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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
四方を平定す
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第二十七回 君主立憲已定局 人生一世過花甲

その日の朝、魏公曹操はいつものように起き上がることができなかった。全身を蝕むような倦怠感と激しい頭痛が、彼の肉体を支配していた。侍医を呼んで診察させると、医師は何も言わずに頭を垂れるばかりだった。


わが身は、すでに風前の灯か……。だが、まだ死ねぬ。この乱世を、この手で終わらせねば……!


彼はそう心の中で叫ぶ。この天下を平定するために、どれほどの血を流し、どれほどの命を犠牲にしてきたか。だが、ついにその結末を自分の手で見ることは叶わないのかもしれない。


その日の夕刻、曹操は重い体を起こし、主要な将軍たちを自らの陣幕に集めた。集まったのは、司馬懿、程昱といった軍師たち。皆が、曹操の顔色を見て、事態の深刻さを察していた。陣幕内には、張り詰めた空気が満ちていた。


「もはや、わしに与えられた時間は多くない。ならば、わしの人生の全てを、この最後の布陣に注ぎ込もう!」


曹操は自ら地図を広げ、手でその要所を指し示していく。その指先には、確固たる意志が宿っていた。


「まず、上庸だ。劉備を益州の中に完全に閉じ込めるには、この地の確保が第一歩となる。劉備が敗走し、残兵を糾合する前に、蜀への退路を完全に塞がねばならぬ。この任は、公明に任せる。公明よ、お前ならば、あの劉備を完全に益州の奥に押し込めることができると信じているぞ!」


徐晃は厳かに頭を垂れた。その表情には、言葉にならないほどの決意が満ちていた。


「そして漢中。劉備は敗れたとはいえ、虎は死して皮を残す。いつの日か再び牙を剥くかもしれぬ。この地の守りは、何よりも堅固でなければならぬ。子脩よ」


その名が呼ばれた瞬間、皆が息を飲んだ。子脩、曹昂は、かつて宛城で父を守って死んだはずの息子だった。だが、あの夜、奇跡的に命を取り留めた彼は、父の片腕として再び戦場に立っていた。


子脩よ……わしは、お前を二度も死なせるような無慈悲な父か?いや、だからこそ、この天下の要を、お前に託さねばならぬのだ。お前こそが、わしが選んだ天下の守護者なのだから……


「漢中都督として、この地の要となれ。わしの代わりに、この天下の要を、お前が守るのだ。これが、父としての最後の願いだ」


曹昂は、父の言葉に深く頷いた。そこに満ちていたのは、父の期待に応えようとする強い決意であり、同時に、この重責を背負うことへの静かな覚悟だった。


「次に東だ。孫権は虎視眈々と我が領土を狙っている。合肥を守るは、我が軍最強の盾、文遠と曼成、そして文謙だ。貴様たちが合肥にいれば、孫権ごとき、百万の兵を率いてこようとも、わしは枕を高くして眠れるわ!」


「そして、荊州の関羽を牽制し、同時に劉備を封じ込めるため、襄陽だ。この地に子孝を置き、関羽の北上を厳しく警戒しつつ、東から劉備の動きを完全に封じ込めるのだ」


曹仁は、静かに膝を突き、その命令を受けた。全ての配置を終え、曹操は静かに息を吐いた。劉備を益州の中に閉じ込める、完璧な包囲網。そして、その要の座には、自らが心から信頼する者たちを据えた。


「もはや、わしにできることは全て終わった。あとは、お前たちに託す」


ある日の夕刻、合肥の城に、一羽の伝書鳩が舞い降りた。その足には、曹操からの密書が括り付けられている。伝令兵が慌ただしく城内を駆け抜け、張遼、李典、そして楽進のもとへと急いだ。


三人は、それぞれが持ち場を離れず、静かに密書を待っていた。張遼は城壁の上から、遠く南東の空を睨んでいた。李典は兵舎で、兵士たちの訓練を静かに見守っている。そして楽進は、武器庫で自らの得物を手入れしていた。


「文遠殿、李典殿、楽進殿!丞相より密書にございます!」


伝令兵の声に、三人は顔を上げた。張遼が密書を受け取ると、その顔に微かな緊張が走った。彼はすぐに中身を読み、隣に立つ李典と楽進に目を通させた。


「…丞相、ご病の由か」


李典が静かに呟いた。密書には、曹操が病に倒れ、もはや自ら指揮を執ることが叶わないこと、そして孫権の侵攻に備え、合肥の守りを三人に託すという、最後の布陣が記されていた。


「枕を高くして眠れる、か…」


楽進が、曹操の言葉を反芻する。その言葉には、彼らへの揺るぎない信頼が込められていた。


「丞相は、我らを信じておられる」


張遼が、静かに言った。その言葉には、悲しみと、そして父の願いに応えようとする強い決意が満ちていた。


「孫権は、必ずや大軍を率いて来るだろう。だが、我らが合肥にいれば、丞相は安心して眠れる。ならば、この城を、この命に変えても守り抜く!」


張遼の言葉に、李典と楽進は深く頷いた。かつて、この合肥の地で、わずか八百の兵で十万の呉軍を打ち破った伝説が、再び彼らの心に蘇る。


「文遠殿、策は?」


李典が問うと、張遼は静かに微笑んだ。


「策は一つ。我らが、丞相の『盾』となる。そして、孫権に、二度とこの地を狙おうという気を起こさせぬほどの、痛烈な一撃を食らわせてやろう」


三人の眼差しは、遠く江南の空に向けられていた。そこには、病に倒れた主君の願いを背負い、来るべき戦いに備える、静かなる闘志が燃え上がっていた。


建安二十四年、冬。漢中での激戦を終え、衰弱しきった体で、魏王曹操はついに許昌へと帰還した。彼の周囲を固めるのは、怪力無双の典韋と、虎のような眼光を持つ許褚。彼らの屈強な肉体が、今や病に侵された主君を、崩れ落ちぬよう支えていた。


馬車がゆっくりと城門をくぐり、その報せが宮廷に届くや否や、玉座に座る皇帝、献帝の顔は、血の気を失って蒼白になった。


曹操が戻ったか……しかも、病に臥せっていると聞く。天は、この漢に最後の希望を与えたのか?


献帝はそう一瞬思ったが、すぐにその希望は絶望へと変わった。曹操が死ねば、確かにその巨大な圧力からは解放されるだろう。しかし、次に天下を握るのは、彼を凌ぐほどに冷徹な野心を持つ曹子桓だ。


曹操はまだ、わずかながらも漢室への畏敬を示した。だが、あの男にはそれすらない。いずれ、漢の天下は、あの男の手で簒奪されるであろう。わしは、わしの息子たちは、皆……。


皇帝の心に、深い恐怖と孤独が降り積もった。曹操の死は、漢王朝の終わりの始まりに過ぎない。


一方、その知らせを聞いた曹丕は、父の病状を案じるふりをしながら、誰も見ていないところで密かに笑みを浮かべた。


父上、あなたはついに、あなたの帝国を築き上げた。しかし、その統治は、あまりにも父上の才覚に依存しすぎていた。天下は、一人の英雄の力ではなく、法と制度によって平定されるべきなのです。


彼の心の中には、父の死を悼む気持ちなど一片もなかった。あるのは、父という絶対的な存在から解放され、自身の理想を思う存分に発揮できるという抑えきれない歓喜だ。


父上が築いたこの堅固な礎は、私がいずれ漢から受け継ぎ、真の天下統一へと導いてみせよう。あなたの治世は、私の時代への序章に過ぎなかったと、歴史に刻んでみせます。


曹操が乗る馬車は、厳重な警護のもと、重々しい足音を立てて宮殿へと向かう。その背後には、漢王朝の終焉を予感し恐慌する皇帝と、新たな時代の到来を確信し暗に喜ぶ息子、二つの異なる運命が、静かに息づいていた。


許昌の魏公府。病に侵され、日に日に衰える曹操は、それでもなお、その威厳を失っていなかった。彼は玉座の間ではなく、自らが執務に使う広間に、朝廷の文武百官を招集した。百官たちは、曹操の顔色を窺いながら、ただならぬ雰囲気に息を潜めていた。


「皆の者、よく集まってくれた」


曹操は重い体を椅子に預けながら、静かに、しかし、力強く話し始めた。


「わしの余命が幾ばくもないことは、皆も薄々感づいているであろう。だが、この乱世は、まだ終わっておらぬ。劉備は益州に閉じ込め、孫権も合肥で抑えた。だが、わしの死後、この天下は再び乱れるやもしれぬ。それだけは、あってはならぬことだ」


彼の言葉は、将軍たちの心に突き刺さった。


「劉備は漢室再興を叫ぶ。だが、それは過去の栄光を追い求めるだけの空虚な言葉に過ぎぬ。わしが目指すのは、漢室の再生だ。もはや、一個人の情や気まぐれで天下を治める時代ではない。乱世の源は、常に人の情に流される皇帝と、その周囲に群がる奸臣にあった」


曹操は言葉に力を込める。


「よって、今日ここに宣言する。わしは、この漢王朝を法治国家とする。官吏の任免は、全て法の下に置かれる。才能と功績を持つ者は身分を問わず登用され、罪を犯した者は、たとえ高官であろうとも等しく裁かれる。皇帝といえども、この法に逆らうことは許されぬ!」


百官たちは、その言葉に驚愕し、ざわめいた。それは、漢の歴史を根底から覆す、前代未聞の宣言だった。


百官を前にした宣言の後、曹操は典韋と許褚に護衛され、献帝の元へ単身で向かった。長い間、恐怖と絶望に苛まれてきた献帝は、曹操の訪問に身を硬くした。彼は内心で、ついにこの時が来たのかと、死を覚悟した。


しかし、曹操は玉座の前で深く頭を下げた。


「陛下、ご安心くだされ」


曹操は静かに語りかけた。


「もはや天下は、陛下の一喜一憂によって左右されることはありません。法が陛下を守り、漢の安寧を守るのです。陛下は、法によって守られた漢の象徴として、未来永劫、その御位に留まることができるのです」


曹操が目指すのは、彼自身が死んだ後も安定して機能する国家体制だった。それは、献帝の権力を完全に奪い、感情的な判断から解放することで、漢を永続させるという、彼なりの慈悲の形だった。


長年、曹操の巨大な影に怯え、いつ命を奪われるかと怯えていた献帝は、その言葉を聞き、理解した。


「そなたは……朕の命を奪うためではなく、漢を再生させるために、この乱世を駆け抜けたのか…」


彼の目から、止めどなく涙が溢れ出した。それは、長きにわたる恐怖と絶望から解放された、安堵の涙だった。


曹操は何も言わず、静かに立ち去った。彼は、自身の理想が皇帝に通じたことを確認し、最後の仕事を終えた。もはや、彼の人生に後悔はなかった。


許昌の魏公府。日がな一日、戦の報せも政務の報告も届かぬ静かな部屋で、曹操は二人の妻に支えられながら、悠々と過ごしていた。病は彼の体を蝕んでいたが、彼の心はかつてないほどに満たされていた。


窓から差し込む柔らかな日差しを浴びながら、彼は庭の木々を眺めていた。庭園の片隅には、彼が愛した竹林が風に揺れている。その音を聞きながら、曹操はぼんやりとこれまでの人生を振り返っていた。


何という人生だったか……


彼の脳裏には、数えきれないほどの戦場の光景が蘇る。虎豹騎を率いて敵陣を蹂躙した日々、官渡で袁紹を打ち破った高揚、そして、赤壁で敗れ、全てを失いかけた絶望。だが、それら全てが、遠い過去の出来事のように感じられた。


前世では、成し遂げられなかった……


不意に、別の記憶が頭をよぎる。それは、この時代のものではない、奇妙な記憶。彼はかつて、別の世界で、何の力もない一介の人間として生きていた。そこで、彼は理不尽な冤罪で社会から追放され、愛する妻子は自分から離れていった。そして、信じていた友人たちも、手のひらを返したように去っていった。


その時の絶望と孤独は、彼の心を深く傷つけた。全てを失い、何も成し遂げられなかった、あの無力な日々。しかし、今、それらの苦い記憶は、もはやどうでもよかった。


あの時の絶望も、孤独も……全ては、この日のためだったのだ。


彼は、今世で、かつて失った全てを取り戻した。信じられる部下たち、家族の愛、そして、彼自身の力で築き上げた強大な国家。彼はこの乱世を駆け抜け、法によって治められる安寧の世の礎を築いた。前世で成し遂げられなかった「全て」を、今、この手で成し遂げたのだ。


曹操は満ち足りた表情で目を閉じた。二人の妻が、静かに彼の背中をさすっていた。彼の顔には、もはや苦悩も後悔もなく、ただ穏やかな笑みが浮かんでいるだけだった。


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