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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
奸雄世に問う
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第二回 孟徳初任頓丘令 朝廷暗中清濁争

洛陽を離れることは、転生した曹操にとって、むしろ好都合だった。議郎という役職は、政教の得失を議論する重要な官職ではあるが、宮中に留まれば、十常侍の監視の目が一層厳しくなるのは目に見えている。彼らの意図は左遷、あるいは遠ざけることにあったとしても、結果的に新たな視点を得る機会を与えられたと彼は冷静に捉えていた。


頓丘令か……。確かに、洛陽のような中央の要地ではない。だが、下級とはいえ、一県の長としての裁量権は大きい。この地で、まずは足場を固めるべきだろう。

転生前、彼は現代日本で地方行政に携わった経験はなかったが、官僚としての合理的思考と問題解決能力は、場所を選ばない。むしろ、中央の腐敗に毒されていない地方で、彼の理想とする「法と秩序」の実践を試す絶好の機会だと考えた。


旅の途中、曹操は馬上で、この時代の疲弊した民衆の暮らしを目の当たりにした。飢えに苦しみ、住処を追われた流民の群れ。彼らの目には、希望よりも諦めと絶望の色が濃く宿っていた。現代の冤罪で全てを失った自身の過去が、重なって見えた。あの理不尽が、この時代では日常なのだ。


「この光景を、何度見れば気が済むのだろうか」


小さく呟いた彼の声は、しかし、馬蹄の音と風にかき消された。胸の奥底で、かつて自身を救えなかった無力感と、今度こそこの惨状を変えたいという強い使命感が交錯する。


頓丘に着任すると、彼は早速、県内の状況を把握することから始めた。県庁の腐敗ぶりと事務の非効率さに愕然とした。民からの徴税は不透明で横領が横行し、治安も形ばかりで匪賊の跋扈を許していた。


「これはひどい……まるで機能不全を起こした組織のようだ」


現代の官僚としての彼ならば、徹底的な監査と組織改革を断行するだろう。しかし、ここは後漢末期。制度も、人々の意識も、現代とはかけ離れている。性急な改革は、かえって反発を招きかねない。特に、地方において、古くからの因習や有力者の利権は、中央のそれよりも根深く、厄介な場合がある。


彼はまず、情報収集に努めた。地域の有力者、知識人、そして民衆の声にも耳を傾けた。そして、この地の問題点が、複雑に絡み合った旧習と、それに胡座をかく既得権益層にあることを突き止めた。中には、曹氏や夏侯氏といった自らの縁戚筋にあたる者たちまでが、その旧弊なシステムの一端を担っていることもあった。


転生前の彼は、家族との温かい日常を奪われた。この世界で、血縁というものが、自分にとってどのような意味を持つのか、まだ測りかねていた。しかし、彼が目指す「法と秩序」が、もし既存の親族の利権を侵害するものであれば、彼は迷いなくそれを是正するだろう。冤罪によって、彼の心には、どんな柵も乗り越えるという冷徹な覚悟が刻まれていた。


いきなり大鉈を振るうのは得策ではない。まず、小さな成功体験を積み重ね、信頼を勝ち取ることだ。その上で、少しずつ、この地のシステムを変えていく。

彼の合理的な思考が導き出した結論だった。まずは、目に見える形で民衆の生活を改善し、彼らの支持を得ること。そして、それを通じて自身の権限と影響力を確実に広げていく。


彼がまず手を付けたのは、治水事業だった。頓丘はたびたび黄河の氾濫に悩まされており、農地が流され、多くの餓死者を出していた。現代の土木技術や疫病対策の知識を持つ彼にとって、この問題は、比較的解決しやすい課題だった。


彼は、専門家ではないが、原理原則を理解している。大規模な堤防の築造は困難でも、既存の堤防の補強、水路の整備、そして効率的な水門の管理を行うだけで、被害は劇的に減らせるはずだ。


「これより、県内の治水事業を最優先とする。徴発は公正に行い、賦役に参加した者には、相応の報酬を与える」


彼の号令に、当初、県庁の官吏たちは戸惑った。これまでの県令が、民を無償で酷使するのが当たり前だったからだ。しかし、報酬を与えるという曹操の異例の布告に、疲弊していた民衆の間で、徐々に希望の光が灯り始めた。


彼自身も現場に足を運び、自ら指示を出す。泥まみれになりながら指揮を執る若き県令の姿は、民衆の間に「これまでの役人とは違う」という信頼感を芽生えさせた。彼の指導の下、治水事業は順調に進み、その年の黄河の氾濫被害は、例年に比べて格段に少なかった。


この小さな成功は、頓丘の民衆に希望を与え、曹操の行政手腕への評価を確立させた。県内の有力者たちも、彼の現実的な手腕と、民衆からの支持を無視できなくなっていく。


ある日の夕刻、彼は久しぶりに縁戚の屋敷を訪れていた。そこに集まっていたのは、彼の従兄弟であり、幼い頃からの付き合いである夏侯惇と夏侯淵。そして、同じく一族の従兄弟である曹仁と曹洪だった。史実で後の彼の天下を支える名将たちだ。


「よお、孟徳! 久しぶりだな」


夏侯惇が豪快な笑みを浮かべ、曹操の肩を叩いた。鍛え抜かれた肉体は、この時代の武人らしい力強さを感じさせる。その隣では、夏侯淵が柔和な笑みを浮かべつつも、鋭い視線を隠し持っていた。


「北門都尉の件は、見事だったな。洛陽の奴らも度肝を抜かれただろうよ」


曹仁が酒を酌み交わしながら言った。曹洪も、「まさか、宦官の叔父貴をぶち殺すとはな。肝が据わってるぜ」と続いた。彼らの言葉には、尊敬と同時に、やや危うげなものを見るような視線も混じっていた。彼らは、転生前の曹操の奔放な行動は知っていても、あそこまで徹底した「法」の執行は予想外だったのだろう。


曹操は、内心で彼らの評価を冷静に分析していた。彼らの武才と忠誠心は史実が証明している。現代での人間関係に疲弊し、裏切られた経験を持つ彼にとって、この無骨だが真っ直ぐな縁者たちの存在は、得難いものだった。彼らは、彼の血縁であるだけでなく、やがて来る乱世で共に戦う「同志」となるべき存在だ。


「法を犯せば、身分など関係ない。それだけの話だ」


彼は淡々と答えた。その言葉の奥には、冤罪によって捻じ曲げられた「法」への強い憤りと、それをこの時代で正そうとする彼の固い決意が秘められていた。彼らはその真意までは理解できないだろうが、曹操の揺るぎない覚悟だけは感じ取ったようだった。


「しかし、それで宦官どもに目をつけられたのだろう? 頓丘へ追いやられ、またすぐに議郎とは……忙しいことだ」


夏侯淵が少し心配そうな表情で言った。曹操は、内心で苦笑した。宦官どもの思惑など、とっくに見抜いている。


「彼らは私を飼いならそうとしているだけだ。だが、この曹孟徳、彼らの意のままに動く駒ではない。頓丘では、この国の根深い病巣を肌で感じた。そして、議郎の職務は、宮中の腐敗をより深く知る機会となる」


彼の言葉には、単なる官僚としての愚痴ではなく、未来を見据えた戦略的な思考が垣間見えた。夏侯惇たちは、いつもの孟徳とは違う、どこか冷徹で、それでいて確固たる意思を感じさせる彼の言葉に、それぞれが内心で驚きを隠せずにいた。


彼らは、彼の武の才と奇策を好む性質は知っていたが、今、目の前の曹操には、それ以上の何かを感じ取っていた。それは、現代の官僚としての「システムを俯瞰する視点」と、「効率を追求する合理性」が、乱世の「奸雄」としての気質に加わった、新たな曹操像だった。


宴が終わり、夜道を歩きながら、彼は再び家族の待つ家へと足を向けた。


家に帰れば、静かに彼を待つ妻の丁氏がいた。そして、長男の曹昂、そのすぐ下に生まれた次男の曹鑠、さらに娘の姿もあった。転生した当初、見知らぬ家族との生活には戸惑いと、形容しがたい複雑な感情が入り混じっていた。


現代での彼は、既に家族を持っていた。その温かく、かけがえのない日常を、理不尽に奪われたのだ。目の前の丁氏は、現代の彼の妻ではない。そして、曹昂、曹鑠、娘もまた、血の繋がりがあるとはいえ、彼が知る「わが子」ではない。彼らのことを知っているのは、あくまで歴史上の知識として、ゲームのキャラクターとしてだ。


彼らの純粋な眼差し、無邪気な声、そして丁氏の細やかな気遣いに触れるたび、胸の奥で奇妙な感覚が渦巻く。彼らの笑顔を見るたび、喜びを感じる半面、「これは、私の家族ではない」という冷徹な事実が、頭の片隅で囁き続ける。まるで、完璧な役を演じている役者のように、彼はこの「曹操」という人物の夫として、父として振る舞い続けることに、ひそかに苦悩していた。


しかし、その違和感を、彼らの前で露わにすることは決してなかった。彼の顔には、常にこの時代の「曹操」としての、どこか奔放で、しかし家族思いの表情が貼り付けられている。彼らに余計な心配をかけさせたくない、という理性。そして何より、彼らが純粋に自分を「父」として、「夫」として慕う姿に、本物の温もりを感じ始めていたのも事実だった。


「お帰りなさいませ、旦那様」


丁氏が、いつもと変わらぬ穏やかな声で出迎える。彼女の表情には、夫への心配と、彼が無事に帰ってきたことへの安堵が混じっていた。


曹昂が、まだ幼い声で「父上!」と駆け寄ってくる。後に武勇で名を馳せることになる、彼の長男だ。そのすぐ後ろから、少しはにかみながらも、純粋な好奇心を宿した瞳で曹鑠が父を見上げている。そして娘は、兄たちに続いて控えめに寄り添った。


食卓を囲む時間は、転生者にとって、この時代で唯一、心休まるひとときだった。丁氏が用意した素朴な料理は、現代の豪勢な食事とは比べ物にならないが、家族の温もりが、それに何よりの味を添えていた。

この者たちを守るためにも……


彼は、静かに箸を取りながら思った。かつて、彼は守るべきものを全て失った。その喪失感と絶望は、今も彼の深層に沈んでいる。だからこそ、この新たな家族、そしてこの乱世に生きる民衆の暮らしを、決して理不尽に奪わせてはならない。


家族との食卓を後にした曹操は、静かに夜の洛陽の道を歩いていた。丁氏と子供たちの温もりが心に染みる一方で、胸の奥には依然として拭いきれない違和感が残る。彼はその感情を、まるで精密機械の不調のように分析しようと試みる。現代の家庭とは異なる儒教的な家父長制。複数の妻を持つこと。そして、何より自分ではない「曹操」として、彼らを愛し、守らなければならないという、新たな使命感。そのすべてが、彼の中で複雑に絡み合っていた。


いずれ慣れるのだろうか。いや、慣れるべきではないのかもしれない。この違和感が、私を「曹操」という役割に完全に飲み込まれないための、最後の砦か……

思考の渦中にありながらも、彼の足は迷いなく、もう一つの家へと向かっていた。そこにいるのは、彼のもう一人の妻、妾の卞氏だった。史実では、後に魏の武宣皇后となる女性。丁氏が正妻としての威厳を持つ一方で、卞氏は聡明で、献身的な女性として知られている。転生した彼は、この時代の人間関係を構築する上で、それぞれの「妻」との関係をどう築くべきか、常に意識していた。


卞氏の住まいは、丁氏の屋敷からほど近い、しかし一線を画した場所にあった。門をくぐると、控えめな灯りが彼を迎え入れる。


「旦那様、お待ちしておりました」


卞氏が、しとやかな声で迎えた。彼女の顔には、夜遅くにもかかわらず、疲労の色は見えず、穏やかな笑みが浮かんでいる。その柔らかな表情は、丁氏の持つ包容力とはまた異なる、静かで聡明な雰囲気をまとっていた。


「ああ、ただいま、卞氏」


曹操は、自然と優しい声で答えていた。現代の倫理観からすれば「妾」という立場は理解し難いものだが、この時代においてはごく一般的なこと。彼は、この新しい関係性を受け入れようと努めていた。


部屋に入ると、温かい茶が用意されていた。日中の喧騒と宮中の謀略から離れ、卞氏と二人きりの空間は、曹操にとって一種の安らぎをもたらした。彼女は彼の言葉を静かに聞き、時に的確な意見を述べる。決してでしゃばらず、しかし彼の思考を理解しようと努めるその姿勢は、彼にとって心地よかった。


「北門都尉の時のご活躍、都で評判になっておりました。皆、旦那様の公平な裁きに驚いております」


卞氏が控えめに口を開いた。その言葉には、世間の表面的な評価だけでなく、彼の行動の裏にある真意を汲み取ろうとする思慮深さが感じられた。


「…そうか。洛陽の人間も、少しは目が覚めたか」


曹操は自嘲気味に笑った。その心には、かつての冤罪の記憶がよぎる。法が正しく運用されないことの恐ろしさ。そして、それがどれだけの人々を絶望に突き落とすか。


「この国の病は、深く根付いています。これを癒すには、痛みを伴う治療が必要となりましょう」


卞氏は、彼の言葉を遮らず、静かに頷いていた。彼女は、彼の内に秘められた苛烈な覚悟の片鱗を感じ取っているようだった。言葉を多く交わさなくとも、卞氏は彼の孤独と、彼が背負おうとしているものの大きさを、理解しているかのようだった。その理解が、彼の心をわずかに温める。


現代の彼は、家庭を失った。だが、この乱世の只中で、彼は二つの異なる家庭を持った。丁氏の家で感じる、率直で、時に無邪気な温かさ。そして、卞氏の家で感じる、静かで、深い理解に満ちた安らぎ。どちらも、彼がかつて失った「日常」とは異質なものだが、確かに彼の心を癒し、支え始めていた。

この者たちも、私が守るべき存在だ。


彼は心の中で静かに誓った。彼らが暮らすこの国を変えること。それが、冤罪で全てを奪われた彼が、この乱世で生を受けた意味なのかもしれない。


光和元年、霊帝の皇后宋皇后が廃位される事件に連座し、曹操は一度免官となる。それは彼の知る史実通りの展開だった。この免官劇の背後には、宮中の権力闘争が複雑に絡んでいた。彼の養祖父である曹騰は、すでに世を去っていたが、その名残と、彼が宦官の養子であるという事実は、常に彼に纏わりつく影だった。

彼は頓丘にいる間も、洛陽からの情報収集を怠らなかった。宦官勢力と清流派の対立は激しさを増し、宮廷は常に血生臭い暗闘の場となっていた。特に、十常侍の権勢は日に日に増している。彼らは、北門都尉時代の曹操の行動を許してはいないだろうが、同時に、彼の有能さを手放しで捨てるほど愚かでもない。


あの十常侍どもめ、私をこのまま放置するはずがない。宦官の血を引く私を、利用できる駒として飼いならそうとするだろう。しかし、私はもう、誰かの意のままに動く駒ではない。


彼の心には、決して屈することのない、鋼のような意志が宿っていた。現代で全てを失ったあの絶望を、この乱世の民には味あわせたくない。彼の内に宿る「正義」は、今や個人的な復讐の念を超え、混迷する時代を救うという、より大きな使命へと昇華されつつあった。


二年後、再び召し出され議郎に任ぜられるという報が届いた時、彼は静かに、しかし確かな手応えを感じていた。


「やはり来たか」


議郎。政教の得失を議論する、皇帝に近しい官職。これは宦官たちが彼を監視下に戻し、かつその才能を利用しようとする動きであることは明白だった。議郎という職務は、腐敗した宮中の実情を肌で感じ、将来の布石を打つための情報収集期間に過ぎない。

次なる舞台は、宮中か。好都合だ。今度は、もっと深く、この国の病巣に切り込んでやろう。宦官ども、そして清流派の連中も、私が何を考えているのか、容易には理解できないだろう。

夜は更け、洛陽の都は静寂に包まれる。新たな曹操の物語は、彼が築き上げる法と秩序、そして彼を支える家族たちの存在によって、複雑に織りなされていくのだった。

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頓丘令(県令?)から議郎になったんだろうけど、ずっと議郎でもあるように書かれていて謎
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