第二十九回 言語之間退関羽 孫仲謀進退両難
曹操の決意は固かった。病に侵された体は、もはや言うことを聞かない。しかし、天下に迫る危機を前に、彼は再び戦場に立つことを選んだ。
出陣の朝、一人の妻が静かに彼の部屋を訪れた。彼女は、手ずから磨き上げた真新しい甲冑を抱えていた。その顔には、夫の病状を案じる深い憂いが浮かんでいる。
この甲冑は、この人の病を隠すための、最後の鎧。そして、この鎧を着せるのは、これが最後になるのかもしれない…
妻はそう心の中で呟きながら、慣れた手つきで曹操の甲冑を身に着けさせた。
「旦那様…」
彼女の声は、微かに震えていた。
「どうか、ご無理をなさらないでください。天下のことは、もう…」
「案ずるな」
曹操は妻の手をそっと重ねた。彼の体は冷たかったが、その手は静かに、しかし、有無を言わさぬ熱を帯びていた。
天下のことは、もう、わしの手から離れてもよい。だが、この天下を定めたのは、このわしなのだ。このわしが、最後の最後まで見届けてやらねばならぬ…
甲冑を全て身につけ終えると、そこには、もはや病に苦しむ一人の老人はいなかった。そこに立っていたのは、百戦錬磨の天下の覇者、魏公曹操その人だった。
彼は振り返らず、部屋を出ていった。その背中には、戦への決意と、家族への尽きることのない愛情が混じり合っていた。
許昌の城門。早朝の冷たい空気の中、曹操は馬に跨がり、静かに時を待っていた。兵十五万が、彼の背後に控えている。その数多の兵の最前列には、典韋と許褚が、主君の馬を囲んでいた。
その時、後漢の皇帝、献帝が彼の前に現れた。
「魏公…」
献帝の声は震えていた。
「この漢王朝の危機に、病身をおして出陣されるとは…朕、心より感謝いたします。この戦、魏公にしか止められぬ…どうか、どうかご無事で…」
この天下は、もはやお前のものではない……だが、この乱世を、漢王朝という器に収めるのが、このわしの最後の責務。
曹操は内心で冷ややかに呟いた。
「陛下、案じられるな。天下は、この曹操が必ず平定いたします」
馬に揺られながら、曹操は遠い空を見上げた。その体は、少しの揺れにも悲鳴をあげている。
まるで、この身が、わしの魂を拒んでいるかのようだ……
数日後、曹操は、激戦を耐え抜いた樊城の城壁を背に、曹仁らと合流した。その憔悴しきった主君の姿に、曹仁はすぐに駆け寄った。
「殿!ご病身をおして、まさかここまでおいでになられるとは……」
「案ずるな」
曹操は、その心配をよそに、戦況の書状を求めた。
ただならぬ緊迫した顔つきで、兵士は文を差し出した。曹操は、その文を一瞥し、顔色を変えた。
「劉備め、魏延を使い、高順と膠着か……」
彼の顔が、見る見るうちに険しくなる。
「そして、孫権は呂蒙を送り、江陵を占領し、南荊州四郡にまで着手していると!これほどの危機を、なぜわしに報告せぬのだ、丕よ!」
彼の瞳に再び鋭い光が宿った。それは、疲労困憊の病人のものではなく、幾多の戦場を駆け抜けてきた、百戦錬磨の覇者の光だった。
いや、貴様は対処できなかったのだな……この乱世は、まだお前の手に余るというのか!わしが病にあると見て、一気に天下を取りに来るつもりか!孫権もまた、その機に乗じて……
彼は、ゆっくりと、しかし確かな力強さで起き上がった。その体は、まるで、数刻前の安寧を全て払い除けるかのように震えていた。
「笑止な!いいか、今すぐ参謀をこの広間に集めよ!馬を引かせい!わしは今から前線へと赴き、この腐りきった戦況を立て直してやる!」
曹操の言葉に、許褚が慌てて駆け寄ってきた。
「旦那様!ご無理はなりませぬ!」
「黙れ、仲康!」
曹操は一喝し、許褚を制した。
この体は言うことを聞かぬ。だが、わしの魂はまだ生きている。あの時、張譲の屋敷にたった一人で乗り込んだあの魂の炎は、まだ燃え尽きてはいないのだ!
彼は許褚の肩に手を置き、静かに語りかけた。
「仲康よ、お前はわしの盾だ。わしが倒れるその日まで、この天下を守るわしの盾となれ!」
許褚は、主君の言葉に、ただ涙を流しながら深く頭を垂れた。
曹操は襄陽の城壁に立ち、遠くの関羽軍の陣営を見据えた。
「さて……」
彼は静かに呟いた。
「関羽は、わしが出陣したと聞いて、動揺しているはず。互いに利を求めるが故に、誰も動けぬ……しかし、この天下を動かすには、武力だけではもう足りぬ。ならば、この老獪な策士の知略で、この盤をひっくり返してやる」
彼の視線は、関羽の陣営へと向けられた。
「曹仁、使者を立てよ。関羽の陣に書状を送るのだ。『曹操、関羽と一対一での面会を望む。天下の行く末、英雄として語らおうではないか』とな」
曹仁は驚愕に目を見開いた。
「殿、それはあまりに危険です!」
「案ずるな、曹仁。関羽は、わしを殺すには惜しい男だ。この老いぼれの命など、天下の行方には遠く及ばぬ。わしは、もはや死を恐れぬ。ただ、英雄としての最後の務めを果たすのみだ」
数日後、両軍の中間地点で二人の英雄は相まみえた。曹操は静かに馬を降り、先に口を開いた。
「……久しぶりだな、雲長」
「覚えておるか。あの頃、わしは、お前を、ただの将として見ていたのではない。天下を語り合える、ただ一人の友として見ていたのだ」
曹操の言葉は続く。
「この荊州は、もはやお前の死に場所となる。友として、お前に最後の忠告をしよう。今、ならばまだ間に合う。この地を捨て、益州へ戻るのだ」
関羽は心揺さぶられたが、決意は揺るがなかった。
「魏公殿、そのお言葉、感謝いたします。しかし、この荊州は、玄徳殿からわしに託されたもの。この身、滅びるとも、義は捨てられませぬ」
その言葉を聞き、曹操は静かに目を閉じ、そして、ゆっくりと顔を上げた。
「そうか……孫権ごときに、お前が討たれるなど、わしはあってはならぬと思っておるのだ。せいぜい、最後まで、お前の義を貫くが良い」
二人の英雄は、互いに背を向け、それぞれの陣営へと戻っていった。
面会を終えた関羽は、自軍へ戻ると将兵たちに告げた。
「全軍に告ぐ。樊城の包囲を解き、直ちに益州へ帰還する!」
驚く将たちに、関羽は落ち着いた声で続けた。
「『孫権ごときに討たれるお前ではない、と、魏公は言われた。曹操は、生涯の敵であるわしに、あえて生きて道を探せ、と諭したのだ。このわしが、この機を逃すわけにはいくかぬ』」
時を同じくして、呉の陣営に「魏公曹操が、病身をおして襄陽に現れた」との報が届いた。孫権は、静かに笑みを浮かべる。
曹操め、病身をおして自ら出てくるとは!この好機、見逃すものか!
孫権は直ちに軍師と将軍たちを集め、関羽の背後を突くことを決意する。しかし、関羽の安堵は一瞬にして打ち砕かれた。夜が明け、朝霧が立ち込める中、呉軍が突如として背後から襲いかかってきた。関羽は叫ぶ。
「何だと!?まさか...孫権め!」
一方、襄陽の城壁の上で、関羽が撤退したという報せを聞いた曹操は、静かな満足感に満たされていた。しかし、そこに「孫権が荊州の争奪戦を挑んできた」という報せが届く。曹操の顔から安堵の表情が消えた。彼は書状を握りしめ、声が枯れるほどの大声で叫んだ。
「孫権め...!!!」
彼の怒りは、もはや覇権争いのためではなかった。彼は叫んだ。
「孫権め、このわしの本心を汚した罪、必ず償わせてくれる!」
曹操は誰にも告げず、ただ一人、最古参の護衛を呼び出した。
「典韋よ」
「はっ!」
いついかなる時も、主君の命に従うために、典韋は静かにひざまずいた。
「わしは、お前に関羽の陣へと向かうよう命じる。そして、わしの言葉を、もう一度、あやつに伝えてこい」
典韋は、主君の言葉に驚き、一瞬、顔を上げた。
「旦那様、それはあまりに危険です!わしは、殿をお守りするべく、この身を捧げた者。それを、敵陣に遣わせるなど…」
「黙れ、典韋。それが、お前の、そしてわしの、最後の使命なのだ」
曹操の言葉は、これまでにないほど重かった。
「関羽には、こう伝えろ。『このわしが、身辺を任せた最も信頼する典韋を、あえてお前の元に遣わした。この典韋の命こそ、わしが荊州を捨てて生きろと申した、真実の証なのだ』と」
典韋は、主君の覚悟を悟った。その言葉には、典韋という盾を差し出してまで、関羽を救おうとする、曹操の命を懸けた真意が込められていた。
「はっ!この典韋、命を賭して、必ずやその使命、果たして参ります!」
関羽の陣営に、典韋が単騎で現れた時、将兵たちは、一様に緊張に包まれた。
「貴様は…典韋!」
関羽は、その男が誰であるかを一目で見抜いた。まさか、あの曹操が、自身の命の盾を差し出してまで、この地へ遣わすとは。
典韋は、関羽の前に馬を下り、静かに曹操の言葉を伝えた。
「関羽将軍。我が主は、こう申されました。『このわしが、身辺を任せた最も信頼する典韋を、あえてお前の元に遣わした。この典韋の命こそ、わしが荊州を捨てて生きろと申した、真実の証なのだ』と」
その言葉を聞いた関羽の胸に、激しい衝撃が走った。
まさか…典韋を、このわしに…!曹操よ、お前は、それほどの覚悟で、わしに生きろと申したのか!わしは、この身の義を貫くことばかりに囚われ、その真意を疑っておったのか…!
彼の脳裏に、曹操の「孫権ごときに、お前が討たれるなど、わしはあってはならぬと思うておるのだ」という言葉が蘇った。その言葉に、嘘偽りはなかったのだ。
関羽は、静かに典韋に頭を下げた。
「典韋殿、魏公に感謝を伝えてくだされ。そして、お戻りになられよ。貴殿の命を、無駄にはせぬ」
その日、関羽は、全軍に撤退を命じた。
遠く、襄陽の城壁の上から、曹操は、関羽の軍が静かに引き上げていくのを見守っていた。彼の心には、病の苦痛も、天下への憂いもなく、ただひたすらに、友を救えたという安堵感が満ちていた。
孫権もまた、報せを聞き激しい怒りを招いた。
彼は顔を真っ赤にして叫んだ。
曹操め......!わしと関羽を戦わせるどころか、友誼を口実に、荊州を手に入れようとしたか!関羽め、あの男の言葉に乗せられるとは...!
関羽の撤退後、曹操の陣営には、関羽に降伏していた于禁が連れ戻されてきた。彼は、手足を縛られ、敗将の証である汚れた衣をまとって、憔悴しきった姿で曹操の前にひざまずいた。
曹操は、玉座に座ったまま、顔を険しくして于禁を見下ろした。
「于禁!お前は、長年わしに仕えながら、あろうことか、関羽ごときに降伏した!その恥を知るか!このわしに、貴様の首を斬るよう命じろとでも言うのか!」
曹操の激しい叱責に、周囲の将兵たちは震え上がった。于禁は、ただ涙を流し、顔を地面に伏せて許しを乞うことしかできなかった。
叱責を終えると、曹操は静かに将兵を下がらせ、于禁と二人きりになった。
「于禁よ…」
曹操の声は、先ほどとは打って変わり、静かで、慈愛に満ちていた。
「よくぞ生きて戻った。お前が関羽に降ったという報せを聞いた時、わしは、お前の苦痛を思うて胸が張り裂けそうであった」
曹操は、于禁の肩に手を置いた。
「わしは、お前の奮戦を知っておる。あの時、お前が城を守り抜き、関羽の勢いを食い止めたことは、わしをこの地まで引き寄せるための、時間稼ぎであった。お前は、この戦の勝利の礎を築いてくれたのだ。公の場で、お前を罵ったのは、ただ、将兵たちの士気を保つため。このわしの真意を、理解してくれるな」
于禁は、曹操の言葉を聞いて、嗚咽を漏らしながら顔を上げた。彼の敗北は、決して無駄ではなかった。主君は、自分の忠誠を信じてくれていたのだ。
「殿…!この于禁、生涯の恥辱を雪ぐため、この命、捧げさせていただきます!孫権との戦で、死ぬまで戦い、殿の天下をお守りいたします!」
于禁は、新たな忠誠を誓い、戦場へと向かおうとした。曹操は、そんな于禁の姿を静かに見つめていた。彼の表情には、忠臣を失わずに済んだという安堵と、来るべき孫権との決戦への静かな決意が宿っていた。
その頃、許昌にいる曹丕のもとにも報せが届く。曹丕は怒りを露わにしながらも、冷静に中原の兵力を配置した。
「漢中へは夏侯淵、襄陽には夏侯尚を送り、父上の後詰とせよ!」
曹丕は、父の戦いを支えつつ、魏の領土全体を視野に入れた、実に的確な布陣を敷いた。父と子の連携は、この天下を再び魏の優勢へと傾かせようとしていた。
曹丕は冷静に中原の兵力を配置した。父が孫権との直接対決を選んだことで、劉備や他の勢力が魏の弱体化を狙い、攻勢をかけてくる可能性があったからだ。
「漢中へは夏侯淵、襄陽には夏侯惇を送り、父上の後詰とせよ!」
曹丕は、父が戦う二正面、荊州と漢中への備えを固めた。そして、最も警戒すべき東の地へと目を向けた。
「合肥には、既に張遼将軍がおられる。呉が合肥を攻めるならば、将軍の武勇と、李典、楽進らの力で、必ずや撃退せよ!」
最後に、青州の臧覇にも命令を下した。
「臧覇は広陵へと向かえ。孫権の軍が合肥から動いた隙を突き、徐州と揚州の境を固めるのだ!」
曹丕の布陣は、父の戦いを支えつつ、魏の領土全体を視野に入れた、実に的確なものであった。父と子の連携は、この天下を再び魏の優勢へと傾かせようとしていた。
荊州の陣営。孫権は、曹操が自ら率いる十五万の大軍を前に、苛立ちを隠せずにいた。関羽を討ち、荊州を手中に収めるはずだった。それが、関羽の撤退によって、すべては水の泡となり、今や、天下の覇者と直接対峙する進退窮まった状況に追い込まれていた。
その時、一人の伝令兵が、顔面蒼白で駆け込んできた。
「申し上げます!呉郡が……!東海より、水軍を率いる蔡瑁が、我らの本拠地を……!」
孫権は、耳を疑った。かつて劉表の臣であった蔡瑁が、曹操の配下となり、呉の心臓部を突いてきたというのか。孫権は、その報告に、思わず立ち上がった。
「馬鹿な……なぜ、今……!」
彼の動揺は、第二の報によって、瞬く間に絶望へと変わった。別の伝令兵が、息も絶え絶えに駆け込んできたのだ。
「申し上げます!合肥、広陵より、魏軍が……!」
「続けろ!」
孫権は、伝令兵の襟元を掴んで叫んだ。
「合肥より張遼将軍が全軍を挙げて揚州を攻め、同時に広陵より臧覇将軍が兵を率いて侵攻しております!」
孫権は、全身から力が抜け、その場に座り込んだ。その顔には、怒りも、苛立ちもなく、ただ呆然とした表情が浮かんでいた。
「そうか……そうであったか……」
彼の胸に去来したのは、激しい怒りと、そして深い後悔であった。
この戦は、最初から曹操の掌の上にあったのだ……!あの男は、関羽との面会で、わしと関羽を争わせるどころか、、関羽を安全に引き上げさせたのだ……!
孫権は、虚ろな眼差しで、将軍たちに語りかけた。
「子明よ……お前は正しかった。わしは、己の欲に目がくらみ、あろうことか、あの男の策に乗せられたのだ。関羽を討てば、天下が手に入ると信じていた。だが、天下を動かしていたのは、あの男の言葉だったのだ……!」
その言葉には、もはや覇者の威厳はなく、敗北を悟った者の無力感がにじんでいた。前には、曹操自ら率いる十五万の精鋭が、虎視眈々と好機を伺っている。背後には、突如現れた蔡瑁の水軍。そして、左右からは、張遼と臧覇の軍が、呉の心臓部である揚州を蹂躙している。
孫権は、進退窮まった。もはや、この盤をひっくり返す策など、どこにも残されていなかった。彼の野望は、今、まさに、曹操の恐るべき策略によって、跡形もなく崩れ去ろうとしていた。




