は、まるで凍てつく冬の訪れのように、洛陽の宮中に重く響き渡った。彼の死は、漢王朝の命運を揺るがす大いなる混乱の引き金となることを、誰もが漠然と、しかし確実に予感していた。霊帝には二人の息子がいた。一人は、何皇后が産んだ嫡子、皇子弁。もう一人は、王美人が産んだ皇子協である。


霊帝の崩御は、瞬く間に後継者争いを激化させた。宮中は、まるで獲物を前にした飢えた獣たちのようだった。


「弁こそが嫡流! 陛下のご遺志を継ぐのは当然、皇子弁様である!」


何皇后は、まるで幼い息子を盾にするかのように、声を荒げた。彼女の背後には、兄である大将軍の何進が控えていた。何進は、焦っていた。この機を逃せば、外戚としての自らの権力が危うくなる。妹である何皇后を通して、皇子弁を皇帝に押し上げることで、宮廷の全てを意のままに操る。それが彼の目論見だった。

しかし、霊帝の遺詔は、別の皇子を指し示していたという噂が、宮中に広まっていた。


「伝令! 陛下のご遺詔にて、二皇子が後継者と定められたと!」


宦官勢力の筆頭、上軍校尉の蹇碩は、この遺詔を唯一の武器としていた。彼は霊帝から直接、劉協を後継者とする遺詔を与えられたと主張し、その擁立を画策した。


「この蹇碩が、陛下のご遺志を全うせねばならぬ! 何進め、貴様ごときが口を出すことではないわ! 我らが宦官の力、思い知るがよい!」


蹇碩は、皇子協の後ろ盾である董重と組んで、何進の誅殺を企てた。しかし、蹇碩の司馬である潘隠が、何進と親しく交流していたため、この計画を密かに何進に密告したのである。


「大将軍殿、蹇碩が董重と組んで、貴殿の命を狙っております! 今すぐお逃げを! 命あっての物種でございます!」


潘隠の必死の忠告に、何進は冷や汗をかきながら難を逃れた。蹇碩の企みは、寸前のところで失敗に終わった。


中平六年五月、何進の強引な策が功を奏し、ついに劉弁が即位し、少帝となった。少帝の即位は、宮中の権力地図を瞬く間に塗り替えた。十常侍の趙忠を初めとする宦官の主流派は、少帝の即位が決まると、それまで劉協を推していた蹇碩をあっさりと見捨て、何進に与したのである。


「蹇碩め、愚か者よ! 時代は既に何進に傾いておる! 我らは、生き残るために大将軍殿に与するのみ!」


趙忠は、そう言い放ち、まるで旧友を見捨てるかのように蹇碩に背を向けた。宦官たちの変わり身の早さは、彼らの根深い保身術と、生き残るための執念を物語っていた。


その結果、ついに蹇碩ならびに董氏一党は排除された。六月には、皇子協の祖母であり、劉協を擁立しようとした董太后も洛陽から河間へと追放され、そこで哀れな死を遂げたという。これにより、何氏は政敵であった董氏一党を完全に排除し、宮廷における権力を盤石にしたかに見えた。


しかし、少帝の即位後も、それまで朝野に鬱積していた不満は爆発し、特に宦官が世論の厳しい批判を浴びるようになった。何進は、蹇碩に殺されかけた怒りもあり、宦官の排除に乗り出すことを決意した。彼は袁紹ら幕僚たちを集めて積極的に諮った。


「本初よ、今こそ宦官どもを根絶やしにする好機だ! 奴らがいる限り、この漢室に真の安寧は訪れぬ! この何進、自らの手で膿を出し切ってみせる!」


何進は、激情に駆られたように熱弁を振るった。袁紹は、その言葉に強く頷いた。


「大将軍殿、全くもってごもっともにございます! この袁紹、長年の宿願を果たすため、何進殿のお力とならん! 彼らを一網打尽にし、清流派の悲願を達成いたしましょう! これこそ、天下の民が待ち望む正義でございます!」


何進と袁紹は、宦官を宮中から一掃するための密謀を重ねていた。袁紹は、焦る何進の心情を巧みに利用し、緻密な計画を練り上げた。


「大将軍殿、宦官どもは根深く、ただの兵力では容易に討伐できませぬ。彼らは宮中の奥深くまで巣食っておりますゆえ。ここは、地方の将軍を都に呼び寄せ、武力をもって太后様や宦官どもに圧力をかけるのです! 武力こそが、彼らを屈服させる唯一の手段にございます!」


だが、この計画は思わぬ壁にぶつかった。何太后や、彼女の継弟である何苗が宦官を擁護したのである。何太后は、宦官たちから多額の賄賂を受け取っており、また、幼い頃から宦官に世話をされてきたために、情に絆されていたのだ。


「兄上、宦官をすべて排除するなど、あまりにも乱暴ではございませんか! 彼らが長年宮中を支えてきたことも事実。穏便な解決策を探すべきです! 血を流すことは、決して良いことではございませんわ!」


何苗もまた、宦官と密かに結託しており、何進の計画に反対した。こうして、身内である何氏同士で対立が生じるという、何とも皮肉な構図になった。


また、外戚である何氏との連携によって事態を乗り越えようと図っていた宦官たちにとっても、これは想定外の事態であった。中常侍の張譲が、何進を説得しようと試みた。


「大将軍殿、我ら宦官も、陛下の臣にございます。何卒、穏便に済ませてはいただけませぬか。我らとて、漢室の安寧を願う心は同じでございます」


張譲の言葉は、表向きは恭しいものだったが、その裏には、生き残るための必死の懇願と、状況を打開しようとする焦りが滲んでいた。彼らは、自らの命が風前の灯であることを理解していた。


何進が宦官との争いに及び腰になると、袁紹はさらに過激な提案をした。


「大将軍殿、太后様や何苗様がご決断なされないのであれば、もはや手段は一つ! 地方の諸将を都に呼び寄せ、圧力をかけるしかございません! 武力をもって示さねば、彼らは我々の本気を見抜けぬでしょう!」


この提案は、何進にとって非常に危険な賭けであった。遠方の将軍を呼び寄せれば、その将軍が新たな権力者として台頭する可能性があったからだ。彼の胸中には、一抹の不安がよぎった。


しかし、この袁紹の提案には、盧植、陳琳、そして曹操らが強く反対した。


「本初、それはあまりにも危険な策!」


曹操は、何進と袁紹の顔を真っ直ぐに見据え、強い口調で諫言した。


「地方の将軍を都に招けば、彼らが権力を握り、かえって事態を複雑化させる恐れがございます。それはまさに火中に油を注ぐがごとき行い! 宮中の空白を、新たな野心家に与えるだけでしょう! 大将軍殿、どうかご再考くださいませ!」


曹操の脳裏には、歴史書に記された、この後の展開が鮮明に浮かんでいた。宮中の空白が、いかに巨大な災厄を招き入れるかを。彼は、何進と袁紹の浅はかさに、内心で深い嘆息を漏らした。彼らは宦官という目の前の敵に囚われ、その後に続く、より巨大な災厄を見通せていなかったのだ。


だが、再三にわたる袁紹の催促の結果、何進はついにこれを容れた。彼は王匡、橋瑁、鮑信、張楊、張遼、そして曹操に兵士や兵糧を集めさせると共に、北方の丁原や、西北の董卓といった地方の将軍を呼び寄せた。


曹操は、何進と袁紹のこの愚行が、必ずや漢室を滅ぼす原因となると確信した。そこで彼は、この招集で洛陽に集まるであろう将軍たちの中で、比較的温厚で人望のあった張楊に目をつけた。曹操は張楊に密かに近づき、友好を結んだ。


「張楊殿。この洛陽の情勢は、我らが想像する以上に危険な道を辿るでしょう。大将軍殿のご計画も、その裏に潜む危険を過小評価しておられる。来るべき時に備え、我らは互いに連携を密にすべきかと存じます」


張楊は、曹操の言葉に訝しげな表情を浮かべたが、彼の真剣な眼差しに、やがて頷いた。


「孟徳殿の言うことも一理ある。この洛陽の空気は、確かに一触即発の危険を孕んでおる。承知した。もしもの時は、互いに助け合おうではないか」


これは、来るべき乱世において、曹操が自らの勢力を広げるための、したたかな布石の一つであった。また袁紹は、何進の承認なしに、大将軍の命であると偽って、各地に指令を出したこともあった。これは、彼の焦りと、目的のためなら手段を選ばないという、彼の人間的な側面を物語っていた。


情勢は俄かに緊迫した。この異常な状況に、袁紹は何進に対して、再三にわたり忠告していた。


「大将軍殿、宮中に軽々しく入るべきではございません! 宦官どもは、もはや手段を選ばぬでしょう! どうかご用心を!」


しかし、何進は、自らの権力を過信し、袁紹の忠告に耳を傾けなかった。彼は、宦官がここまで追い詰められている以上、正面から対峙すれば屈するだろうと楽観視していたのかもしれない。


永漢元年八月。何進は、まるで自分の運命を嘲笑うかのように、無警戒に宮中に参内した。そこで彼を待ち受けていたのは、宦官の段珪、畢嵐らが率いた兵だった。


「何進め! 貴様は我らを滅ぼそうとしたな! 天罰覿面だ! 愚か者めが!」


張譲は、憎悪のこもった声で何進を罵倒しながら、嘉徳殿の前で彼を殺害させた。何進の首は、無情にもその場で刎ねられた。彼の野望は、血まみれの洛陽の宮廷に散ったのである。


張譲らは何進を殺害すると、すぐさま詔を偽造し、宦官らに親族していた少府の許相と太尉の樊陵を利用し、都の兵を握ろうとした。この時、命令を疑った尚書に対し、何進の首を見せてその正当性を示したという。その首は、彼らの勝利を告げる、血塗られた証だった。


しかし、何進が普段から部下に対して親しく接していたため、彼の死は部下たちの激しい怒りを買った。何進の死を知った袁術は、怒りに震え、直ちに兵を挙げた。


「大将軍殿の仇討ちだ! 宦官どもを皆殺しにせよ! 宮中の腐った血を洗い流すのだ!」


袁術は、何進の部曲であった呉匡らとともに宮中に突入し、血塗られた報復を開始した。何太后の身柄は確保したが、少帝と陳留王の身柄を宦官に奪われてしまった。


また、袁紹も叔父の袁隗ならびに盧植とともに、許相らを誘き出して斬り、何苗と協力して趙忠を捕らえ斬った。


「これで、漢室の膿は出し切られた! 本初、よくぞやった!」


袁隗は、そう言って安堵の息をついた。だが、その安堵は、あまりにも短命なものだった。


こうして、宮中から宦官とそれに味方する勢力は、老若の区別なく皆殺しにされ、完全に一掃された。その数は、二千人以上にも及んだという。少帝と陳留王の身柄を奪って逃走した宦官の残党らも、変を知り軍を率いて上洛してきた董卓から追い詰められ、自ら命を絶つしかなかった。


しかし、この混乱の中で、何太后の継弟であった何苗も、何進の部下である呉匡によって殺害されてしまう。


「何苗め、大将軍殿を裏切りおって! その罪、許すまじ!」


呉匡の怒りは、主君を死に追いやった者すべてに向けられていた。こうして、何氏は大きく勢力を弱め、宮中の権力は完全に空白となったのである。


宮中の血と混乱を耳にし、好機とばかりに上洛してきた董卓にとって、この状況はまさに願ってもないものであった。彼は少帝と陳留王の身柄を保護し、意気揚々と都に戻ることができた。


董卓は、その圧倒的な武力と、残虐な性格を露わにし、洛陽を完全に掌握した。彼は、居並ぶ百官の前で、自らの野望を露骨に語り始めた。


「少帝は暗愚にて、天下を統べる器にあらず。漢室の安寧のため、皇帝を替えねばならぬ!」


董卓は、そう高らかに言い放った。彼の眼光は鋭く、誰もが彼の武力を前に、恐れおののき、沈黙するしかなかった。


董卓は、わずか十三歳の幼い皇帝を廃位し、代わりに賢明な資質を持つとされる陳留王を皇帝に擁立した。これが、後の献帝である。これにより、董卓は献帝を自らの傀儡として、漢王朝の政治を意のままに操る、新たな専横の時代が幕を開けたのである。彼の顔には、天下を掌中に収めた男の、傲慢な笑みが浮かんでいた。


この董卓の専横に、洛陽にいた者たちは震え上がった。命の危険を感じ、多くの官僚や将軍たちが都を離れ始めた。


「くそっ、この期に及んで、まさか董卓めが帝を擁立するとは! 何進殿の計画が甘かったのだ! このままでは、我々も奴の毒牙にかかってしまう!」


袁紹は、悔しさと焦りで顔を歪めた。自らの立場が危うくなったことを悟ると、直ちに洛陽から逃走した。彼は故郷の冀州へと向かい、そこで董卓に対抗するための挙兵準備を始めた。彼の胸には、今度こそ天下に名を轟かせんとする、新たな野望が芽生えていた。


曹操もまた、王芬らからのクーデターの誘いを断り、何進の計画に反対していたが、董卓の専横を看過することはできなかった。彼は、董卓が洛陽を掌握したことを知ると、すぐに逃走を決意した。彼の顔には、いつもの闊達な笑みが浮かんでいたが、その瞳の奥には、冷徹な決意が宿っていた。


「はっはっは! 董卓め、やはり来たか! そして、予想通りに帝を擁立したな。これで、天下は本格的に乱れる。だが、これこそが、私の出番なのだ!」


曹操は、わずかな手勢を率いて洛陽から脱出。故郷の譙県へと戻り、かねてより準備を進めていた私兵を率いて挙兵した。彼の胸には、未来を知る者としての董卓への対策が、静かに、しかし確かな熱量を帯びて宿っていた。彼は、この乱世を自らの手で切り開く覚悟を決めていた。


こうして、漢王朝は董卓の支配下に置かれ、天下は本格的な乱世へと突入した。そして、この混乱の中から、後の三国を築くことになる英傑たちが、それぞれの思惑と人間的な感情を胸に、動き始めるのだった。嵐の前の静けさは終わりを告げ、血と裏切りに満ちた時代の幕が、今、開かれた。

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