第二十一回 美周郎火焼赤壁 曹阿瞞全軍潰敗
あの日、曹操からの手紙が届いた時、私は震えなかった。いや、正確には、私以外のすべての群臣が顔色を変え、その場で崩れ落ちそうになっていたのだ。
「水軍八十万の軍勢を整えて、将軍とお会いして呉の地で狩猟をいたそうと思う」
その傲慢な文面に、彼らの顔から血の気が失せていくのが見えた。彼らはただ数ばかりを数え、恐怖に身を震わせている。だが、私は違った。私の心に燃え上がったのは、恐怖ではなく怒りだった。この江東の地は、父孫堅と兄孫策が命を懸けて築き上げたもの。それを、この男に易々と渡してなるものか。
「将軍、降伏しか道はございません!」
重臣である張昭の声が響く。彼らは、目の前の安寧と引き換えに、この江東の誇りを投げ捨てよと言う。私は彼らに失望した。彼らは、ただの算盤勘定でしか物を考えられないのか?この屈辱を、安寧と呼ぶのか?
その時、魯粛が私の心を見抜いたかのように進み出た。彼は冷静な口調で、劉表の弔問という名目で、荊州の動向を探ることを進言した。私は彼を信じ、その提案を受け入れた。
魯粛が戻ってきた時、彼は劉備が長坂で敗れ、辛うじて夏口に逃れたことを伝えた。そして、劉備との同盟を説いてきた。
「劉備は、曹操にとって最大の脅威。彼と同盟を結び、共に戦えば、勝機はあります!」
魯粛はそう言った。私は彼の言葉を信じた。そして、劉備からの使者として、諸葛亮という若き知者が現れた。彼の言葉は、冷静でありながら、私の心に深く響いた。
「曹操は強大ですが、南の地は彼にとって未知の領域。今こそ、彼を打ち破る好機にございます!」
彼は、私の中にある、抗戦への決意を肯定してくれた。私は、彼らの言葉に、父や兄が私に託した魂を見た気がした。
だが、家臣たちはまだ納得しない。
「降伏すべきです!この戦に、勝機などありません!」
群臣たちの怒号が、私の決意を揺るがそうとする。しかし、私はこの江東を、彼らの無謀な臆病さによって失うわけにはいかなかった。
その時、周瑜が私の前に進み出た。彼は冷静に、しかし情熱的に両軍の情勢を分析した。
「曹操は、生まれ故郷の北方兵士を率いており、水戦に不慣れ。そして、彼らは長旅の疲労と、疫病に苦しんでおります。今こそ、彼らを打ち破る好機でございます!この周瑜に、兵をお任せください。必ずや、曹操の首級を挙げ、江東の安寧を守って見せます!」
周瑜の言葉は、私の心を迷いなくさせた。そうだ、戦うべきだ。父や兄が守り抜いた江東の誇りを、この手で守り抜かねばならない。私は、周瑜、魯粛、そして諸葛亮の目を見つめた。
「よかろう。決戦だ。呉のすべてを賭し、曹操に一矢報いてくれよう!」
私は、静かに、しかし力強く、開戦を決断した。
広間の静寂を、私の剣が一閃、引き裂いた。
「これ以上、降伏すべしと申す者がおれば、この案と同じ運命になると思え」
上奏文を載せるための案を、私は一刀両断にした。乾いた木片が砕ける音が、凍りついた家臣たちの耳に、雷鳴となって轟いた。彼らの顔は青ざめ、もはや誰も口を開くことはなかった。彼らは、父や兄が命を懸けて築き上げたこの江東の誇りを、自ら放棄しようとしていたのだ。私の怒りは、もはや抑えきれるものではなかった。
その夜、周瑜が私の幕舎を訪れた。彼は、私の決意を静かに見つめていた。
「周瑜よ、私はこの江東のすべてを賭ける。兵は多く見積もって五万か。今すぐに集めるのは難しい。しかし、すでに三万の兵を選び、艦船、武器、物資も揃っている。お前はもし勝てると判断したならば、ためらうことなく曹操と決戦せよ。もしお前が負けたなら、私の所へ退却せよ。私が自ら、曹操と勝負を決めよう」
この言葉は、主君としてではなく、周瑜という一人の男を信じる、私自身の覚悟だった。周瑜の瞳に、深い決意の光が宿ったのを見た。私は周瑜と程普に二万の軍勢の指揮権を与え、魯粛を賛軍校尉として彼らを補佐させた。私もまた、一万の軍を率い、彼らに加勢した。後方で燻る山越の反乱は、賀斉、蔣欽を派遣して平定させた。
かくして、呉の命運を賭けた戦いが始まった。
長江の水面は、曹操軍の艦船によって黒く埋め尽くされていた。八十万を自称するその軍勢は、見る者を圧倒する威容だった。しかし、私は冷静だった。北方の曹操軍は、江南の湿気と疫病に苦しめられ、すでにその士気は地に落ちていた。彼らが船酔いしないようにと、すべての船を鎖で繋いだその愚策こそ、彼ら自身の首を絞めることになると、私は確信していた。
そして、その日が来た。
周瑜の号令一下、黄蓋が火をつけた船が、風に乗って曹操軍の船団へと突っ込んだ。火はまたたく間に燃え広がり、一瞬にして長江は地獄と化した。炎が夜空を赤く染め上げ、兵士たちの悲鳴が轟く。我々は、その炎の勢いそのままに、曹操軍へと襲いかかった。
周瑜、程普、そして私を含め、部下たちは赤壁、烏林と連戦した。地の利、天の利、そして人の利、そのすべてが我々に味方した。曹操軍は壊滅的な敗北を喫し、天下の趨勢は一変した。
赤壁の戦いの後、周瑜は劉備と連動し、曹操軍を打ち破って荊州の大部分を奪った。勢いに乗った我々は、次に合肥の攻略に取り掛かった。だが、合肥の城は堅固であり、兵士たちは疲弊していた。
「将軍、攻略は一時諦めるべきかと存じます。長江の南側が不安定です。今、無理に攻めれば、背後を突かれる恐れがあります」
張紘の忠告を聞いた私は、即座に攻略を断念した。勝利の興奮に浮かれていた私に、張紘の言葉は、まるで冷水を浴びせられたかのようだった。しかし、そのおかげで私は冷静さを取り戻した。目の前の勝利に固執して、より大きなものを失うわけにはいかない。




