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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
天下三分其の二を得る
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第十九回 劉皇叔四面楚歌 曹丞相南征湘江

南征を前に、曹操は朝廷から呼び出しを受けた。


皇帝の私室は、厳かながらもどこか張り詰めた空気に満ちていた。玉座に座る皇帝は、聡明な眼差しを隠すことなく、静かに曹操を見据えていた。


「丞相、そなたの南征の準備は、いかにも大規模なものと聞く。一万五千の虎豹騎、そして玄武池での水軍訓練…その勢いは、天下を統一するかのごとし」


皇帝の声は穏やかだったが、その言葉の裏には、曹操への疑念が透けて見えた。曹操は玉座の前で深く頭を垂れ、内心で冷笑する。


ふむ、やはり聡いお方だ。この期に及んで、わしの真意を測ろうとなさるか


曹操は顔を上げると、いつものように恭しく答えた。


「陛下、お言葉の通りにございます。天下の民は長きにわたり乱世に苦しんでおります。臣は陛下に代わり、賊を討ち、民を安んじるため、全力を尽くしております」


しかし、皇帝は顔色ひとつ変えずに、さらに踏み込んだ。


「そなたは常に漢室への忠義を口にする。だが、なぜか、そなたの軍備は、わしが勅令を下すよりも早く進む。そして、朝廷の臣は、そなたに意見を述べることさえできぬ」


皇帝の言葉は、まるで鋭い刃物のように曹操の核心を突いた。曹操の表情は変わらない。だが、心の中では、皇帝の鋭敏な知性を認めながらも、その無力さを嘲笑っていた。


このお方は、何一つわかってはおらぬ。この乱世で、正論を並べたところで、飢えた民が救えるか?武力無き『義』に、誰が従うというのだ?


曹操は静かに、だが重々しく語り始めた。


「陛下、乱世とは、法が地に堕ち、力がすべてを支配する地獄でございます。臣は、ただ陛下のため、漢の威光を取り戻すため、この身を鬼としております。賊を討ち、力を以って天下を治める。そうしなければ、漢室は滅びるのみ。これこそ、臣が陛下にお仕えする唯一の道にございます」


その言葉は、建前と本音が複雑に絡み合い、もはやどちらが真実か見分けがつかない。曹操は自分の行動を「漢室を救うための必要悪」として正当化し、皇帝に反論の余地を与えなかった。


皇帝は、すべてを理解しながらも、何も言えなかった。彼の剣は、もはや曹操が持っている。そして、その剣は、彼自身の正義を貫くために振るわれようとしているのだ。


謁見を終え、玉座を後にした曹操は、心の中で静かに呟いた。


「わしが天下を治めるのではない。わしが天下を救ったのだ。…わしが漢室なのだ」


その言葉は、もはや皇帝さえも凌駕する、絶対的な支配者の孤独な決意だった。


曹操の足音が遠ざかり、部屋に静寂が戻った。皇帝は玉座に深く沈み込み、冷たくなった床に視線を落とす。朝廷の頂に座しているにもかかわらず、その身はまるで鳥かごの中の囚人のようだ。


朕は…何一つ、己の意思で動かせぬ


無力感が胸を締め付ける。この国は、漢室の名のもとにありながら、その実、曹操という一人の男の手に握られている。しかし、なぜだろうか。曹操と語り合う時、胸のどこかで、得体の知れない高揚感が胸に湧き上がるのを感じる。それは、まるで対等な立場から、天下を論じ合っているかのような錯覚だった。


「…不思議なものよな」


皇帝は静かに呟いた。


思えば、董卓が権力を握っていた時、朕はただの飾りだった。彼の前で意見を述べようものなら、その目には殺気が満ち、身の危険を感じた。李傕や郭汜に至っては、彼らが何を考えているかさえわからなかった。彼らはただ暴力を振るい、漢室の権威を貶めることしか知らぬ獣だった。意見を述べることなど、自ら死を求めるに等しかった。


それに比べ、曹操は違う。彼は朕の言葉を、考えを、聞こうとする。いや、聞いているふりかもしれない。だが、少なくとも彼は、朕を一人の人間として見ている。


そうだ、あれは…対話だ。命の危険を冒すこともなく、天下の大計を論じられる。これは、この十年、決して許されなかったことだ


皇帝は、無力な自分を嘲笑いながらも、どこかで安堵していた。もはや政治の主導権は失われた。だが、その代わりに、彼は曹操という類まれな才を持つ男との、危険な知恵比べという、歪んだ遊戯を得ていた。


「朕は、天下の主ではない。…だが、そなたの、ただ一人の語り部ではあるか」


皇帝は静かに目を閉じた。それは、絶望なのか、あるいは、微かな希望なのか、誰にもわからなかった。

静かな宮殿に、皇帝は一人残された。もはや心に不満も、怒りもなかった。それは、すべてが腑に落ちたからだ。彼は悟ったのだ。


曹操の言葉、行動、そしてその全てが、一つの壮大な筋書きであったことに。


これまでの権力者、董卓や李傕、郭汜は、ただただ自らの欲望と暴力に任せていた。彼らには野心こそあれど、天下を治める大義も、それを遂行する知略もなかった。彼らはただ、力ずくで漢室を蹂躙し、歴史に「奸賊」として名を残すことしかできなかった。


しかし、曹操は違う。


彼は単なる権力者ではない。天下の英雄であると同時に、歴史に名を刻むことを望む、稀代の策士なのだ。

皇帝は、自らの立場を省みて、すべてが繋がった。曹操が「漢室の再興」を掲げるのは、その方が天下の民から支持を得やすいからだ。彼が忠臣のふりをして皇帝を擁するのは、それこそが己の野望を叶え、さらに天下から「権臣」の謗りを受けずに済む「方便」にすぎない。


「そうか……そうであったか……!」


皇帝は、無言で玉座を見つめる。曹操は、天下統一の戦いに勝利しても、決して自分が皇帝の座に就こうとはしないだろう。彼は「天下を統一し、漢室を支えた」偉大な丞相として、後世に名を残すことを選ぶはずだ。


すべての準備は、そのために進められている。虎豹騎も、水軍訓練も、すべては曹操個人の栄光のため。そして、その栄光の正当性を証明するために、皇帝という存在が必要なのだ。


もはや、皇帝は自らの運命に抗う術を持たなかった。彼は、この歴史の舞台で、曹操という主役を輝かせるための、ただの小道具に過ぎないのだ。


曹操が南征のため鄴を離れると、その息子である曹丕が一切の政務を取り仕切ることになった。宮殿は、父がいた頃とは全く異なる空気に一変していた。


曹操が座っていた席に座る曹丕は、冷たく、そしてどこか傲慢な目をしていた。その眼差しは、皇帝を映す時、まるで感情を持たぬ人形を見るかのようだった。


「父上は、漢室の再興と民の安寧のため、遠征に出られた。陛下の務めは、ただその間、静謐を保つことのみ」


彼の言葉は、父のような建前すらも含まない、剥き出しの傲慢だった。曹操は権力の集中を謀りながらも、皇帝を「対話の相手」として見ていた。時に、天下の行く末を論じ、時に、その知性に敬意を払うような素振りを見せた。それは、皇帝にとって屈辱でありながら、一方で人としての矜持を保つ最後の砦でもあった。


しかし、曹丕にはそれが一切ない。彼は皇帝を、ただの空虚な象徴としてしか見ていないのだ。その行動に敬意はなく、言葉に飾りもない。


曹操は「漢室の忠臣」という仮面を被り、慎重に、そして緻密に権力を掌握しようとした。だが、曹丕はすでにその仮面を脱ぎ捨てていた。露骨な野心は、もはや隠そうともしない。皇帝は、この若き後継者の姿に、漢室の滅びを確信した。


この者には、父が持つような、歪んだ畏敬の念すらも無い。父はまだ、天下に『権臣』と謗られることを恐れていたが、この者は…その悪名すらも意に介さぬのか


曹丕の冷たい目が、皇帝の心に深い絶望を植え付けた。もはや、この男は、天下の主を、そして漢室の正統性を、ただの取るに足らない存在としか考えていない。


「いずれは…父の地位を、そしてこの漢室を、まとめて取って代わるつもりなのだ」


皇帝の背筋に、冷たい汗が流れた。それは、自らの命運が、もはや風前の灯であることを告げる予感だった。


「南征の開始。劉備を討ち、漢室の賊を平らげる」


曹操は、もはや躊躇も飾りもなくそう宣言した。彼の言葉は、長きにわたる準備の最終章を告げる号令だった。一万五千の虎豹騎は大地を揺るがし、玄武池で鍛えられた水軍は長江を下る準備を整えていた。彼の視線の先には、もはや小狡い策を弄する劉備ではなく、天下統一を阻む最後の壁があるだけだった。


劉表の死後、荊州を継いだ若き劉琮に、抗う術はなかった。


「丞相が自ら大軍を率いて南下。もはや、我らに勝ち目はございません」


有力な文官も武官も、皆こぞって降伏を進言した。彼らは、劉琮の背後で権力を握る蔡氏一族と利害を同じくしていた。このまま曹操に抗戦すれば、荊州は戦火に焼かれる。ならば、平穏裏に降伏し、新たな権力者のもとで安泰を求めるのが最善の道だった。


それに加えて、彼らの胸にはもう一つの思惑があった。


劉備という厄介な存在を、この機に排除できる


劉表という後ろ盾を失った劉備は、荊州の文武にとって、いつか自らを脅かす、制御不能な異分子でしかなかった。曹操に降伏すれば、その劉備を討ち取ってもらう大義名分が生まれる。この決断は、荊州の安寧と、劉備という脅威の排除、その両方を叶えるための狡猾な策だった。


劉備が降伏の知らせを聞いたのは、まさにその報が天下に届く寸前だった。それは、同盟者と信じていた者から、何の連絡もないまま下された決定だった。


「…裏切られた。何も聞かされていなかった…」


新野に響く劉備の声は、怒りというよりも、深い絶望に近かった。自身の立場が完全に失われたことを悟ったのだ。


その時、諸葛亮が静かに進み出た。彼の瞳には、冷静な知略の光が宿っていた。


「殿、今が好機にございます。荊州の兵はまだ動揺しております。この隙に劉琮を討ち、荊州を我が手に収めるのです。今なら勝てます!」


その進言は、理にかなった、勝利のための完璧な策だった。だが、劉備は静かに首を振った。


「断る。諸葛亮よ、その才はわかっている。だが…それは、義に反する。劉景昇殿は、長きにわたりわしを庇護してくださった。その息子を、恩を仇で討つことは、わしの良心が許さぬ」


劉備は、もはや敗北が目の前に迫っていることを悟りながらも、迷うことなく答えた。


「荊州の民を巻き込み、恩人を裏切ってまで得る天下に、何の価値があろうか」


劉備は、諸葛亮の進言を退け、戦うことではなく、逃げることを選んだ。それは、戦略的には愚かとも言える選択かもしれない。しかし、彼にとっては、義を守り、民を守るために、己の命運を賭して下した、ただ一つの道だった。


彼はわずかな兵と、彼を慕う民と共に、荊州の地を後にした。その逃亡は、敗走という言葉だけでは片づけられない、苦渋と覚悟に満ちた旅路の始まりだった。


父が南征を始めるという報を聞いた時、私は父の眼差しに、ただならぬ決意の光を見た。それは、皇帝との、そして劉備との、長きにわたる心理戦の終結を告げる合図だった。


私は父を尊敬している。天下の乱を治め、民を安んじようとするその志は、誰よりも深く、そして誰よりも強い。しかし、父の心には、時に息子である私さえも近づけぬ、底知れぬ孤独がある。


父は今や天下の権力者でありながら、未だに「漢の忠臣」という仮面を脱ごうとしない。それは、父が真に天下を治めるための方便であると、私は理解している。だが、その仮面の下にある、皇帝との歪んだ対話や、劉備との危険な駆け引きを間近で見ていると、父の背負うものの重さに、息苦しさを覚えることもあった。


私の役目は、父の盾となることだ。父の野望を成就させ、この乱世を終わらせるために、私は命を懸けて父を守らねばならない。


弟の曹丕は、冷徹な目で政務を取り仕切っていると聞いた。彼は父の能力を最も近くで学び、父のようになろうと必死にもがいている。そして文才に溢れた曹植は、その才能ゆえに多くの人々に愛されている。


皆、それぞれのやり方で、父の夢を支えようとしているのだ…


私には、彼らのように華やかな才も、緻密な計算もない。私にできるのは、ただひたすらに、父の命令に従い、その剣となって戦うことだけだ。


父の夢は、私の夢でもある。父が築く新たな世を、この目で見ることはできるだろうか。その問いは、答えのないまま、私の胸の奥底に沈んでいった。


曹丕は後継者として曹操の代理として政務を取り仕切っていた。


父が南征に発ち、私が政務を取り仕切るようになって、初めて父の孤独の深さを知った。それは、天下のすべてを掌に収めながら、誰にも心を許さぬ者の孤独だ。そして私は、その孤独を、父から受け継がねばならないのだと悟った。


父は、私に常に冷たかった。いや、冷たいわけではない。ただ、その眼差しは、常に天下の行く末、そして兄の背中を見ていた。兄・曹昂は、父の夢を誰よりも純粋に信じ、その命を懸けて父を守ろうとした。そして弟・曹植は、詩歌に秀で、その才は多くの者から愛された。父は、その二人に惜しみない愛情を注いだ。私には、あの二人とは異なる道が用意されていた。


私は知っている。父は、私を評価している。だが、それは、私の才能や人格を評価しているわけではない。私が、父の野心を最も忠実に再現できる、冷徹な器であるからだ。父が『忠臣』という仮面を被る時、私はその仮面の奥にある『本音』を理解し、実行する。父が劉備に義を語る時、私はその言葉の裏にある『権力』を理解する。


私には、彼らのように華やかな才も、武勇もない。そして、父に愛される才もなかった。私にできるのは、ただひたすらに、父の命令を、その真意を読み解き、冷徹に、そして完璧に実行することだけだ。


この冷たい血は、父から受け継いだものだ。この冷たい眼差しこそ、父が私に求めたものなのだ


私は、ただ父の影を追い続けている。しかし、この冷たい血が流れる限り、私は父の成し得なかった天下統一を、この手で成し遂げられるだろう。


それが、私の使命であり、父から課された、ただ一つの道なのだ。

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