第三回 曹操欲求天下平 中枢腐敗亦難平
議郎の職務に就いてからの曹操は、宮中の腐敗を目の当たりにする日々を送っていた。彼は自身の持つ現代の知識、特に組織論や効率的な行政運営、そして法治国家の理念を活かし、様々な改革案を上奏した。
「陛下、この国の疲弊は、民の重税と、官吏の綱紀の乱れにございます。まずは、税制を簡素化し、不正を厳しく取り締まるべきです。また、地方官の任用基準を明確にし、能力主義を徹底することで、行政の効率化が図れます」
具体的には、曹操は「定額税制の導入」を提案した。これは、収穫量に左右されやすい現行の租税制度を見直し、民が毎年一定額の税を納めることで、生活設計を立てやすくし、不必要な徴収を排除しようとするものだった。また、「官吏の定期的な能力評価と異動制度」の導入も訴えた。特定の土地に長く留まる官吏が地元有力者と結託し、不正を働く現状を打破するため、定期的な人事異動と、実績に基づく公正な評価制度を確立しようとしたのだ。さらに、「法典の簡潔化と公開」も強く主張した。複雑で曖昧な現行法は解釈の余地が多く、権力者による恣意的な運用を許している。民が理解しやすいよう法典を簡潔にし、誰もが閲覧できる形で公開することで、法の公平性と透明性を確保しようとしたのである。
しかし、彼の合理的な提案は、この時代の官僚たちには理解しがたいものだった。
「孟徳よ、そなたの熱意は買うが、古くからの慣習を急に変えることは難しい。それに、宮中の事情というものもある。税制を急に変えれば混乱が生じよう。官吏の評価など、長年の経験と人脈こそが肝要なのだ」
霊帝は、彼の言葉に耳を傾けるふりをするだけで、結
局は何も採用しなかった。十常侍は、彼の提案を嘲笑うかのように、相変わらず権勢を振るい、私腹を肥やし続けた。
ははは、やはりそう来たか! まあ、そう簡単にはいかないよな、この時代の連中は。だが、諦めるわけにはいかない!
曹操は、内心で冷徹に現実を突きつけられても、どこか楽しげに、しかし確かな覚悟を秘めていた。現代の知識が、この時代の閉塞したシステムの前では無力であることを痛感する。法を正し、秩序を回復しようとする彼の試みは、宮中の深い闇に吸い込まれていくようだった。
「これでは、この国は滅びる。黄巾の乱が起こるのは、もはや必然だ。だが、それもまた、新たな時代の幕開けと捉えることもできる! はっはっは!」
彼は、歴史の知識から、来るべき大乱の兆候を肌で感じ取っていた。民衆の不満は頂点に達し、各地で不穏な動きが報告されている。もはや、宮中の改革など待ってられない。
彼の思考は、次の段階へと移った。法による改革が不可能ならば、力によって新たな秩序を築くしかない。そのためには、自身の武力を、そして影響力を拡大する必要がある。
ある日のこと、曹操はかつて涼州の乱を平定した老将、張奐の存在を思い出した。張奐は、宦官の弾圧にも屈せず、清廉な態度を貫いた人物として知られている。その軍事的な才能と、何よりその高潔な人格は、来るべき乱世で彼にとって大きな助けとなるだろうと直感した。
彼は伝手を使い、張奐を洛陽へと招聘した。張奐は、初めは隠居の身であると固辞したが、曹操が漢王朝の現状と自身の理想を熱弁すると、その若き情熱と、瞳の奥に宿る揺るぎない覚悟、そして時折見せる闊達な笑みに心を動かされた。
「……孟徳殿よ。貴殿の志、老骨に確かに響きました。その笑みの中に、ただならぬ器量を感じる。この張奐、できる限りの力をお貸ししましょう」
こうして、張奐は曹操の元に参じることになった。曹操は、彼を厚遇し、彼の持つ軍事的な知識と経験を学ぶべく、夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪ら縁者たちを彼に預けた。
「元譲、妙才、子孝、子廉。お前たちには、張奐殿より兵法の基礎を学んでほしい。戦の道理、兵の動かし方、すべてを吸収するのだ! はっはっは、未来の将軍たちよ!」
夏侯惇たちは、敬愛する曹操の命と、伝説的な老将の指導に、目を輝かせた。彼らは熱心に兵法を学び、その才能を急速に開花させていった。
一方、曹操自身は、彼らと共に兵法を学ぶことはしなかった。現代にいた頃、彼には高校時代からの親友がいた。その親友は、とんでもなく歴史、特に中国史に深く傾倒しており、彼の隣で膨大な史料や兵書、戦術論を熱く語り続けていたのだ。最初は聞き流していた曹操も、その熱量と詳細な解説に、いつの間にか中国史、特に三国時代の歴史と軍事戦略の知識を深く、そして正確に記憶してしまっていた。
その膨大な知識は、やがて彼自身の兵法への理解を深め、既存の兵書に新たな光を当てることになる。彼は夜な夜な、書斎にこもり、竹簡に向かった。既存の『孫子の兵法』の各篇に、自身の現代的な視点と、友から得た未来の戦術、そして歴史の趨勢を知る者としての洞察を加え、丹念に注釈を書き加えていった。時には『兵書接要』と銘打った、自身の実践的な兵法論をまとめた書物を執筆することもあった。それは、この時代の兵法家には決して理解できないであろう、合理的かつ冷徹な、勝利のための思考の結晶だった。
孫子、呉子、六韜、三略、李衛公問対……それどころか、後の時代の戦術論まで頭に入っている。この時代の兵法など、基本中の基本に過ぎない。はっはっは、これはもう、未来が見えているようなものだな!
彼は、その莫大な知識を、自身の思考の奥深くに秘めていた。それゆえに、張奐に兵法の基礎を学ぶ必要がなかったのである。彼の真の学びは、机上の兵書ではなく、現代の合理的な視点と、実際に歴史がどう動いたかという「結果」を知っていることにあった。
しかし、曹操自身の議郎としての職務は、決して暇なものではなかった。腐敗した宮中の中にあっても、彼は自身の立場を最大限に利用し、後の乱世で重要な役割を果たすことになる若き英傑たちとの交流を欠かさなかった。彼らは、曹操がこの時代で最初に心を通わせた「奔走の友」であり、若い頃の彼にとって、その放蕩ぶりを共にするかけがえのない存在だった。しかし、その友情の根底には、彼らの身分差という見えない壁が常に横たわっていた。
ある夜の宴席。洛陽でも屈指の名門袁家の嫡男、袁紹は、その端正な顔立ちを誇らしげに輝かせ、高らかに杯を掲げていた。彼は常に周囲の注目を集め、場の中心にいることを好んだ。
「孟徳よ、やはりこの朝廷は腐りきっている! 宦官どもめ、いつまで陛下の周りをうろつくつもりか! 我ら四世三公の家門が、この国の行く末を案じぬとでも思うか! 私は、この国の正義を取り戻すために立ち上がらねばならぬのだ!」
袁紹の言葉には、名門の誉れと、自らの血統への絶対的な自負が滲み出ていた。その尊大な態度、自らが天下を正す「当然の使命」を帯びているかのような口調は、曹操の耳には、どこか現実離れした響きがあった。正義を語るその声は熱を帯びているものの、実行力よりも「大義を掲げること」そのものに満足しているようにも見えた。
彼の正義は、時に甘い。だが、そのカリスマ性は、多くの者を惹きつける。大衆を動かすには、私にはない、この「華」が必要だ。しかし、この大義の裏で、弟をどう見ているか……
曹操は静かに、わずかに遠慮がちに言葉を選びながら、しかしいつものように朗らかに笑いながら返した。
「本初のおっしゃる通りにございます。ですが、言葉だけでは何も変わりません。真の変革には、泥を啜り、血を流す覚悟と、具体的な行動が必要かと存じます。はっはっは!」
袁紹は一瞬眉をひそめ、曹操の言葉の真意を探るように彼を見た。しかし、曹操が宦官の養子であるという事実が、彼の言葉の重みを彼の耳には届かせなかったのか、すぐに別の華やかな談笑へと移り、曹操の鋭い指摘を冗談めかして受け流した。彼の「大義」は、時に現実の泥臭さから目を背けるための盾にもなり得る、と曹操は再確認した。それでも、袁紹の存在感は無視できないものだった。彼らの間には、若き日の友情と、後に来るであろう競争の予感が複雑に絡み合っていた。
一方、袁紹の弟である袁術とは、また異なる種類の交流があった。彼は豪奢な絹の衣を身に纏い、侍女に酌をさせながら、驕り高ぶった笑みを浮かべていた。彼の態度は常に横柄で、兄である袁紹への対抗意識が隠しきれていなかった。
「孟徳、この時代の英雄は、やはり名家出身の者でなければ務まらぬものよ! わが袁家の栄華こそ、この国の正統性を示すもの。宦官の血を引く者が、どこまで上り詰められるか、見ものだな、はっはっは! 兄貴も偉そうにしているが、結局は優柔不断で、何もできはしない。女官は、やはり肌艶の良い者が一番だと思わぬか!」
その言動は、ただひたすらに自身の権力と欲望を満たそうとする、短絡的な性格を隠そうともしない。周囲の空気を顧みず、自分の快楽と名誉のみを追求する姿勢は、現代の彼から見れば、あまりにも稚拙で危ういものだった。それでも、過去の「曹操」であった頃には、共に悪事を働いたこともある。その頃の記憶が、彼との間に奇妙な繋がりを残していた。袁術の言葉の端々に、自身が「名門の出」であることへの過剰な優越感と、曹操の出自への軽侮が滲んでいるのを、曹操は感じ取っていた。そして、兄である袁紹へのあからさまな敵意と嘲り。
彼は、常に自分の欲望に忠実だ。その単純さが、時として利用しやすい。だが、油断はならぬ。己の欲望のためならば、平気で裏切るだろう。そして、兄への対抗意識が、いつか彼の破滅を招く。私の出自を忘れるな、と常に言い聞かせているのか……はっはっは!
曹操は内心で呆れながらも、表面上は愛想良く笑いながら、袁家という巨大な後ろ盾を持つ彼の存在を、情報源として、あるいは未来の勢力図における重要な「駒」として、冷静に分析していた。袁術の持つ驕慢さと器の小ささは、いずれ彼を自滅へと導くだろうと、彼は歴史の知識から確信していた。
そして、共に義侠心に富むことで知られる張邈とは、比較的、対等な立場で腹を割った議論ができた。彼は、その真っ直ぐで純粋な正義感ゆえに、宮中の不条理に深く憤りを感じていた。彼の瞳は常に憂いを帯び、漢室の衰退を心の底から嘆いているのが見て取れた。
「孟徳、お前が提出した法案は、私も目を通した。まことに理にかなっている! なぜ、あの陛下は理解なさらぬのか! この国は、一体どこへ向かうのだ、本当に嘆かわしい!」
張邈の言葉には、理想を追うあまり、現実的な困難や、人の心の複雑さを見落としがちな側面もあったが、その高潔な精神は、曹操にとって、この乱世においては貴重なものだった。彼との交流は、曹操が現代の人間関係で失った「純粋な信頼」に近い感情を抱かせる、数少ないものだった。
「世の病は、我らが思うより深いのだ、孟高。だが、必ずや光は見つけ出す。そのためには、時に汚泥にまみれる覚悟も必要となる。そして、友の助けもな! はっはっは、共にこの乱世を乗り越えようぞ!」
曹操は、張邈の熱情を尊重しつつも、自らの冷徹な現実主義を滲ませた。そして、最後の言葉には、ほんのわずかだが、彼の本音が込められていた。張邈は彼の言葉に深く考え込む様子を見せたが、曹操の奥底にある覚悟と、現代から来たがゆえの孤独までは見通せていないようだった。
「皆に頼みがある。この国は、まもなく大乱に見舞われるだろう。宮中の腐敗は極まり、民の不満は頂点に達している。黄巾賊の蜂起は時間の問題だ。だが、それもまた、我らが活躍する舞台となる! はっはっは!」
彼は、改めて夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪らに告げた。彼らは、既に張奐の薫陶を受け、武人としての意識が高まっていた。
「そこでだ。皆には、それぞれの郷里に戻り、部曲を集めてほしい」
「部曲、でございますか?」
夏侯惇が眉をひそめた。部曲とは、私兵集団のことだ。この時代、有力者が自衛のために持つことはあったが、公然と大規模な私兵を集めることは、朝廷への反逆と見なされかねない行為だった。
「ああ。元譲、妙才、お前たちには、譙県や沛国といった、我らの本貫の地で、精強な若者たちを集めてほしい。武術に長けた者、忠義に厚い者を選べ。食い扶ちに困っている者も多いだろう。彼らには、十分な俸禄を約束しよう! はっはっは、天下の英雄を目指すのだ!」
曹操は、具体的な指示を与えた。彼の言葉には、単なる私兵集め以上の、明確な意図が込められているように感じられた。
「子孝、お前は荒くれ者を集めるのが得意だろう。他の地でも構わぬ。腕に覚えのある者、戦を恐れぬ者を募れ。規律は私がつける。子廉、お前は財力がある。部曲の維持には金がかかる。惜しむな! はっはっは、頼んだぞ!」
曹洪は、一瞬顔をしかめたが、曹操の真剣な眼差しに、やがて頷いた。彼らは、曹操の言葉の裏に、ただならぬ覚悟を感じ取っていた。
「これは、私利私欲のためではない。この乱世を収め、新たな秩序を築くためだ。そのためには、確かな力が必要となる! はっはっは、面白い世になってきた!」
彼の言葉は、彼らがこれまで知っていた「曹孟徳」とは異なる、どこか冷徹で、しかし強烈な求心力を持っていた。彼らは、この男が単なる放蕩者ではないことを、北門都尉の一件で既に知っていた。そして今、その底知れない野心と、この国を救おうとする強い意志を、目の当たりにした。
「承知いたしました、孟徳殿。この元譲、命に代えても、必ずや精強な部曲を集めて参ります!」
夏侯惇が、真っ先に立ち上がり、力強く応じた。夏侯淵、曹仁、曹洪も、彼の言葉に呼応するように、それぞれが覚悟を決めた表情で頷いた。彼らは、曹操の「同志」として、この乱世の荒波に飛び込むことを決意したのだ。
そして、彼らが集めた兵は、着実にその数を増やしていった。やがて、その数は五千に達した。それは、単なる寄せ集めの兵ではなく、張奐の指導の下、基礎的な訓練を積んだ、曹操の私兵としての精鋭部隊へと成長しつつあった。
しかし、曹操は彼らに苛烈なまでの軍規の正しさを求めた。
「よく聞け。お前たちは、いずれ乱世の世を正す剣となる。民から略奪すること、無意味な殺生を行うこと、命じられた陣形を乱すこと、すべてを厳禁とする。規律を破った者は、いかなる理由があろうとも厳罰に処す! たとえそれが、私の縁者であろうと容赦はしない! はっはっは、覚悟しておけよ!」
彼の声は、これまでにないほど厳しく、しかしその口元にはいつもの笑みが浮かんでいた。その眼差しには、一切の甘えも許さぬ覚悟が宿っていた。彼は過去の歴史を知っている。乱れた軍紀が、いかに士気を削ぎ、民心を離反させ、敗北を招くかを。そして、彼らが真に「義」を掲げる軍となるためには、何よりも厳格な規律が不可欠であることを知っていた。新兵たちは、そのあまりの厳しさに震え上がったが、同時に、この曹孟徳ならば本当に乱世を終わらせるかもしれない、という期待の念も抱き始めていた。彼の笑みは、彼自身の自信の表れであり、また、その厳しさの裏にある、彼なりの期待の表れでもあった。
夜は更け、洛陽の都は静寂に包まれる。宮中の腐敗が続く中、曹操は来るべき大乱に備え、水面下で着々と力を蓄え始めていた。彼の胸には、官僚としての合理性と、冤罪で得た冷徹さ、そして乱世を生き抜く「奸雄」としての覚悟が、静かに、しかし確かな熱量を帯びて宿っていた。彼はもう、現代のあの「彼」ではない。新たな「曹操」として、この乱世を、自らの手で切り拓いていく。