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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
天下三分其の二を得る
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第十七回 曹子桓被立世子 曹孟徳新設官府

夜風が静かに吹き抜ける庭園で、曹操は息子の曹丕と差し向かいで酒を酌み交わしていた。月の光が杯に満ちた酒面を揺らめかせ、そのたびに二人の顔に淡い影を落とす。言葉はほとんどなく、ただ重く張り詰めた静寂が、親子を隔てるように横たわっていた。


やがて、その沈黙を破ったのは曹丕だった。彼の声には、抑えきれない焦りと、父の真意を測りかねる不満が混じっていた。


「父上……これほどまでに天下の実権を握りながら、なぜいまだ帝位に就こうとなさらないのですか。漢王朝の権威はすでに地に落ち、民も皆、父上をこそ真の王と見なしている。今こそ、天命が下された時機ではありませぬか。なぜ、いまだに漢の丞相という肩書きに甘んじているのです?」


曹操はただ静かに酒を一口飲み、小さく笑った。その笑みには、問いを投げかける息子の若さへの慈愛と、そして深い諦観が宿っていた。


「子桓よ。お前はまだ、王座というものが持つ真の重荷を理解しておらぬな」


彼は杯を置き、庭の景色に目を向けながら語り始めた。その視線は、遠い過去、そして遥か未来を見通すかのようだった。


「もし私が帝位に就けば、この曹氏の王朝は、私の武力と才覚によって建てられた、新たな王朝となる。それは、漢王朝が劉邦によって築かれたのと何ら変わらぬ。武力で築かれた王朝は、その強さが失われた瞬間に崩壊する。そして、必ず新たな強者が現れ、血の戦いを経て王座を奪い取るのだ。歴史は常にその繰り返しだ。それが、王座に縛られる者の宿命よ」


曹丕は納得がいかない様子で食い下がった。


「しかし、それでは……」


「わかっておる。だからこそ、私は別の道を選んだのだ」


曹操はゆっくりと向き直り、曹丕の目をまっすぐに見つめた。その眼差しは、凍てつく冬の湖のように静かだった。


「私が目指すのは、王座という血で血を洗う標的になることなく、この国の秩序を永続的に保つこと。権威は漢の皇帝に残しておけばよい。我々曹氏が真の権力者であり続け、腐敗した皇帝を操り、この国を実質的に治める。そうすれば、権力闘争の矛先は漢の皇帝に向けられ、我々は王座の檻に縛られることなく、この国の礎を築き続けることができるのだ」


曹操は一呼吸置いて、再び酒を一口含んだ。


「王座は、権力者を縛る檻にすぎぬ。だが、この丞相という立場は、真の権力を縛ることなく自由に振るうことができる。私が目指すのは、王座という血の呪縛から解き放たれた、この国の永続的な礎なのだ。そして、お前はその礎を継ぎ、千年先まで続く曹氏の繁栄を築き上げるのだ」


曹丕は黙って父の言葉を聞いていた。初めて聞く父の真意に、彼の瞳には戸惑いと、そして深い畏敬の念が宿っていた。彼の心にあった帝位を巡る小さな野心は、父が抱く壮大すぎる理想の前に、あまりにも些末なものに思えた。この男は、単なる天下を望む武将ではない。歴史の法則さえも掌で操ろうとしているのだと、曹丕は悟った。


静寂の中、曹丕が父の言葉を反芻していると、曹操は再び盃を手に取り、静かに語り始めた。その声は、夜の帳に溶け込むように穏やかだった。


「子桓よ、お前は私が帝位に就かない理由の一端を知った。だが、私の志はそれだけではない。私は、遠い昔の二人の偉人に、自らの生き様を重ね合わせているのだ」


曹操は庭の池に映る月を眺めながら、穏やかな声で続けた。


「一人は、周の周公旦だ。彼は兄である武王を支え、天下を平定した。しかし、武王が若くして崩御すると、幼い成王を支えるため、自らが実権を握った。誰もが彼が王座を奪うだろうと疑ったが、彼は成王が成人すると潔くすべての権力を返上し、忠臣の鑑として後世に名を残した。私は、この漢王朝を乱世から救い、再び泰平の世を築くにあたって、周公旦のように、王座に縛られぬ真の忠臣として国を立て直すことを志している」


曹丕は驚きに目を見開いた。父が自身を簒奪者ではなく、周公旦のような忠臣に喩えるとは、想像もしていなかった。


「だが、周公旦の志だけでは、天下は乱れたままだ」

曹操はそう言って、再び盃を口にした。


「もう一人は、春秋時代の覇者、斉の桓公だ。彼は『尊王攘夷』という大義を掲げ、周王室の権威を尊重しつつ、武力で天下の諸侯をまとめ上げた。その結果、乱世に秩序をもたらしたのだ。私は、桓公のように、名ばかりの漢の権威を尊重しながらも、武力と才覚をもって天下の秩序を立て直すことを志している」


曹操は静かに立ち上がり、月明かりの下、庭園をゆっくりと歩いた。その背中は、天下を背負う者の重みと、しかし揺るぎない確信に満ちていた。


「周公旦のように王座を求めず、しかし桓公のように実権を握り、この乱世を終わらせる。これが、この曹孟徳の、紛れもない真の志なのだ」


曹丕はただ静かに父の言葉を聞き、深く頭を垂れた。自分の心にあった帝位を巡る小さな野心は、父が抱く壮大すぎる理想の前に、あまりにも些末なものに思えた。父は単なる権力欲に駆られた男ではない。歴史の偉人たちと肩を並べ、新たな時代の秩序を築こうとしているのだと、ようやく理解したのだった。


静寂が戻った庭園で、曹丕は意を決して父に問いかけた。


「……父上は、なぜ、そこまでのお考えを、私に……?」


曹操は目を閉じ、静かに、そして軽く笑った。その笑みは、長年の苦労と、これから始まる新たな道への期待、そして息子への深い愛情が入り混じっていた。

ゆっくりと目を開けた彼の瞳は、夜闇の中にも揺るぎない光を湛えていた。


「子桓よ……お前が、この曹氏の未来を担うべき者だからだ」


その一言に、曹丕は驚きに言葉を詰まらせた。


「私が……? では、兄の子脩兄上はどうなさるのです?」


その言葉を聞いた瞬間、曹操の表情から笑みが消え、一瞬の痛みがよぎった。彼は遠い過去の出来事に思いを馳せるように、そっと目を瞑った。


「子桓よ……お前が、このような重荷を背負うことになったのは、私の非でもある……」


曹操はそう呟くと、再び曹丕の方を向き、まっすぐに見つめた。彼の表情は、哀惜と決意に満ちていた。


「子桓、お前は私の才を受け継ぎ、天下を治める術を知っている。そして何より、お前には、この乱世を終わらせ、新たな時代を築く覚悟がある。その志を継ぐのは、他ならぬお前なのだ」


曹操はそう言って、曹丕の肩にそっと手を置いた。その手は温かく、しかし、これから背負う途方もない重荷を予感させた。曹丕は、帝位を巡る小さな野心から、父の壮大な志、そしてそれに伴う宿命という名の重荷を継ぐ、運命の瞬間に立ち会ったことを悟った。彼は、父の言葉を胸に深く刻み、静かに頷いた。


曹丕が静かに父の言葉を胸に刻むのを見て、曹操は最後に最も重要な言葉を口にした。それは、後継者としての資質を磨くための、父としての戒めだった。


「子桓よ、お前は私の才を受け継いでいる。文学の才、武術の才、そして国を治める才、どれをとっても見事なものだ」


曹操の言葉は、まず息子を認めるところから始まった。しかし、彼の瞳は、次に語る言葉のために真剣な光を帯びていた。


「だが、お前の心には、時として冷たい風が吹く。恩に報いることを忘れ、些細なことで他者を切り捨てる癖がある。天下を治める者は、時には非情でなければならぬ。だが、人々の心を掴み、その上に立ってこそ、真の泰平は訪れる。人の心から離れては、やがて孤立し、民は王を敬うのではなく、ただ恐れるだけになるだろう」


曹丕は黙って耳を傾けた。父が自分を深く見抜いていることに、驚きを隠せないでいた。


「そして、お前は理性よりも、感情が先に出てしまう。個人の好悪で官吏を評価し、私怨で国政を左右してはならぬ。政治とは、海のように広く、すべてのものを飲み込む度量が必要だ。己の心の狭さに囚われれば、やがて大局を見失うことになる」


曹操はそう言って、再び曹丕の肩に手を置いた。その手には、息子を信じる気持ちと、これから直面するであろう苦難を案じる複雑な感情が込められていた。


「お前は、周公旦や桓公、そして私という、歴史上の偉人たちの志を継ぐのだ。だが、彼らとて完璧な人間ではなかった。お前は、我々の偉大な点だけでなく、その欠点をも乗り越えねばならぬ。この曹氏の、そしてこの国の未来は、すべてお前の度量にかかっているのだ」


曹操はそう言って、静かに庭を歩き出した。曹丕は、父の言葉を胸に刻み、初めて自身の内なる弱さと向き合った。それは、帝位を争うことよりも遥かに重く、そして深遠な戦いだった。彼は父の背中を見つめながら、これから背負うことになる運命の重みを、静かに受け止めたのだった。


翌日、私の執務室に集まったのは、法治国家への転換を議論した時と同じ顔ぶれだった。荀彧、荀攸、程昱、賈詡、毛玠、崔琰、そして劉曄、董昭、蒋済。彼らの前には、私が夜を徹して練り上げた、新たな国家の青写真が置かれていた。


私は皆を見渡し、静かに告げた。


「皆の者。これまで、我々は言葉で理念を語ってきた。だが、絵に描いた餅では民を救えぬ。今から、その理念を形にする、具体的な『法治国家の草案』について議論したい」


私の言葉に、皆の表情が引き締まった。


私は、草案の第一項目を指し示した。


「国を永続させるには、王座から政治の実権を取り去ることが不可欠だ。ゆえに、この国では『君臨すれども統治せず』という原則を立てる。君主は国家の元首として、国民統合の象徴となる。儀礼的な役割を担い、権力は議会と内務機関に委ねるのだ」


私の言葉に、名家出身の崔琰が困惑した表情を浮かべた。


「曹公、それでは帝位が形骸化するのでは……?」


「その『形骸化』こそが、帝位を千年、二千年と保つための秘策なのだ」と私は答えた。


「そして、その実権を担うのが、再編された三省だ」と、私は続けた。


「中書省と門下省は、法案を立案、審議する『議政機関』として再編する。いわば、中書省は法案を起草する下殿、門下省はそれを審議、承認する上殿といった役割だ。そして、行政実務を担う尚書省は、この議政機関の信任を得て政治を運営する『内務機関』とする。最高責任者である宰相は、君主ではなく議政機関によって選ばれる政務の長となる」


次に、私は旧来の官吏登用制度の改革について語った。


「法と制度を運営するのは、血筋ではなく、真の才能を持つ者でなければならない。そこで、旧来の科挙制度を『官吏登用試験制度』として改める」


私の言葉に、毛玠が強く頷いた。


「学問だけでなく、論文や面談、実技まで多角的な評価を行い、行政を担う優秀な人材を全国から公平に選抜する。これによって、官吏はもはや君主の家臣ではなく、国と民に奉仕する公となるのだ」


荀彧が、私の構想に深く感銘を受けた様子で口を開いた。


「曹公……これこそ、仁政と唯才の論を両立させる、真の治世にございます」


さらに私は、行政の公正さを保つための仕組みを説明した。


「宰相や六部の尚書は、内務機関の一員として行政を率いる。そして、御史台は『監察機関』として政府の不正を監視、告発する役割を担う。これによって、行政の清らかさを維持し、民の信頼を得るのだ」


私の説明が終わると、静寂に包まれていた執務室が、一斉に議論の熱気に満たされた。


程昱が、厳格な法の適用を主張する立場から懸念を述べた。


「この体制では、官吏の力が強くなりすぎ、民が選んだ政治家よりも官吏が政治を主導する『官吏による支配』に陥る可能性があります」


その指摘に、賈詡が静かに続いた。


「法は人の心を縛るもの。そして、権力は常にその隙間を狙う。この体制では、君主、議政機関、内務機関、それぞれが権力を分かち合うゆえに、互いがその権力を奪い合えば、新たな争いの火種となりかねません」


私は、皆の懸念を静かに受け止めた。


「皆の言葉、すべて理にかなっている。この草案は、安定性と公正性、そして効率性を兼ね備えた、これまでにない独自の複合的な体制だ。しかし、この壮大な構想には、常に権力の分かち合いという根本的な課題が付きまとう」


私は立ち上がり、窓の外の青空を見上げた。


「だが、だからこそ、我々が知恵を絞り、議論を重ねる意味があるのだ。これらは、武力によって成し遂げる戦ではない。それは、法と秩序を打ち立て、すべての人々が安んじて暮らせる世を創るための、静かなる戦いなのだ」


その言葉は、側近たちの胸に深く響いた。彼らは、この壮大な構想が単なる夢物語ではなく、血と汗によって築き上げるべき現実であることを悟り、決意を新たにした。


熱を帯びた議論から数日後、私は再び側近たちを執務室に招集した。前回の議論で残された、最も根源的な問いに応えるためだ。


「皆の懸念、しかと心に刻んだ。この草案には、もう一つ重要な柱を据える必要がある」


私はそう告げると、草案の第三の柱として、「三つの権力の分かち合い」という考えを示した。


「法は厳格でなければならぬ。だが、その適用が権力者の意のままになっては、それは法治とは呼べぬ。ゆえに、国家の権力を三つに分ける」


私は皆を見渡し、その三つの権力を明確に告げた。


「一つ目は、律を定める力、律法権だ。これは議政機関となった中書省と門下省が担う。二つ目は、法を執行する力、行政権。これは内務機関となった尚書省が担う。そして三つ目は、法を解釈し、公正に裁く力、司法権だ。これは刑部を独立させて担わせる」


私の言葉に、会議室が再びざわめいた。


「刑部を、内務機関からも議政機関からも独立させるのですか…?」


劉曄が驚きを隠せない様子で尋ねた。


「その通りだ」と私は頷いた。


「裁判官は、君主や内務機関の意向に左右されてはならぬ。ただひたすらに、法の精神に基づき判断を下す。この三つの権力が互いに監視し、抑制し合うことで、一つの権力が暴走することを防ぎ、国家の公正さを保つことができるのだ」


程昱は、その話を聞いて深く感銘を受けた様子だった。


「私の求める『厳格な法』とは、権力者によって恣意的に適用されるものではございません。曹公の仰る通り、独立した裁きがなければ、真の法治はあり得ません」


賈詡は、静かに私の言葉を聞いた後、ゆっくりと口を開いた。


「法は人の心を縛るもの。三つの権力は、互いの権力を奪い合う。だが、この仕組みならば、その奪い合いこそが、国家の公正さを保つための動機となる。見事な仕組みにございます」


私は、三つの柱を指し示し、議論を締めくくった。


「私が目指すのは、『象徴としての君主制』、『三つの権力の分かち合い』、そして『才覚を重んじる官吏の仕組み』という三つの柱で成り立つ、強固で永続的な国家だ。これは、血と力で築かれる戦いではなく、知恵と勇気で未来を創造する、静かなる戦いなのだ。この戦いの先にこそ、真の泰平があるのだ」


そう言って、私は重臣たちを執務室の中央に招き、卓上に広げられた『国家機構草案』の全貌を指し示した。


「そして、その理念を形にするのが、それぞれの役割を担うこれらの主要機関だ」


この新体制は、評議院、政務院、法務院を国家の三大柱とし、これらが互いに監視し合うことで、一つの権力の暴走を防ぐ。さらに、各機関の働きを監察院が公正に監視し、国家の清廉を保つ。


評議院

律令を議定し、国の大本を定める律法機関。天下の賢人たちが集い、国家の根幹を成す国是を論じ、万世に渡る泰平の礎を築く。


政務院

万の務めを統べ、国政を司る最高の政務機関。評議院の信任を得て各部署を総括し、定められた律令を執行することで、国の政治を実務面から支える。


法務院

刑罰を定め、すべての争いを公正に裁く他から離れた裁きの機関。いかなる権力者からも干渉を受けず、ただひたすらに法の精神に基づいて判断を下す。


監察院

官吏の不正を糾し、綱紀を粛正する監察機関。君主、議政機関、内務機関、いずれにも属さぬ隔絶した権力を有し、行政の清らかさを保ち、民の信頼を守る。

行政を支える各部署


官務院

全国の有能な人材を官吏登用試験を通じて登用し、その人事に関する評価を司る。才能と功績に応じた公平な評価を行い、官吏の士気を高める。


財理司

国家の財政を一手に司り、民から徴収する租税と、各部署に配分する予算を厳格に管理する。


文典局

国の礼儀を定め、官吏の教育と学術の振興を司る。人材育成と文化の振興を通じて、国家の精神的基盤を築く。


国防院

軍務を統べ、国家の守りを担う。対外的な脅威から国家と国民を守る、武の要。


工政院

大規模な土木事業や、工芸技術の発展を司る。民の生活を豊かにし、国の生産力を向上させる。


巡検司

国内の治安を維持し、法の執行を通じて民の安全を守る。各地を巡回し、犯罪を捜査、捕縛する。


側近たちは、その壮大な構想と、それに賭ける私の覚悟に、改めて畏敬の念を抱いた。彼らは、単なる乱世の英雄に仕えているのではなく、歴史を動かし、新たな時代を築かんとする偉大な指導者と共にいるのだと悟ったのだった。


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