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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
四方を平定す
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最終回其五

曹操は眠りから覚め、書斎へと向かった。筆を手に取るその指先には、もはや戦場で槍を握る力はなかったが、詩を吟じる時の静けさが宿っていた。


傍らに控えていた卞夫人は、夫の様子を静かに見守る。


「死ぬのですか?」


卞夫人の軽い問いかけに、曹操は微笑んだ。


「あぁ、死ぬさ」


「死んだら、大層な騒ぎになるでしょうね」


その言葉に、曹操はただ静かに頷いた。


「ならば、騒ぐなと書いておこう」


この人は、最期まで私の悲しみより、自分の死がもたらすであろう騒乱を案じている。本当に、他人のことには一切興味がないのだから……


曹操は筆を進めていたが、突然、筆を止めて天井を仰いだ。


この遺書を完成させたら、本当に死んでしまいそうだ。


あら? 死後、側室や女官たちの生計について、事細かに書いているではないか。最期まで、この人は女のことばかり……


「もう少し、覇者らしいことを書かれては?」


「うむ、死ぬにも気力がいるな……」


死んだら、きっと十日もすれば、また仰々しく泣くのだろうな。だが、儂の死など、三月もすれば皆忘れるだろう。


燭火が揺れ、曹操の書斎に最後の光を投げかける。筆が滑り落ちるように机に置かれると、静寂が満ちた。広げられた巻物から、曹操の力なくも澄んだ声が響き渡る。


「我が命は、もはやこの燭火のようだ。尽きようとしている。この腕に残るは、戦場で槍を振るった力か、それとも詩を吟じた時の静けさか……」


傍らに控えていた曹丕は、その言葉を静かに聞いていた。父の最期の言葉だ。きっと、これまでの苦労を労い、息子への愛を語るのだろう。


「……天下はいまだ安定していない。古来の慣習に囚われるな。葬儀が終われば、皆は早々に喪を解き、それぞれの務めに戻るように……」


え? 葬儀の話か……。なんとも父上らしいな……


「……子桓よ、お前は私の息子であり、私の後を継ぐ者だ。我が理想は三つの柱で支えられる。一つは、川の流れを操り、道を拓くこと。それは、人の営みを導くことだ。二つ目は、荒野に咲く花を見つけ、光を当てること。それは、天下を彩る才を見つけることだ。三つ目は、若葉に雨を降らせ、太陽を注ぐこと。それは、未来を育むことだ……」


川に花に若葉……? まるで、詩人の最後の詩じゃないか。最後の最後まで、理解できない美しさを語るのか……


曹丕は額に手を当て、深いため息をつく。期待していた、父としての温かい言葉は一向に出てこない。

その横で、曹昂はただ圧倒されていた。父の言葉の持つ、あまりにも孤独な美しさに、悲しむ感情さえも行き場をなくす。


父上は、最期の瞬間まで、己の死さえも一つの芸術として完成させようとしている。この人には、一体、どれほどの孤独な理想が見えていたのだろうか……

曹操の隣で、卞夫人はその頬を優しく撫でていた。夫の最後のぬくもりを確かめるように。しかし、その手は途中で止まる。


「愛する妻や、我が子たちよ。我が死後、お前たちは華やかな衣装をまとう必要はない。ただ、私の詩を愛し、才能を磨き、この世の美を歌い継いでくれ……」


この人は、最後まで私の現実を見ていなかったのだわ。華やかな衣装が欲しいわけではない。ただ、夫の最後のぬくもりを抱きしめていたいだけなのに……


「もはや、筆を置く時が来た。我が人生はここで終わるが、我らが描いた国家の未来は、ここから始まる……」


曹操が静かに息を引き取ると、部屋に流れたのは、悲しみではない、なんとも言えない呆然とした空気だった。


しばらくして、曹丕が静かに立ち上がり、遺書の巻物をそっと巻き始めた。


「……父上は、最後まで、曹操だったな」


卞夫人は、夫の亡骸を見つめていた。その表情には、悲しみよりも深い安堵と、かすかな諦めが浮かんでいた。


「この男の妻として生きることは、最後まで忙しいことだった。でも、もう、この重たい鎧を脱いでもいいのですね……」


魏王の遺志、そして二千年後の大漢帝国。


広げられた巻物には、彼が天下に託した壮大な遺志、そして家族への最後の言葉が記されていた。


「我、思うに、天下を平らげたりとも、真の平定とは謂うべからず。

万民が明日を憂い、腹を満たし得ず、無学のまま過ごすにあらば、それ、未だ乱世に他ならじ。我が遺志を継ぐ者よ、善く心して聴くべし。

まず、国を築くの礎は、人に在り。都の近くに学舎を設け、賢人には門戸を開き、貧しき者にも学ぶの道を与えよ。文字と道理を教え導き、ただ武力をもって服属せしむるにあらず、人心をもって治むるの術を身につけしむべし。

次に、国を富ませんには、民の暮らしを豊かにせしめねばならぬ。荒蕪の地を耕し、五穀を実らせよ。遠方の地とも貨を交わし、生産を奨励せよ。国栄えなば、民もまた栄えん。

そして、国を守らんには、備え、欠くべからざるものなり。軍備を怠るなかれ、兵の訓練を絶やすことなかれ。武は国の盾なり。されど、それ以上に、国を繋ぐの道を広げ、行き交う水路を整えよ。道通ずれば人の往来盛んとなり、水流れなば田畑潤はん。これこそが、民を結び、国を一つにする最も肝要なる策なり。

此等の策を成し遂げ、天下泰平の世を築きてこそ、我が戦も報いられん。

我が子らと妻に

然らば、我が子らよ。我亡き後、互いに相争ふことなかれ。我が遺せし理想を、互いに力を合わせ、それぞれの道にて成し遂げよ。

子桓よ、汝、常に我を解き、努めてくれたるなり。その重き任、決して独りならずと知るべし。

子文よ、汝の武勇、天下に並ぶ者なし。されど、その力、民を護るが為にこそ振るへ。

子建よ、汝の詩、天を穿つ。されど、その才、人の営みより遠ざくることなかれ。

我が妻、卞氏よ。華美なる衣裳は不要と記せしが、我が書斎の奥に蔵せし『詩経』の注釈書を、汝への最後の贈りものと為さん。

頼みしぞ。

我が身辺について

余香は諸夫人に分かち与ふべし、祭祀を命ずるには及ばじ。

諸々の舍中にて為す所なき者は、履や組紐の作りを学びて、之を売りて暮らせ。

我、官に歴任して得たる綬は、皆蔵中に納めて置け。

我が余りの衣裘は、別に一蔵と為すべし。

能わざる者は、兄弟にて共に之を分かち合うも可からん」


この遺志は後継者である曹丕に確かに受け継がれた。


「朕は、賢臣を失ったのだ……」


西暦二百二十年。洛陽郊外の魏王府で、静かに息を引き取った男の訃報は、瞬く間に紫禁城へと届いた。

曹操――享年六十六。


後の世で「漢朝復興の父」と称される男の死を、玉座に座す皇帝劉協は、ただ茫然と受け止めていた。血筋は違えど、もはや彼らは君臣の関係を超えていた。

「なぜ、そなたが先に逝くのだ……」


震える声でつぶやき、劉協は静かに目を閉じる。彼の頭の中には、かつて権力を持て余し、無力な傀儡に過ぎなかった自分を、曹操が深い眼差しで見つめていた日の記憶が蘇る。


「陛下、帝は天命によって定まるもの。しかし、天下を治めるのは、帝ではなく、有能な官僚たちの合議です」


「ゆえに、陛下は漢朝の象徴として、すべてを統べられる。だが、統治の実務は宰相府、法司、軍部が互いを牽制し合い、一人の権力者に傾くことを防ぐべきなのです」


曹操の声は、まるで遠い雷鳴のように、今も劉協の耳朶に響く。


彼はこの男によって、ただの傀儡から、真の「漢朝の象徴」へと生まれ変わった。それは、すべてのしがらみを乗り越え、自らを漢室の家臣と位置付けた曹操だからこそ成し得た偉業だった。


劉協はゆっくりと目を開け、静かに、しかし厳かに詔を出す。


「朕は、ここに命ずる。魏王曹操孟徳の葬儀を、『帝王の礼』をもって執り行え」


玉座から降り立った皇帝は、悲しみを乗り越え、敬意を込めて言った。


「そなたの死を、朕は決して無駄にはしない。そなたが残したこの漢は、不滅だ」


その頃、魏王の死を知った諸将は、ただ悲しみに暮れる暇もなく、それぞれの持ち場である辺境へと戻っていった。


「丞相が最後に言い残した言葉は、なんだったかな……」


ある将軍が、遠く北の地に立つ長城を見つめてつぶやく。


「国境の安寧が、国家の安寧である。ゆめゆめ忘れるな」


その声は、かつて彼らの主であった男の不屈の魂が、今もなお、彼らの内に宿っていることを物語っていた。


そして、現代――西暦二〇二五年。


中華人民共和国は存在せず、代わりに大漢帝国が東アジアの超大国として、その首都を今もなお洛陽に置いている。


「陛下、本日の内閣会議の議題は……」


宰相は、玉座に座る皇帝に深く頭を下げ、静かに報告する。帝は玉座に座し、国民の崇敬を集める。だが、統治の実務を司るのは、二院制の議会と、首相が率いる内閣である。これは、二千年前、曹操が遺した制度が、時代の変遷を経てもなお、残り続けた結果に他ならない。


現代の皇帝は、内閣が提出した書類に目を通しながら、静かに微笑んだ。


「二千年か。曹孟徳。あなたの遺した揺りかごは、今日も健在だ」


彼が築いたこの制度の中で、漢は百官の権力闘争という「健全な内乱」を繰り返しつつ、滅びることなく現代にまで至ったのである。

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