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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
四方を平定す
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最終回其三

漢中の地で、病を理由に戦線を離脱した関羽と張飛は、劉備から成都へ向かうように命じられた。兵は戦場に残し、わずかな配下の将を連れて行くようにと。二人は、その不穏な命令に何も言わず、素直に従った。


玄徳殿は、わしらをもう信じておらぬ…


道中、関羽の胸には、劉備の裏切りに対する深い悲しみと、かつて江湖で身を置いた頃の記憶がよぎっていた。彼らが旗揚げする前、生きるか死ぬかの修羅場をくぐり抜けてきた経験が、この旅がただの帰路ではないことを教えていた。


兄者よ、俺たちは、江湖の掟を知っている。この道は、ただの帰路ではない…


張飛もまた、言葉には出さずとも、自分たちの命が危険に晒されていることを悟っていた。しかし、彼らは義兄弟の絆を信じ、劉備の元へ向かうことしかできなかった。


旅の途中の夜、二人が休息を取っていると、張飛の配下である張達と范彊が、静かに彼らの寝所へ忍び寄った。彼らの手には、抜き身の剣が握られていた。


「この命、玄徳様のため…!」


張達がそう呟くと、二人は迷うことなく、関羽と張飛に斬りかかった。


張達と范彊が剣を振り下ろした瞬間、関羽と張飛は、まるで風に舞う木の葉を払うかのように、軽々と刺客たちの攻撃をかわした。二人の武勇は、もはや人間の域を超えており、たった二人の刺客ごときでは、到底歯が立たなかった。張飛は怒りに燃え、張達の首根っこを掴んで地面に叩きつけた。


「貴様ら!なぜ、この張益徳を裏切った!誰の命だ!玄徳殿の命か!」


張達は震えながら、恐怖に顔を歪ませて叫んだ。


「違います!劉備様ではございません…!諸葛亮軍師の…軍師殿の命にございます!」


その言葉を聞いた関羽と張飛は、耳を疑った。二人の顔から怒りが消え、代わりに信じられないという感情が浮かんだ。


「軍師殿が…?馬鹿な…」


関羽は、その場で立ち尽くした。


「なぜだ!なぜ、軍師殿が、我らの命を狙うのだ!」


張飛が吼えると、范彊が震えながら、諸葛亮の言葉を吐露した。


「諸葛亮軍師が言うには…劉備様が天下を統一された後、貴方様方の武勇は、もはや…邪魔でしかない、と…」


その言葉は、関羽と張飛の心を深く抉った。彼らは、劉備への失望に加えて、長年信じてきた諸葛亮の冷徹な論理に直面した。


軍師殿は…最初から、この結末を見ていたとでもいうのか…!わしらの忠誠も、義も、軍師殿にとっては、天下を統一するための、ただの道具に過ぎなかったと…?


関羽は、自分の信じてきた道が、音を立てて崩れ去るのを感じた。張飛は、絶望と混乱の中、天を仰いだ。


兄者…俺たちは、ただの道具だったのか…?玄徳殿も、軍師殿も、俺たちを…もう、必要としないのか…?


二人は、もはや劉備軍に戻る道も、蜀軍に留まる道も失ったことを悟った。


襄陽での戦勝報告が終わり、諸将が退出した後のことだった。広間には、静寂だけが満ちている。夏侯尚は、重い足取りで、しかし迷いなく、曹操の前に進み出た。


申し上げなければならない。この報を伝えるのは、私の役目だ。だが…どうか、どうか耐え抜いてください、魏公…


彼は深く頭を垂れ、絞り出すような声で言った。


「申し上げます、魏公。于禁殿が…孫権の本陣に突入するも、周泰に討ち取られました」


その報を聞いた曹操は、その場で静かに、そしてゆっくりと目を閉じた。顔から一切の表情が消え、ただ深い悲哀だけが、その場を満たしたかのようだった。


文則よ…。そなたは最後まで忠義を貫いてくれたな。だが…この老いぼれが悲しんでいる暇はない。そなたの死を無駄にはせぬ。そなたの命は、必ずや天下統一の礎とする…!


曹操は自らの心にそう刻み込み、再び目を開いた。その瞳には、すでに悲しみの影はなく、ただ次なる戦への峻厳な決意が宿っていた。


「全軍に伝えよ。軍を二つに分ける!」


曹操の号令のもと、再び諸将が広間に集結した。彼らは皆、疲労困憊の顔で、しかし真剣な眼差しで、魏公の言葉を待っている。


「公明、子文、子丹、そして博仁!」


曹操の鋭い声が響き渡る。


「お前たちは漢中に向かえ。劉備を完全に叩き潰せ。徐晃よ、お前の冷静な判断に期待するぞ」


徐晃は深く頭を下げた。


「御意」


曹操はまっすぐ、曹彰を見据えた。


「子文よ、この戦で、お前の武勇を、真の将へと昇華させるのだ」


「承知いたしました、父上!必ずや漢中を制圧してみせます!」


曹彰の瞳は、燃えるように輝いていた。


そして、曹操は次なる命令を下した。


「子孝、文烈!お前たちは揚州に向かえ。孫権の残党を掃討し、江東を完全に制圧せよ。江東は、お前たちに任せた」


「必ずや、魏公の御期待に応えます!」


曹仁と曹休は、固い決意を表情に刻んで応えた。


将軍たちがそれぞれの任地に赴く中、曹操は典韋と許褚を伴い、少数の兵を率いて上庸へと向かった。彼の顔には、天下を統一するための最後の策を、静かに胸に秘めているかのような、不敵な笑みが浮かんでいた。


漢中、揚州…そしてわしは上庸へ。劉備、そして孫権…天下の勝負は、この上庸で決する…!天下は、この曹孟徳のものとなるのだ!


襄陽での勝利の報は、急ぎ魏の都、洛陽へと届けられた。曹操の息子であり後継者である曹丕は、その報に接し、安堵と同時に、父の病状への不安を募らせた。


「父上は、この勝利をどれほど喜んでおられるだろうか…」


曹丕は、父の姿を思い浮かべ、胸を締め付けられた。この勝利が、父の命を削って得られたものだとしたら…。いや、今は感傷に浸っている時ではない。


「父上が命を懸けて手に入れた勝利だ。この勝利を確固たるものにせねば…!」


彼は己に言い聞かせるように、強く心に誓った。父が築いた大いなる勢いを、決して無駄にはさせぬ。


曹丕は、勝利の勢いを逃さぬよう、すぐさま信頼の置ける重臣、賈逵を呼び出した。


「賈逵よ、荊州の統治は急務だ。民の心を掴み、呉や蜀の付け入る隙を与えてはならぬ。この重責、そなたに託したい。現地の混乱を収め、速やかに統治を確立せよ。これは、父上の意志を継ぐ、我らの最初の仕事なのだ」


賈逵は、深く頭を下げ、その命を受けた。


同じ頃、漢中の魏軍本営では、曹昂が、高順、そして総指揮を執る夏侯淵と共に、劉備軍への対策を練るための軍議を開いていた。


「劉備は、予想以上に粘り強い。蜀の将軍、魏延の奮戦は、我らの進軍をことごとく阻んでいる。このままでは、父上の期待に応えられない…!」


曹昂は、劉備の頑強な抵抗に焦りを感じていた。


高順もまた、魏延の奮戦により、思うように戦を進められない現状を報告した。


「若殿、敵将、魏延は予想以上の手練れ。我らが幾度となく仕掛けた策も、彼の防衛網を破るには至りません。漢中は、まさに泥沼の様相を呈しております」


「これほどまでとは…。この膠着状態を、一体どう打開すればよいのだ?」


その時、夏侯淵が静かに口を開いた。


「若殿、ご安心なされよ。策は、すでに手元にございます。この者たちこそ、この膠着を破る鍵となりましょう」


夏侯淵の言葉に、軍議の間に控えていた二人の若き将、郭淮と郝昭が前に進み出た。


「彼ら、郭淮と郝昭に、将軍の位をお与えください。郭淮の、敵の策を見抜く眼力。そして、郝昭の、鉄壁の守りを築く才覚。この二つがあれば、劉備殿を打ち破ることができましょう」


曹昂は、夏侯淵の言葉を信じ、深く頷いた。


「よかろう。夏侯将軍がそこまで申すのであれば、彼らの才覚、疑う余地なし。郭淮、郝昭、そなたら二人を将軍に任ずる。漢中の戦局、そなたらの手で打開せよ!」


郭淮と郝昭は静かに膝をつき、声を揃えた。


「若殿のご期待に、必ずや応えてみせます」


江東の地は、もはや戦火の跡で埋め尽くされていた。朱霊と臧覇は容赦のない徹底した掃討戦を展開し、呉の残党を揚州から会稽郡へと追い詰めていった。絶望的な状況の中、孫権の残された兵士たちは最後の抵抗を試みるしかなかった。


そこに曹仁率いる軍勢が加勢に到着し、孫権の残党は逃げ場を失い、完全に包囲された。魏の軍旗が会稽の空を埋め尽くし、かつて長江の支配を誇った呉の天下は、ここに完全に終わりを迎えたのだった。


この戦いの功労者である張遼は、曹操からの命を受け、その功績を称えられながら上庸へと向かう道を急いでいた。彼の顔は疲労に満ちていたが、その瞳には、友の死を乗り越えた者だけが持つ、確かな光が宿っていた。


一方、漢中では、この江東での勝利の報が届くよりも先に、戦況が一変していた。


劉備は、関羽と張飛の離脱により、精神的な失意と無力さに沈んでいた。もはや軍を率いる気力もなく、実権は趙雲、魏延、李厳、そして黄権らの手に委ねられていた。彼らは主君の無力さを痛感し、自らの手で魏軍を迎え撃つことを決意した。


公は、もはやおられぬ…!ならば、この趙雲が、蜀の未来を、この剣にかけて守り抜くのみ…!


魏軍もまた、新たな力を得ていた。徐晃と曹彰の軍が到着し、後詰めとして張郃も合流した。圧倒的な兵力と層の厚い布陣は、劉備軍を絶望の淵に突き落とした。


これを見た曹昂は勝利を確信し、全軍に総攻撃を命じた。


「全軍、突撃せよ!今こそ、この漢中に、魏の威光を刻み込むのだ!」


魏軍の猛攻は、劉備軍の各所を次々と攻め落とし、最終的に劉備は成都へと追い詰められた。


残されたのは、魏延、趙雲、陳到、そして霍峻らが守る要塞、雒城のみ。



漢中から成都へと逃げ延びた劉備は、心身ともに限界を迎えていた。かつて天下統一の夢を語り合った義兄弟の裏切り、そして、その命を狙った諸葛亮の冷徹な策。劉備は、そのすべての心労が重なり、臥室で倒れた。


義兄弟が離れ…軍師は使い物にならねぇ…わしは、いったい何のために、この四十年間を…!


彼の胸には、これまでの苦労と、信頼してきた者たちからの裏切りがもたらした精神的な崩壊が、重くのしかかっていた。


劉備が倒れた報は、瞬く間に成都の城内を駆け巡った。兵士たちは不安に怯え、民はただならぬ空気を感じ取っていた。城全体が、嵐の前の静けさのように、重苦しい空気に満ちていた。


その中で、成都の守備を担う将軍の一人、孟達は、密かに魏への寝返りを図っていた。


劉備のヤツは、もはやおしまいだ。このまま命を共に散らすより、賢き道を選ぶべき…!わしは、この命を賭けて、魏公へ恭順の意を示すのだ…!


孟達は、劉備の無力さを目の当たりにし、もはや蜀に未来はないと確信していた。彼は、自らの保身と、新たな時代の波に乗るため、静かに、しかし着実に裏切りの準備を進めていた。


上庸に滞在していた曹操のもとに、孟達が寝返りを画策しているという報せが届いた。それを聞いた曹操は静かに安堵の息をついた。孟達よ、賢い道を選んだな。これで、成都は…!


彼の顔に微かな笑みが浮かんだ。もはや劉備に勝ち目はない。曹操は安堵する暇もなく、勝利を確固たるものにするため、最後の命令を下した。


「夏侯惇、賈逵らに伝えよ!孫権の残党を徹底的に掃討し、江東を完全に制圧せよ!」


そして自身は典韋、許褚、そして新たに合流した張遼を伴い、曹昂との合流を急いだ。


一方、漢中の要塞、雒城では、戦況が最終局面を迎えていた。劉備の無力さに苛立つ趙雲と魏延は、もはや待つことができなかった。


「魏延、このまま、玄徳殿と蜀の天下を、あの男たちに譲るというのか!」


趙雲がそう叫ぶと、魏延もまた、その剣を抜き放った。


「もちろんだ!この魏延が、彼らを討ち果たし、蜀の未来を築いてみせる!」


二人は独断で軍を出し、曹昂に挑んだ。


趙雲の軍勢は、魏軍の前に立ちはだかる。しかし、そこに待ち構えていたのは、徐晃と張郃という、魏が誇る二人の猛将であった。


趙雲よ、その武勇は天下に並ぶ者なし…しかし、この徐晃と張郃が、貴殿の突進を止めてみせよう!


徐晃は冷静な判断で趙雲の動きを封じ、張郃は緻密な戦術で趙雲軍を翻弄した。趙雲は、徐晃と張郃の連携に足止めを食らい、前へ進むことができなかった。


その時、魏延の前に立ちはだかったのは、曹彰であった。曹彰の顔には、孫権を討ち漏らした悔しさが浮かんでいた。


魏延よ…お前を討ち取り、この曹彰の武勇を証明する!そして、父上に、わしが真の将軍となった姿を見せるのだ!


雒城での戦いは、まさに天下の行方を決する最後の激戦となった。趙雲は、魏が誇る二人の猛将、徐晃と張郃を相手に、一歩も引かず、雷鳴のように響く剣と槍で互角の戦いを繰り広げた。


「趙雲よ、その武勇は天下に並ぶ者なし…だが、ここで貴様を通すわけにはいかぬ!」


徐晃が叫ぶと、張郃もまた冷静な戦術で趙雲の突進を阻んだ。


一方、魏延と曹彰の戦いは、最初から魏延に不利なものだった。曹彰は、孫権を討ち漏らした悔しさをぶつけるかのように、その矛を魏延に叩きつけていった。魏延は徐々に押され、ついに部隊は壊滅。魏軍の兵士たちに囲まれ、捕虜となった。


「馬鹿な…!この魏延が…!」


魏延が捕らえられた報せは、すぐに黄権と李厳の耳にも届いた。


「趙将軍!もはやこれまで!魏延殿は捕らえられた!ここは兵を退くべきです!」


黄権の叫びに、趙雲は不本意ながらも兵を退かざるを得なかった。彼の胸には、蜀の未来を、そして劉備を守りきれなかった悔しさがこみ上げていた。


漢中での敗北の報せが届き、成都の城内は日を追うごとに不安な空気に満ちていった。しかし、この重苦しい空気の中、二つの邸宅だけが異様なほど静かで安全な場所に思えた。関羽と張飛の邸宅だ。彼らの邸宅は、他のどの場所よりも多くの私兵に囲まれていた。


「兄者…この雰囲気、どうもおかしい」


張飛が不審げに呟くと、関羽もまた静かに頷いた。


「ああ、益徳。そして、この我が邸宅だけが、このような厚い警護を受けている…」


これは…我らの命を狙う刺客から守るため…ではない。我らをこの場所から出させないため…


二人は言葉を交わす必要もなかった。互いに顔を見合わせ、官邸へ向かうべく立ち上がった。


その様子を遠くから見ていた孟達は、顔面蒼白になり、慌てふためいた。


しまった…!この二人が、まだ成都にいたとは…!奴らが、この異様な状況に気づき、官邸へ向かえば…!劉備様が倒れている今、事の真相を悟られれば、わしの計画は…!


孟達は最大の誤算を悟り、額に汗を浮かべた。彼の裏切りの計画は、関羽と張飛という二人の英雄の存在によって、今、まさに崩壊の危機に瀕していた。




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