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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
四方を平定す
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最終回其四

関羽と張飛が官邸へ向かおうとしたのを見て、孟達は顔面蒼白になり、慌てて彼らの前に立ち塞がった。


「お待ちください、将軍方!そのようなお姿で、劉備様の御前にお出になられては…!」


「なんだ、孟達!邪魔をする気か!どけ!兄貴に何があったか確かめるのだ!」


「益徳、待て。孟達、何用か?兄者にお目通りを願う」


そう言って、孟達は強引に二人の佩剣を取り上げ、そのまま劉備の寝室まで案内した。彼の額には、焦りの汗がにじんでいた。


なぜだ…なぜこの二人が今、ここに来るのだ…!このまま劉備様に会われれば、わしの魏への内応計画はすべて水の泡になってしまう…!何としてでも、彼らを劉備様の側から遠ざけなければ…!


孟達が、その裏で密かに魏軍への内応を急いでいる中、劉禅は静かに、しかし着実に動いていた。彼は、これまで爪を隠していた傑物としての才能を、今、発揮し始めた。妻の母である夏侯氏(夏侯淵の遠戚)を通じて、曹操に降参の知らせを送ったのである。

孟達からの寝返りの知らせと、劉禅からの降伏の知らせ。二つの異なる報せが、曹昂のもとに同時に届いた。


一体どうなっているのだ…?孟達殿は『すぐにでも城を開く』と申している。しかし、劉禅殿は『正式な降伏を申し入れる』と…!この矛盾した報せは…どちらを信じれば良いのだ…?


曹昂は、この矛盾した情報に混乱し、どう動くべきか全く分からなかった。


その裏で、劉禅は、孟達の裏切りに気づき、静かに反撃を開始していた。彼は、義兄の張苞、そして関平、関興という、関羽と張飛の近しい人間たちを密かに集めた。


「義兄上、そして関平殿、関興殿。孟達は父上の病につけ込み、魏に内応しようと企んでいます。父上の意志に反するこの裏切り者を、成都から排除せねばなりません」


劉禅の言葉に、張苞らは静かに頷いた。劉禅は、彼らを通じて、孟達側の人間を徐々に排除していき、静かに、しかし着実に成都の権力を掌握し始めていた。


劉備の寝室に入った関羽と張飛は、何とも言えないバツの悪い空気に包まれていた。かつて、桃園で義を誓い合った主君との間に生じた溝が、彼らの心を重くしていた。しかし、劉備は、二人の存在を認識しながらも、病により思考が回らなくなっていた。


「兄者…このようなお姿に…」


張飛は、かつての雄々しい主君の姿を思い出し、胸が締め付けられるようだった。


ああ、なぜだ…なぜ、こうなってしまったのだ…!もっと早く、兄者のそばに…!


その横で、関羽は静かに劉備の手を握った。


「兄者…!聞こえますか、我らです…関羽、張飛でございます…!」


このわしの驕りが、兄者の命を縮めてしまったのか…!劉備様…どうか…どうか!


二人は、劉備のただ虚ろな瞳を見つめることしかできなかった。


その頃、諸葛亮の自宅では、彼は静かに死を待っていた。


天下は、もはや…曹操の手に…


彼は、自らの策が、劉備の命運を左右し、関羽や張飛といった友を遠ざけたことを悟っていた。しかし、そのすべては、劉備という漢室の血を引く者を、天下の覇者に押し上げるためであった。


関羽、張飛…わしを許してはくれまい。だが、悔いはない。これが、この孔明の定めた、主君の行く道…


彼は、静かに目を閉じ、天命を受け入れた。


病床の劉備がゆっくりと目を開けると、そこには見慣れた二つの顔があった。長い髯をたたえた関羽、そして豪快な張飛。二人が顔を寄せ、心配そうに自分を見つめている。


「益徳…雲長…。二人とも、ここにいてくれたのか…」


劉備のかすれた声に、張飛の顔がくしゃくしゃになった。


「兄者!ああ、兄者!目が覚めてくださったのか!」


張飛は子供のように泣きじゃくり、劉備の手を握りしめた。その熱い手に、劉備は安堵を覚えた。関羽は静かに微笑み、深く頭を垂れた。


「兄者、ご無事で何より。わたくしめの不覚が、このような事態を招き…」


劉備はゆっくりと首を横に振った。


「よいのだ、雲長。もう、何も言うな」


わだかまりは、氷が溶けるように消えていった。三人の間に残されたのは、ただ懐かしさと、揺るぎない絆だけだった。


「兄者、覚えておられますか?あの桃園で、三人が義を誓い合った日を!」


「ああ、もちろんだとも。あの時の酒は、この世のものとは思えぬほど美味かった…」


劉備は微笑み、遠い目をした。関羽も静かに頷いた。


「あの誓いこそが、我らのすべての始まりでした。」

「懐かしいな。黄巾の乱、呂布との死闘…」


関羽が昔を語り始めると、張飛が笑いながら言った。


「そうだ!あの時は益徳、お前が真っ先に飛び出していってな!わしが『待て!』と言っても聞かぬのだから!」


「兄貴も、負けじと後を追ってきたではないか」


三人は声を合わせて笑った。劉備の顔にも、久しく見られなかった朗らかな笑みが浮かんでいた。病の苦しみも、重い政務の悩みも、すべてが遠い過去の出来事のように思えた。


「わしは…やはり、お前たちとこうして話している時が、一番楽しい…」


劉備はそう言って、再び静かに目を閉じた。彼の顔には、満ち足りた安らかな表情が浮かんでいた。


劉備の寝室の外では、孟達が自らの造反が成功しつつあることに満足していた。


劉備様は最早、人事不省。諸葛亮殿も余命いくばくもない。魏延も趙雲も成都にはおらぬ…!この成都は、今やわしの手中にある…!


そこへ、一人の若武者が立ち塞がった。張飛の息子、張苞だった。


「孟達殿!貴殿が魏に通じ、父上の家族を拘束したと聞くが、まことか!」


張苞の鋭い問いかけに、孟達は顔色一つ変えなかった。「ほう、張苞殿。若造が、何を大声を出すか。貴様らのような小僧が、天下の趨勢を理解できるものか。退かれよ」


劉禅め、まさかこの小僧を動かしていたとは…!だが、もはや手遅れだ。多勢に無勢、ここで貴様らを始末すれば、もはやわしを止める者は誰もいなくなる!


孟達の言葉に、張苞は怒りを募らせた。


父上、そして義父上…!あなたの意志を継ぐのは、この私だ。孟達…貴様のような裏切り者は、この私が許さない…!


孟達と劉禅からの矛盾した知らせに頭を抱えていると、ついに父曹操が到着した。その威圧的な存在感に、曹昂は安堵を覚えた。


「父上!お待ちしておりました!孟達殿と劉禅殿から、同時に異なる知らせが届き、どう動くべきか分からずに…」


曹昂は事の次第を報告した。曹操は静かに耳を傾けていたが、報告が終わると、不敵な笑みを浮かべた。


「ふむ…孟達は城を開くと申すか。そして劉禅は、降伏を申し出たと?」


「はっ。どちらを信じるべきか…」


「どちらも信じるに足る。むしろ、両方とも真実よ」


曹昂は困惑した表情で父を見つめた。


どういうことだ…?わしには、父上の言葉の意味が分からぬ…!


曹操は自らの息子を見据え、その顔にわずかな失望を浮かべながらも、冷徹に事態を分析した。


「劉備が病に倒れ、蜀の内部で権力争いが起こっておるのだ。孟達は、その争いの中で実権を握ろうとしている。劉禅は、それを阻止し、我が魏に恭順することで、事態を収拾しようとしている…」


子脩めまだまだ青いな、こんな単純なことにも気づかぬか。だが、それでよい。天下の趨勢を読み解くのは、この曹操の役目よ。劉備よ…お前の野望は、お前が死ぬ前に崩壊する…!


捕えられた魏延は、曹操の前に引き出された。魏延は顔を伏せることなく、不遜な目で曹操を見据えていた。曹操は彼を殺すどころか、むしろ興味深そうに観察していた。


「蜀の将軍、魏延よ。貴様は劉備のために我が軍を大いに苦しめた。その忠義、見事である。だが、忠義を捧げる相手を間違えたようだな」


「何を言うか!わしが忠義を尽くすのは、ただ一人、我が主劉備様のみ!」


その言葉に、曹操の隣に立つ息子、曹彰が目を輝かせた。


この男…捕虜となりながらもこの気骨。並の将ではない…!


「父上、どうかこの魏延殿をお許しください!この武勇、この知略、我が軍の力となること、間違いありません!」


ほう、我が息子が、この魏延をここまで買うか…面白い。この男は将来、何者にもなれぬ凡庸な輩ではないと見抜いたか…


曹操は静かに頷いた。


「よかろう。魏延よ、貴様を殺しはせぬ。我が軍の客将として、しばらくこの曹彰と兵法を語り合うといい。いずれ、貴様が真に忠義を尽くすべき主を見つける時が来よう」


成都城内では、関興が率いる兵たちが、孟達の配下を次々と制圧していた。孟達は敗北を悟り、撤退を試みた。


まさか…!劉禅め、これほどまでに策を弄するとは…!いや、まだだ、まだ終わらん…!


その逃走を阻んだのは、関平だった。関平は無言のまま、父関羽の愛用した刀を構えた。


「くそっ!関羽の息子め…!このわしが、貴様のような小僧に…!」


「裏切り者には、死あるのみ!」


関興の声が響き渡った。関平は何も言わず、ただ静かに刀を振り下ろした。孟達は、父関羽の威厳を宿したその一撃に、為す術もなく斬り伏せられた。


全ての騒動が収まった後、劉禅は劉備の寝室へ向かった。そこには、病床の劉備、そして関羽と張飛が静かに彼を待っていた。劉禅は三人の前で深く頭を下げた。


「父上、叔父上方…。成都の反乱は、すべて鎮圧いたしました。しかし、もはや天下の趨勢は決しております。父上の病、そして蜀の疲弊…これ以上民を苦しめることはできませぬ。私には…曹操に降伏させることしか…」


張飛は一瞬、言葉を失った。関羽も静かに目を閉じた。しかし、劉備は静かに微笑んでいた。


「…よくぞ決めた、公嗣よ」


父上…!


「わしが築いたものは、お前が守るべきもの。わしはもう、疲れたのだ…」


劉備はそう言って、劉禅の手を優しく握った。


全ての騒動が収まり、遠征から帰還した趙雲らが、劉禅の前に集められた。劉禅は静かに、しかし毅然とした口調で、蜀が曹操に降伏するという意向を伝えた。


「父上は、この劉禅に、民を守ることを託されました。これ以上、無益な戦を続け、民を苦しめることはできませぬ。故に、蜀漢は、漢室の血を引く曹操様に降伏いたします」


劉禅の言葉に、諸将はどよめき、やがて嗚咽が漏れた。彼らは、劉備と共に天下統一の夢を追った者たち。その夢が潰えたことに、涙を禁じ得なかった。しかし、劉禅は彼らの涙を静かに見つめ、口角をわずかに上げた。


よかろう…。この降伏は、父上や義父上たちの威光に泥を塗ることとなろう。だが、この怨嗟と苦しみを一身に受けることで、蜀の民は生き長らえる。それが、わしの役目…


その頃、病床の劉備のもとに、曹操が一人で訪れていた。二人は、かつての好敵手として、勝者と敗者としてではなく、ただ一人の人間として向かい合っていた。


「玄徳よ。このような形で相まみえることになろうとはな」


曹操は静かに語りかけた。劉備は衰弱しきっていたが、その目はまだ、覇者の光を宿していた。


「孟徳か…。まさか、天下を統一し、おのれの天下を築く者が、その覇者たる道半ばで倒れようとはな…」


曹操は、その言葉に深い笑みを浮かべた。


「わしは、お前との天下をかけた戦に、この生涯の興を尽くした。もはや、悔いはない」


「わしとて同じだ。わしは、お前たちに天下を託すことで、この疲れた心に安息を得た…」


二人は、若き日に天下の趨勢を論じ合った頃のように、静かに、しかし互いの深い心の内を語り合った。


劉備との対話を終えた曹操は、病室の外で控えていた息子、曹昂を呼んだ。


「昂よ。後のことは全て、お前に任せる」


曹昂は驚き、戸惑った。


「父上、それは…」


「蜀は、我が魏の新たな礎となる。玄徳が命をかけて守った民を、今度は我が手で安寧へと導かねばならぬ。この成都を、魏の新たな都として治めるのだ」


曹操はそう言い残し、静かにその場を去っていった。その背中は、天下統一の夢を息子に託し、すべてを悟った、一人の老兵のようでもあった。


父上…!この重き役目、必ずや…!


曹昂は、父の言葉を胸に、静かに成都の城を見上げた。そして、その視線の先には、新たな時代の幕開けが待っていた。


蜀の都、成都から魏の都、許昌へと向かう長い道のり。劉備の配下たちは皆、捕虜として魏の兵に護衛されていた。しかし、その待遇は丁重で、彼らの主君である劉備と曹操は、馬車を並べて穏やかに語り合っていた。


「玄徳よ。振り返れば、お前と天下を争った日々が、この生涯で最も面白い興であった。もはや、お前を討つべき敵と呼ぶには、寂しいものがあるな」


曹操が感慨深げに語りかけた。劉備は静かに微笑んで答えた。


「わしとて同じだ、孟徳。お前という好敵手がいたからこそ、この身はここまで戦い抜くことができた。これで、ようやく肩の荷が下りた」


二人は、若き日に英雄を論じた時のように、穏やかな笑みを交わした。その傍らで、趙雲は主君の安堵した横顔を見て、胸にこみ上げるものを感じていた。


ああ、我が君よ…。ついに、安らぎの時が訪れたのか…


許昌に到着した曹操は、劉備との対話を終えると、諸葛亮と面会した。諸葛亮は、その才をもって曹操を幾度となく苦しめた。その冷静沈着な佇まいを前に、曹操は心中に些かの嫌悪感を抱いた。


この男…もし劉備に仕えなければ、わしが重用したであろう。しかし、劉備という男を天下の覇者にしようとした愚かさよ…。


曹操は心の内を顔に出すことなく、静かに切り出した。


「孔明よ。貴様の才、確かに見事であった。しかし、それは、所詮は小国の才。お前の才は、管仲には及ばぬ。ましてや、楽毅の足元にも及ばぬわ。」

その言葉に、諸葛亮の顔にわずかな動揺が走った。


「…確かに、私の才は管仲や楽毅には及びませぬ。しかし、管仲や楽毅が仕えたのは、すでに天下の趨勢を握っていた主君。私は、ただ一人の主君と共に、この乱世に立ち向かうしかなかったのです。私の策は、ただ主君の仁義と理想を実現するためだけにありました!」


諸葛亮は反論したが、曹操は冷徹な眼差しで、その信念を根本から否定した。


「愚か者め。天下は理想で動かぬ。現実を直視せぬ策は、いずれ破綻する。貴様は、劉備という名を持つ愚か者のために、生涯を無駄にしたのだ。お前がもし、わしに仕えていれば、その才は天下を統一する礎となれたものを!」


諸葛亮は言葉を失った。曹操の言葉は、彼のこれまでの人生を全否定するものだった。彼は、もはや何も言い返すことができなかった。


劉備が降伏し、諸葛亮が論破されたことで、長きにわたった天下の戦乱は収束に向かった。血で血を洗う時代は終わりを告げ、人々の心には静かな安堵が広がった。しかし、戦がもたらした悲劇は、まだ終わっていなかった。


呉の地で発見された孫権は、すでに精神を害し、狂人と化していた。彼は、劉備が曹操に降伏した報せを聞き、自らの無力さに絶望していた。


「神よ、なぜ…なぜあなたは、あの男を選んだのだ…!」


孫権はただ虚空に向かって叫び続けた。彼の狂気は、劉備と曹操という二つの巨大な光に挟まれ、自らが築き上げた呉という国が、いかにちっぽけな存在であったかを悟った絶望から生まれたものだった。


劉備と曹操…あの二人の輝きに比べれば、わしは…わしは…!


彼は、自らの過ちを悟り、そのあまりの絶望に、正気を保つことができなかった。孫権は、英雄としてではなく、ただ一人の哀れな男として、歴史の闇に消えていった。


成都に戻った曹操は、全ての事後処理を息子の曹丕に任せた。天下は平定され、もはや武力で争う必要はなかった。


「丕よ。天下は、もはや乱れることはない。これからの世は、武ではなく文によって治めるべきだ」


曹操の言葉に、曹丕は厳粛な面持ちで頷いた。


「父上、この重き役目、必ずや…」


「よかろう。天下は、わしが勝ち取った。そして、その天下を治めるのは、お前だ。わしは、もう疲れた…」


曹操はそう言い残し、静かにその場を去っていった。その背中には、天下統一の夢を息子に託し、すべてを悟った、一人の老兵のようでもあった。


(父上…!この重き役目、必ずや…!)


曹丕は、父の言葉を胸に、静かに成都の城を見上げた。そして、その視線の先には、新たな時代の創世が待っていた。

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