第二十四回 曹孟徳起死回生 馬孟起由勝転敗
閏八月、曹操は黄河を渡ることを決意した。彼は、自ら囮となり、渡河する兵士たちの殿を務めた。その横には、護衛の精鋭、虎士を率いる許褚が控えていた。
「馬超め…正面から打って出ぬか…!だが、それが奴の策ならば、わしが囮となって挑発してやる…!」
曹操は、あえてゆっくりと進み、敵の注意を引きつけようとした。しかし、その時だった。対岸の土煙が突如として舞い上がり、一万を超える馬超の騎兵が、怒涛の如く押し寄せてきた。
矢が、雨の如く降り注いだ。空を覆い尽くさんばかりの無数の矢が、乾いた音を立てて大地に突き刺さっていく。曹操は、わずか百人余りの護衛と共に、敵の真っ只中に孤立していた。彼の命は、まさに風前の灯火だった。
しかし、泰然自若、胡牀に腰掛けたまま、この死の嵐をやり過ごそうとしていた。彼の内心は、激しい焦燥に駆られていた。
「まさか、ここまで迅速な攻撃を仕掛けてくるとは…!このままでは、わしは…!」
その時、一人の巨漢が、怒号と共に馬を駆ってきた。許褚だった。彼は曹操のもとにたどり着くと、その体を抱え、急いで船中に移した。
周囲の将兵たちは、主君の危機に我を忘れ、争って船に乗り込もうとした。しかし、許褚は、鬼神のごとき形相で彼らの手を斬りつけ、主君を守るためならば、味方すらも斬り捨てた。
「殿の命は、天下一に重い!お前ら如きが、命惜しさに殿を危険に晒すなど、許さん!」
彼は、左手に鞍を持ち、盾代わりに矢を防ぎ、船を守った。その時、乗っていた船の漕ぎ手が、敵の矢を受けて絶命した。
「許褚よ、漕ぎ手が…!」
曹操の言葉に、許褚は空いた右手に櫂を握り、自ら船を漕ぎ始めた。その姿は、まるで鬼神が水面を駆けるかのようだった。彼の狂気じみた忠誠心と、圧倒的な武勇の前に、馬超軍も手が出せなかった。
その隙に、丁斐が最後の策を講じた。彼は、数百頭の牛馬を解き放ち、敵軍へとけしかけた。飢えと物資不足に喘いでいた馬超軍の兵士たちは、生き物を見た途端に戦意を失い、家畜を捕らえることに夢中になった。
丁斐の機転と、許褚の捨身の奮戦もあって、曹操はついに渡河に成功した。
対岸に渡り、諸将と再会した曹操は、彼らの悲痛な叫び声を聞いた。多くの将兵たちが、主君の安否を案じて涙を流していた。
「丞相…!ご無事でしたか!」
その光景に、曹操は感極まり、そして大笑いした。
「ははは!皆の者よ、何を悲しんでいるのだ!今日はあやうく小賊にしてやられるところだった!だが、これもまた戦だ!」
彼は、この敗北を屈辱とは考えず、むしろ自身の器量を試す試練として受け止めていた。
その後、曹操は兵糧が潤沢な河東の地に陣を移し、態勢を立て直した。後日、馬超が自軍の渡河を阻み、兵糧を枯渇させようと企んでいたことを知った時、曹操の表情は一変した。
「ただの勇将ではないな。奴は、わしの先を読んでいた…!」
この一件以来、曹操は馬超という若者を、単なる武勇に優れた将ではなく、自らの命を脅かす、真の脅威として認識するようになった。彼は、その深い警戒心から、有名な言葉を遺した。
「馬児が死ななければ、私には葬られる土地も無い」
それは、馬超という男が、天下の覇者曹操にとって、唯一無二の宿敵となった瞬間だった。
曹操軍は蒲阪から西へ渡河すると、さらに黄河沿いに南進し、渭水北岸まで到達した。対する関西連合軍は、潼関からさらに西に退き、渭水が黄河に流れ込む地点、渭口に防衛線を築いた。
この地は、泥と砂が入り混じり、騎兵の機動力を生かすには不向きな場所だった。曹操は、正面からぶつかることを避け、敵の注意を引きつけるための陽動を仕掛けた。
「馬超め…正面から挑発すれば、必ずや食いついてくるだろう。だが、奴は目の前の事象に囚われ、背後を疎かにする。そこが、奴の最大の弱点なのだ…!」
曹操は、日中、あたかも攻撃を仕掛けるかのように軍勢を動かし、敵の注意を引きつけた。そして夜間、暗闇に紛れてひそかに橋を築き、次いで複数の舟を渡らせ、軍勢を南へと移した。
馬超は、この動きを察知し、奇襲をかけた。だが、曹操はすでに伏兵を置いていたため、馬超の奇襲は空振りに終わった。
「くそ…!またしても、奸計にはまったか…!」
馬超は、怒りと焦りを募らせた。
だが、曹操軍もまた、新たな困難に直面していた。馬超の騎兵による度重なる襲撃に加え、地盤が軟弱なため、陣営や防塁の構築がままならなかった。兵士たちは、泥に足を取られ、疲労困憊していた。
「丞相、このままでは、陣を築くことすら叶いません…!」
諸将が口々に訴える中、一人の男が進み出た。それは、曹操の古い友人であり、彼の軍に身を寄せていた婁圭だった。
「丞相、この地の寒さを利用すれば、解決できますぞ」
婁圭は、静かにそう言った。彼の提案は、誰もが思いもよらないものだった。
「砂を入れた袋に水をかけ、夜間の寒さで凍らせるのです。そうすれば、それは石のように硬い防壁となります!」
曹操は、その奇策に目を見開いた。彼はすぐに婁圭の案を採用し、全軍に命じて砂袋に水をかけさせた。夜が明け、太陽が昇る頃には、砂と水が凍りつき、強固な防壁が完成していた。
馬超は、一夜にして築かれたその防壁を見て、驚愕した。
「まさか…!一夜にして、これほどの防壁を築くとは…!」
婁圭の奇策により、曹操軍は渭水を渡り、完全に防御態勢を整えることに成功した。それは、武の力だけでは成し得ぬ勝利が、知略によってもたらされた瞬間だった。
九月、曹操はついに渭南に到達した。黄河を渡り、陣を固めた曹操軍に対し、馬超ら関西連合軍は何度も挑戦を仕掛けてきた。だが、曹操は決して応じなかった。
「馬超は、激情に駆られている。武勇は劣らぬが、戦場の駆け引きではわしに劣る。奴は、わしが正面から挑んでくるのを待っている。だが、それは、奴の思うつぼだ…!」
曹操は、兵士の命を無駄にすることなく、ひたすら守りを固めた。季節は移り変わり、戦線は膠着した。戦況が動かない焦りは、曹操軍ではなく、むしろ馬超らの側に生じていた。
戦線が動かない膠着状態に、次第に関西連合軍は疲弊していった。彼らの結束にほころびが見え始めた頃、馬超らは黄河以西の土地を割譲することで、講和と人質の提供を打診してきた。
この申し出に、曹操は即座には答えず、静かに参謀たちを見渡した。そして、静かに賈詡に問うた。
「文和、この機をいかに活かすべきか?」
賈詡は、曹操の意図を察し、冷静に答えた。
「これは、天が我らに与えた好機にございます。彼らの要求を偽って許可するべきかと存じます」
「ほう、それはなぜだ?」
曹操が問うと、賈詡はただ一言、簡潔に答えた。
「離間するのみです」
賈詡の言葉は、まるで鋭利な刃のようだった。その簡潔な言葉に、曹操は全てを理解した。この男は、人の心の奥底にある猜疑心という闇を、誰よりも深く見抜いている。
「了解した。その通りにせよ」
曹操は馬超が遠ざかるのを確認すると、にこやかに韓遂に近づいた。
「文約兄、このような形で再び相見えることになろうとはな。まったく、世の趨勢というのは測り知れぬものだ」
韓遂は警戒心を隠しきれない面持ちで答えた。
「丞相も、ずいぶんと遠路を厭わずおいでになられましたな」
曹操は小さく笑い、声を潜めた。
「そなたとわしは、昔、洛陽で会ったことがある。覚えているか?」
韓遂は眉をひそめた。
「洛陽…ずいぶん前のことだ。まさか、丞相にそんな記憶があるとは」
「あるとも。わしはあの頃、袁紹と、いや、もっと言えば、あの何進の配下として、まだ駆け出しの小僧にすぎなかった。そなたは…そう、そなたはまだ若かったが、その眼光の鋭さは変わらぬな」
曹操は懐かしむように言葉を続けた。
「あの時、そなたは涼州の情勢について、わしに熱く語った。羌族との関係、辺境の治安、そして、この土地でいかにして民が生きているか、と。わしは感銘を受けたものだ。この乱世にあって、故郷の民を思う心がかくも深い者がいるのかと」
韓遂の顔に、わずかに動揺が見えた。それは、この会話が、馬超には決して知りえない、自分と曹操だけの共有する過去であると認識したからだ。
「さよう…そのような話をいたしましたか。昔のことは、あまり覚えておりませんな」
「いやいや。覚えているはずだ。そなたは当時、わしにこう言った。『この土地の民は、荒れ果てた大地に立ち、風と砂を友として生きている。彼らの苦しみを知らぬ者に、天下の治世など語る資格はない』と。その言葉は、今もわしの胸に残っている」
曹操は韓遂の肩に軽く手を置いた。
「わしはそなたの言葉を忘れてはいない。故に、今こうして、そなたと話し合いたいと思っているのだ。わしが本当に欲しているのは、戦による荒廃ではない。この乱世を終わらせ、民が安寧に暮らせる世を創ること。そなたとわしは、昔から志を同じくする者ではなかったか?」
韓遂は沈黙した。馬超の父、馬騰を殺した仇敵である曹操の言葉だが、その内容は、韓遂の心の奥底に響くものだった。曹操は、その一瞬の迷いを見逃さなかった。
「わしはそなたを友と思っている。だが、馬超は…いや、もうよい。今はただ、この思い出を語り合いたかっただけだ。そなたの考えは、また後日、じっくりと聞かせてもらおう。今日は、この辺で…」
そう言って、曹操は微笑みながら、馬超のいる方へ視線を送った。まるで、二人の親密な会話を見せつけるかのように。
会談を終え、陣営に戻った韓遂に、馬超が詰め寄った。その鋭い眼差しが、韓遂の心を突き刺す。
「公は何と言ったのだ?我らを欺こうとしたのではないか?」
韓遂は平静を装いながら、内心の動揺を隠すように答えた。
「何ということはない。ただ、昔の思い出話を少しばかり交わしただけだ」
馬超は、その言葉の裏にある不自然さを感じ取った。もしかして、本当に曹操と……?不信感が、氷のように冷たく彼の胸に広がっていく。
数日後、曹操から韓遂のもとへ、一通の書状が届いた。その書状には、言葉が塗りつぶされたり、追加されたりした不自然な跡が多数残されていた。それは、まるで長年の友人が、手紙を書きながら言葉を躊躇ったかのように見えた。
この書状は、すぐに他の関西諸将たちの目に留まった。
「見てみろ!この塗りつぶされた跡はなんだ!」
「やはり、韓遂殿は曹操と密かに内通していたのだ!」
彼らの間で、韓遂に対する疑惑は、急速に広まっていった。曹操の狙いは見事に成功したのだ。
またこの時、曹操と馬超との間でも、似たような形式で会談が持たれた。馬超は、この機会に曹操を奇襲し、一気に戦争を終わらせることを企てていた。彼の脳裏には、ただ勝利だけが描かれていた。今だ、この隙をついて一気に…!その豪腕と武勇を信じ、曹操の首を取ろうと鋭い殺気を放っていた。
だが、馬超の行く手を阻んだのは、曹操の護衛を務める許褚だった。許褚は、常に曹操の背後に控えて、そのわずかな動きも見逃さず警戒していた。彼は虎のように、馬超から放たれる殺気を感じ取っていた。――この男、何かを企んでいる。もし動けば、俺が必ず…!
馬超は、許褚の武勇を耳にしていた。その威圧感は、ただならぬものだった。彼は会談中、冷静を装いながら曹操に問いかけた。
「公の虎侯は、どちらにおられるか?」
馬超の意図をすべて見抜いていた曹操は、微笑んで答えた。
「その隣にいる者がそうだ」
その瞬間、馬超の奇襲計画は瓦解した。許褚の威圧感が、自らの殺気を上回ることを悟ったのだ。この男が曹操の隣にいる限り、隙は生まれない。彼は怒りに震えながらも、奇襲を断念せざるを得なかった。
この会談は、曹操の知略、許褚の忠誠、そして馬超の激情と武勇が複雑に絡み合う、まさに天下の覇権をかけた知恵比べの場だった。
曹操は、韓遂との会談を終えると、すぐさま本陣に戻り、側近を呼んで密かに命じた。
「悪来を呼び戻せ。直ちにだ」
側近が不審に思いながらも下がると、曹操は静かに目を閉じた。馬超と韓遂の同盟は、もはや偽りの友誼では崩せないことを、彼は知っていた。決着は、結局のところ武力によるしかない。そしてそのために、彼は切り札を隠し持っていた。
程なくして、屈強な体躯を誇る典韋が、威圧的な存在感を放ちながら現れた。
「丞相、お呼びでしょうか」
曹操は目を開け、その忠実な部下をまっすぐに見据えた。
「悪来、よく戻ってくれた。今こそ、そなたの力が要る」
曹操の言葉に、揺るぎない忠誠心に満ちた決意が典韋の顔に浮かんだ。
「馬超を迎え撃つ。わしはそなたに、今残っている虎士の内、千を任せる」
典韋は無言で頷いた。当初三千を数えた虎士は、相次ぐ戦闘で二千にまで減っていたが、残る精鋭を託されたのだ。それは、曹操が彼に寄せる絶大な信頼の証だった。
「千の兵で、必ずや馬超を止めてみせましょう」
典韋はそう言い放ち、一礼して陣を後にした。彼の背中は、もはや一介の将軍ではなく、曹操の最も信頼する盾、そして矛そのものに見えた。馬超との雌雄を決する戦いは、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。




