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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
天下三分其の二を得る
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第十八回 曹孟徳整軍粛武 劉玄徳三顧茅蘆

劉備は汝南の戦いで敗れて以来、荊州の劉表を頼り、新野という小さな城で束の間の平穏を得ていた。だが、それはただの隠れ蓑に過ぎなかった。己の不甲斐なさを噛み締めながら、劉備は夜ごとに月を見上げていた。


「……また、負けた。何度同じ過ちを繰り返せば、天下に義の道を示せるというのだ」


敗北の苦さ、そして寄る辺なき日々が、彼の心を蝕む。それでも、関羽や張飛、趙雲といった志を同じくする仲間たちがそばにいる。彼らの存在が、劉備の燃え尽きかけた闘志に再び火を灯した。


「この新野は小さな城だが、志は大きい。たとえこの身が砕けようとも、民を苦しめる乱世を終わらせる。必ず、この手で」


彼は静かに決意を固めた。小さな城に集まった僅かな手勢。それこそが、劉備の希望の光だった。彼は、再び曹操と対峙するため、その日を心待ちにするかのように、来るべき戦いに備えていた。


やがて、この知らせは当然のように曹操の耳にも届いた。だが、周囲が「たかが劉備」と笑う中、曹操の表情は厳しかった。


「前にも言ったが、劉備なる者、見かけは忠義の君子、その実は奸詐の小人。この私と何ら変わらぬ、稀代の大梟雄だ!ゆめゆめ油断するでないぞ!」


曹操の言葉には、劉備という男を深く理解し、認めているからこその警戒心がにじみ出ていた。両雄の再戦は、もはや避けられない運命として、静かにその時を待っていた。


曹操配下の諸将には、その評価が理解し難い事だった。幾度も敗走を重ね、流浪の果てに劉表に身を寄せているだけの男に、なぜ丞相はそこまで警戒するのか。彼らの目には、劉備はただの敗軍の将としか映っていなかった。


「丞相、なにゆえ……あの劉備を?」


場の空気を察して口を開いたのは、古くからの盟友、夏侯惇だった。その言葉は諸将の胸中を代弁しており、皆が固唾をのんで曹操の返事を待った。


ふむ、元譲、諸将に代わって聞き及んだか。


曹操は一瞬、静かに目を閉じた。劉備という男の顔が脳裏に浮かぶ。それは、天下を夢見る者だけが持つ、濁りのない澄んだ目だった。


「劉備はわしと同等だ。ただ、奴はわしほど早く天下の策を見定め、行動に移すことができない。違いはそれだけよ。」


曹操は淡々と語り、続けた。


「奴は常に義を掲げ、民の心を引きつける。だが、それこそが劉備の弱点であり、同時に最大の武器なのだ。理想のために道を踏み外せず、時に好機を逃す。しかし、その信念がある限り、奴は決して折れない。何度敗れようと、必ず立ち上がる。その強靭な志こそ、天下を狙う者として、最も警戒すべきものなのだ」


その言葉には、ただの評価に留まらない、唯一無二の好敵手に対する深い敬意が込められていた。諸将は、劉備を単なる敗者と見ていた自身の浅慮を恥じた。彼らは今、初めて真の劉備という男の恐ろしさを知ったのだ。


虎豹騎の編成を進めながらも、曹操の心は遠く荊州の新野にあった。


「劉備……」


彼の名を口にするだけで、曹操の目は鋭く細められた。


「奴は、己の正義を信じている。だが、それは天下の情勢を見誤らせる枷だ。わしは手段を選ばず、速やかに乱世を終わらせる。奴は理想を掲げるゆえ、回り道ばかりを繰り返す」


曹操は自室で静かに地図を広げた。そこに描かれた荊州の一点、新野に指を置く。


「しかし、奴の義には人々が惹きつけられる。その純粋な光は、時にわしの策を狂わせる。…ゆえに、試す必要がある。奴の『義』が、どれほどの覚悟でできているか」


劉備が劉表の命で宛城に侵攻したという知らせは、まさに天の恵みだった。


「元譲!」


曹操は夏侯惇を呼びつけ、命じた。


「お前と于禁、李典を差し向ける。劉備を討ち、わしの軍門に下らせよ。よいか、決して侮るな。奴は、わしと同じ道を歩む者。ただ、一歩遅れて歩いているに過ぎん」


「この新野を、民を、守るために……」


劉備は自らの陣を見渡しながら、苦い顔で呟いた。


「わしは、義を掲げる。だが、義だけでは、この乱世を生き抜くことはできぬのか」


彼は苦悩していた。正面から戦えば、曹操の精鋭に敵うはずがない。だが、卑怯な策は己の志に反する。

そこへ関羽が静かに進み出た。


「兄者、策があるとお聞きしました。それは、どのような?」


劉備は火のついた松明を手に取ると、その炎をじっと見つめる。


「関羽、張飛、そして趙雲よ。わしは、この身を挺してでも、この城にいる民を守りたい。そのためには、時に汚い手を使わねばならないこともある。…わしは、今夜、火を放ち、撤退する」


張飛が激昂して叫んだ。


「兄者、何をおっしゃる!我らが逃げ腰だと、天下に笑われますぞ!」


「よいか、翼徳。この撤退は、単なる逃走ではない。この火は、わが義の炎だ。この炎で、敵を欺き、その心に焼き付く傷を与える。…これは、わしが選んだ、別の形の義だ」


「丞相が何を言おうと、あの劉備ごときに敗れるはずがない!」


博望の地に陣を敷いた夏侯惇は、敵陣から立ち上る炎を見て、歓喜に満ちた表情で叫んだ。


「見たか!たった一度兵を向けただけで、奴は尻尾を巻いて逃げ出した!」


夏侯惇は、追撃を命じようと剣を抜いた。


「お待ちください、将軍!」


冷静な声が響き、李典が前に進み出た。


「敵はなぜ、自らの退路を断つかのように陣に火を放ったのでしょう?退くなら密かに、静かに行うべきです。これは明らかに罠!」


于禁もまた李典に同意し、静かに諫言する。


「李典殿の言う通りかと。この南の道は狭く、伏兵を潜ませるにはうってつけです」


しかし、夏侯惇の耳には届かない。


「臆したか、李典!劉備など、これまでわが軍の塵にも等しい存在だったではないか。于禁、貴様もだ。臆病風に吹かれたか!」


彼は剣を振り上げ、激しく言い放った。


「丞相は奴を認めているかもしれんが、わしは違う!今こそ奴の首級を挙げ、わが武功を天下に示してやる!貴様はそこにいろ、わしが行く!」


夏侯惇は馬を駆けさせ、于禁もまた彼に続いた。


「見事なり、兄者!」


狭い道に伏せていた張飛が、駆け抜ける敵兵の姿を見て叫んだ。


劉備は馬上で静かに、そして鋭く、敵が罠に嵌る瞬間を見定めていた。


「今だ、全軍、かかれ!」


草木の陰から、関羽、張飛、そして趙雲が率いる伏兵が一斉に飛び出し、曹操軍を襲った。


「馬鹿な……!」


夏侯惇は罠だと気づいたが、既に時遅し。道は狭く、兵は混乱し、大将すら身動きが取れない。


李典は深追いをせず、冷静に軍をまとめて撤退した。


「勝ったぞ、兄者!」


張飛が歓声を上げるが、劉備の表情は硬いままだった。


「これで、わしは曹操に、別の顔を見せたことになった。…ここからが、本当の戦いだ」


「夏侯惇将軍が敗北…?」


敗報を聞いた曹操は、怒りの表情を見せず、むしろ満足げに口角を上げた。


「やはりな。奴は、単なる『敗者』ではない。民に背を向けず、そのために自らも策謀を巡らせる。あの義を貫く姿勢は、時に自らを鈍らせるが、その奥には、わしと同じ獣の目が隠されている」

曹操は一人、静かに笑う。


「この敗北は、わしにとって何物にも代えがたい収穫だ。劉備よ、お前は敗れながらも、わしに一勝をもぎ取った。…だが、次はそうはいかないぞ」


彼は自らの指を眺め、その先に宿る野心的な光を見つめた。


「お前という虎は、わしが殺してやろう」


鄴の都で、曹操は自らが築き上げた軍事力の粋を、静かな眼差しで見つめていた。

虎豹騎の編成


「虎豹騎、一万五千。親衛隊として機能させ、指揮は曹純、曹休、曹真に任せる」


曹操の言葉は、まるで鋼のように鋭かった。その号令の下、精鋭中の精鋭たる虎豹騎が編成されていく。彼らは単なる騎兵ではない。曹操が最も信頼する将に率いられ、敵陣を文字通り粉砕する牙となる。


「これで、わが騎馬戦術は盤石となった」


彼は、配下全ての騎兵に鐙を装着させていた。これまでの騎兵が馬上で体を支えるのに苦労していたのに対し、鐙は安定をもたらし、全身の力を込めた槍の一撃、剣の一振り、そして強靭な弓を可能にする。この革新的な技術は、北方の最強軍団をさらに一段階上の存在へと押し上げた。


しかし、曹操の目は、遥か南の地に向けられていた。


「劉備は博望でわしを欺いた。それは、奴が地形と民の心を巧みに利用したからだ。だが、南は違う。南は、水が支配する」


華北の兵にとって、河川の多い江南での戦いは不慣れなものだ。陸上での圧倒的優位が、水上では失われる可能性がある。曹操はそれを熟知していた。


「陸の戦いは、すでにわしが制した。ならば、水の戦いも制するのみ」


彼は鄴の地に巨大な池を築かせ、玄武池と名付けた。そこで兵士たちに水軍の訓練を施し、船上での戦い方を叩き込む。それは、完璧な準備を旨とする曹操の哲学そのものだった。


「典韋、許褚。お前たちが選りすぐった近衛兵団『虎士』をそばに置け。万が一にも、わしを討つ隙など与えん」


近衛兵団を側において身辺を固める一方で、彼は全軍の再編を進めていた。陸の王たる虎豹騎、そして水の戦いを学ぶ水軍。すべては、天下統一という壮大な目標のため。


「劉備よ、お前は地の利を活かす。ならば、わしは地を、そして水を、力と知恵で支配してやろう」


準備は、着々と整いつつあった。



徐庶からの推挙で諸葛亮という人物を紹介された。劉備は心を揺さぶられた。敗戦の苦い記憶が、彼の心に重くのしかかる。この男こそ、己の運命を変える最後の希望かもしれない。劉備は関羽、張飛を連れて、南陽の隆中へ旅立った。


隆中に辿り着いた劉備たちは、静かな草葺きの家に案内された。だが、そこに当の孔明の姿はなかった。


「先生は、ただ今お留守でございます」


家人から告げられた言葉に、張飛は不満をあらわにする。


「わざわざ身を屈して一介の書生に会うためにこの山奥まで来たのだぞ!留守とはどういうことだ!」


劉備は張飛を制すると、静かに言った。


「益徳、言葉を慎め。天下の才を得るには、この程度の苦労は当たり前だ。わしとて、ただの敗軍の将に過ぎぬ。彼に会える保証など、どこにもない」


劉備は丁寧に家人に挨拶を告げると、一通の手紙を託した。


「我が志を、どうかこの手紙でお伝えください」


彼は再び、険しい道を新野へと引き返した。


それから数ヶ月が経ち、季節は冬へと移り変わっていた。冷たい風が吹き、雪が降り積もる中、劉備は再び隆中へ向かう。


「この雪の中、また行くのか?」


張飛は不満げに言った。


「会えぬ者に何度会いにいっても、同じではないか!大義を果たすためには、このような無駄な時間を過ごしている暇などない!」


劉備は黙って首を振った。


「わしは、人の才を尊ぶ。ましてや天下を計るほどの人物だ。彼が留守だったのは、わしの誠意が足りなかったのかもしれぬ。今回こそ、会えるはずだ」


しかし、その願いは再び裏切られた。孔明は、またしても旅に出ており、その家にはいなかった。


そして、春が訪れた。雪解け水が小川となり、木々は芽吹き、鳥がさえずる。劉備は、関羽と張飛を伴い、三度目の訪問に臨んだ。彼の心には、もはや焦燥も不満もなかった。あるのはただ、ひたすらな敬意と、この身の運命を託す覚悟だけだった。


「兄者、今度こそ会えねば、あの家を焼き払ってやりますぞ!」


張飛が冗談めかして言ったが、その目には疲れがにじんでいた。


「益徳、冗談でもそのようなことは言うな。もし、それでも会えなければ、わしは何度でも訪れよう。百年かかろうとも、天下の才をわが友とするまでは、諦めぬ」


劉備の言葉には、揺るぎない覚悟がこもっていた。

ついに、彼らは隆中の草葺きの家に辿り着いた。


「どなた様で?」


「劉備玄徳と申します。先生にお目にかかりたく、三度目の参上でございます」


家人は恐縮しながら答えた。


「先生は、ただ今、お昼寝中でございます」


関羽と張飛は、顔を見合わせた。しかし、劉備は、その言葉を聞いて、ほっと安堵の息をついた。ついに、会える。彼は家人に頼み、静かに孔明の部屋の外で、立ち尽くして待った。


どれほど時間が経っただろうか。やがて、孔明は目を覚まし、劉備たちの姿に気づいた。


「臥龍先生、劉備玄徳です。先生にお目にかかるため、三度参上いたしました」


孔明は、三度も足を運んだ劉備の誠意に、深く心を動かされた。彼は席を改めると、劉備の前に地図を広げた。


「将軍、天下の趨勢は、既に定まっております。曹操は百万の兵を擁し、孫権は三代にわたって江南を治めております。将軍が曹操と直接争うのは、得策ではありません」


孔明は、天下三分の計を説いた。


「まず荊州と益州を治め、強固な基盤を築くのです。そして、天下の情勢を静観し、時が来れば一気に兵を挙げ、中原を統一するのです」


この「天下三分の計」は、劉備の混沌とした未来に、一筋の光明をもたらした。彼の夢が、初めて具体的な形となって示されたのだ。


「先生、どうか、わが軍師となって、天下の義を成す手助けをお願いいたします」


劉備は頭を下げて懇願した。孔明は、その熱意と志に、ついに心を決めた。


「将軍、わたくしはただの山中の隠者。ですが、将軍の志の深さに心打たれました。この孔明、喜んで将軍にお仕えいたします」


こうして、三顧の礼は成就し、劉備に天下をかけた新たな戦いが始まった。

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