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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
天下三分其の二を得る
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第十六回 君主立憲不得意 法治国家百年計

華北を統一し、内政に力を注ぐ日々、私は子供たちの教育に頭を悩ませていた。長男の曹昂はすでに成人し、次男の曹丕も私の補佐として実務をこなしている。そして曹植は、その文才を花開かせていた。だが、五男の曹彰には困ったものだ。


文を嫌い、武を愛するこの息子は、私が学問を課すと、すぐに不満を口にした。


「父上、わしに経書を読めと申されるが、何の役に立つというのです!」


私はその言葉を聞き、静かに言い返した。


「経書は、天下を治める道理だ。お前が目指す将軍という道にも、必ずや役立つ時が来よう」


だが、彰は私の言葉に耳を傾けようとしなかった。


「わしが目指すは、衛青、霍去病です!書物ばかり読む博士など、なるつもりはありません!」


私は、ただ苦笑するしかなかった。この息子は、私の若い頃にそっくりだ。学問よりも戦場で剣を振るうことを望んだ、あの頃の私自身が、そこにいた。


ある時、私は子供たちを呼び出し、将来の目標を尋ねた。


子脩は、落ち着いた声で答えた。


「父上、わたくしは、父上が目指す天下の泰平に貢献できる武将となりとうございます。常に先頭に立ち、民の安寧を守ることが、長男としての務めかと」


次に、子桓が、私の補佐官らしく、理路整然と語った。


「わたくしは、父上が築かれるこの国の法と秩序を守る礎となりたい。軍事だけでなく、行政をもってこの天下を治めることが、わたくしの役目かと存じます。」


そして、子建は、詩情豊かに言った。


「私は、筆をもって、戦乱の世に疲れた人々の心に安らぎを与えたい。父上の覇業を、後世に美しく伝えることが、私の務めかと存じます」


それぞれの答えに、私は満足げに頷いた。


だが、曹植は迷いなく、そして堂々と、言い放った。


「将軍となり、先陣を切るのみ!信賞必罰を旨とし、功績を上げた者には褒賞を、怠慢な者には罰を与えます!」


その豪胆な言葉に、私は声をあげて大笑した。


この息子は、私に似て、その内に猛々しい虎を飼っている。


笑いながらも、私の心には、この奔放な息子への不安と、それを遥かに上回る期待が満ちていた。将軍は、ただ強くあるだけでは務まらぬ。規律を重んじ、冷静な判断を下すこともまた、重要だ。だが、この息子ならば、それを乗り越えられると信じていた。


その予感は、すぐに現実となった。代郡で、烏桓が反乱を起こしたのだ。私は、その予感を胸に、迷うことなく曹彰を北中郎将・行驍騎将軍に任じ、田豫と共に討伐を命じた。


曹彰が出発する日の朝、彼を兄たちが囲んでいた。


「子文よ、行ってまいれ。お前ならば、必ずや勝利を掴むであろう」


長兄の曹昂は、力強く彼の肩を叩いた。その言葉に、私は安堵を覚えた。昂は、ただ強いだけでなく、弟を思いやる心を持っている。


次兄である曹丕は、落ち着いた声で彼に忠告した。


「子文、戦功を焦り、独断専行に走るな。将軍としての道は、規律を重んじ、冷静な判断を下すことだ。もし手本とするなら、叔父上である曹仁殿をお手本とせよ。武勇だけでなく、守りを固めることの重要性を学んでほしい」


子文は、少し不満げな顔をしながらも、兄の言葉に静かに頷いた。


すぐ下の弟である子建は、兄の腕を掴み、涙ぐんだ。


「兄上、どうか無事で!戦の場にあっても、決して人としての心を失わないでください。あなたの武勇が、血で染まらぬことを願います…」


子文は、そんな子建の頭を優しく撫でた。


「心配するな、子建。必ずや、勝利を掴んで戻る」


私は、彼らのやり取りを静かに見つめていた。それぞれの兄の思いが、彼の心に届いていることを願う。私は、彼の背中を見送った。


行ってこい、子文。お前が、武だけでなく、将軍としての真の器を身につけ、私を安心させてくれると信じているぞ…


曹彰が代郡へ出発することが決まった夜、私は執務室で筆を執っていた。この夜を逃せば、書簡を送る機会はないだろう。


(私の息子としてではなく、一将軍として扱うように…)


書簡には、今回の任務の重要性、そして若き曹彰に対する期待と同時に、厳格な規律を遵守させるよう、田豫に求める言葉を記した。


「田豫よ、この度の討伐、そなたに託したいことがある。

曹彰は、我が子ながら、武を愛するあまり、時に規律を軽んじがちだ。ゆえに、この任務において、決して私情を挟むことなく、彼を私の息子としてではなく、一将軍として扱ってほしい。

もし、彼が規律を破り、独断専行に走ったならば、功を焦る彼の心を諌め、その行いを正せ。決して容赦してはならぬ。

信賞必罰を旨とし、あくまで公正に彼を評価するのだ」


私は筆を置いた。これはただの命令書ではない。息子を信じる親の情と、国家を導く為政者の厳格な哲学。その両方を込めた、私自身の誓いだ。


私は、書簡を信頼できる使者に託し、田豫のもとへ急ぐよう命じた。


翌朝、私は息子曹彰を静かに見送った。彼は、まだ知らぬだろう。遠く離れた戦場で、彼を待つ厳格な試練を。


私は、側近の中でも特に頭脳明晰な者たちを、私の執務室に招集した。荀彧、荀攸、程昱、賈詡、毛玠、董昭、劉曄、崔琰、そして蒋済。彼らの顔ぶれは、まるで、新しい時代の国家の礎となる知恵を集めたかのようだった。


私は、彼らの顔を一人ひとり見渡し、静かに会議の目的を告げた。


「皆の者。これまで、我々は武力で天下を獲ってきた。だが、真の泰平は、武力では築けぬ。これからは、法と制度をもって国を治める時だ。今こそ、法治国家への転換について、皆の考えを聞かせてほしい」


荀彧が、まず口を開いた。


「曹公のお考え、天命にございます。法は厳格であるべきですが、それだけでは人心は離れてしまいます。民の心に寄り添う仁政もまた、必要かと存じます。法と仁を両立させることこそ、真の治世にございます。」

毛玠は、荀彧の言葉に頷き、別の側面から語った。

「乱世においては、血筋や身分は無意味でございます。才能ある者を登用する唯才論こそが、この国の活力を生み出します。法は、その才能を見出すための、公正な基準となるべきです」


彼の言葉に、名家出身の崔琰が口を挟んだ。


「毛玠殿のお考えは、まことに正しい。しかし、旧来の秩序を重んじる者たちからの反発もまた、無視できぬでしょう。法を定める前に、彼らの心を読むことも、また必要かと存じます」


程昱は、崔琰の言葉に反論するように、厳格な法の適用を主張した。


「乱世の民は、放縦に慣れております。厳格な法のみが、秩序を保つことができます。民を厳しく律し、犯罪を犯した者は容赦なく罰するべきです」


皆の意見が飛び交う中、いつも通り寡黙な賈詡に、私の視線が向かった。


「文和、そなたはどう思う?」


賈詡は、静かに言った。


「法は、人の心を縛るもの。だが、人の心は、常にその裏をかこうとします。法を定める前に、人の心を読むべきかと」


彼の言葉は、いつものように短く、そして、本質を突いていた。


劉曄は、より実践的な観点から意見を述べた。


「法を定めるだけでなく、それを効率的に運用する仕組みも重要です。戸籍や税制など、新たな制度を導入し、国の管理をより厳密にすべきかと」


私は、それぞれの言葉に耳を傾け、心の中で彼らの知恵を統合していった。


法は、厳格でなければならない。だが、人の心もまた重要だ。そして、その法を運用するのは、血筋ではなく、真の才能を持つ者でなければならない。


私は、議論をまとめ、会議の結論を告げた。


「皆の意見、しかと心に刻んだ。我々は、法と仁、厳しさと寛容さ、そして才能をもって、この国を治める。この会議は、法治国家への転換を決定する、最初の一歩だ」


彼らの知恵と才能は、この新しい国家を築くための、かけがえのない宝だった。これから始まるのは、血を流す戦ではない。


法治国家への転換について議論を交わしたその夜、私は一人、書斎で筆を走らせていた。その時、私の脳裏に、先日見た不思議な夢の光景が蘇った。


それは、遥か二千年先の世か、あるいは夢に見た理想郷か。その世界では、貧しい家の者も、裕福な家の者も、誰もが等しく学ぶ機会を得ていた。その光景は、私に一つの確信を与えた。才能は、血筋や家柄によって決まるものではない。教育によって育まれるものなのだ。


私は、現在の時代がいかに教育が行き届いていないかを再認識した。このままでは、私が目指す法治国家を担う、公正で優秀な人材など、到底集まらないだろう。


翌日、私は再び側近たちを集めた。


「皆の者。私は、この国に学校を建てようと思う」

私の言葉に、会議室は静まり返った。荀彧が戸惑いの表情で口を開く。


「曹公、学校とは…いかなるものでございましょうか?」


「私が目指す法治国家には、法を学び、天下を治めることができる公正な人材が不可欠だ。だが、その才能は、特定の家系にしか宿らぬものではない。貧しい家の者でも、戦場で功を立てた兵士でも、学ぶ機会さえあれば優れた官僚となりうる。この地の人間は皆、天から与えられた可能性を持っている。その機会を与えるための場所が、学校だ」


私の言葉に、毛玠が力強く頷いた。


「曹公のお考え、まことに理にかなっております!これこそ、血筋ではなく才能を重んじる、真の唯才論にございます!」


一方、名家出身の崔琰は複雑な表情を浮かべていたが、私は彼の懸念を打ち消すように毅然として言った。


「崔琰よ、そなたの懸念も理解できる。だが、私が望むのは、古い秩序を壊すことではない。むしろ、儒学が説く『天命』や『理』を、より多くの民に広めることだ。学びとは、特定の身分に独占されるべきものではない。天下を治めるための道は、すべての民に開かれるべきなのだ」


荀彧は、私の言葉に深く感銘を受け、静かに頭を垂れた。


「曹公…これは、百年の計にございます。この学校こそが、この国の未来を築く礎となるでしょう」

私は、学校の設立を正式に命じた。


これから始まるのは、武力による戦いではない。それは、教育という名の武器で、この国の未来を切り開く、静かなる戦いだった。


北方が安定し、私は許昌の宮殿へ赴いた。宮殿の奥、玉座には、この国の皇帝、献帝が静かに座っていた。その表情は、疲弊し、覇気を失っている。玉座は、もはやこの国の最高権力者の象徴ではなく、ただの空虚な偶像と化していた。


私は、皇帝に深く頭を垂れた。しかし、その態度は、もはや単なる臣下のものではなかった。それは、この国の未来を背負う、もう一人の支配者のものだった。


「陛下。このたび、華北を平定し、袁紹の残党をすべて討ち果たしました。長年の戦乱は終わり、民は安んじております」


私の報告に、皇帝は力なく頷いた。


「…卿の功績は、まことに偉大だ」


私は、本題に入った。


「陛下。私は、この国のあり方を根本から変えるべきだと考えております。これまで、この国は、個人の徳や才覚に依存してきました。しかし、それでは、天下は再び乱れるでしょう」


私は、自らの理想である法治国家について語った。


「陛下は、この国の象徴として、玉座にいてくださればよいのです。しかし、政治は、もはや私情や血筋に左右されるべきではありません。法と制度をもって、私が責任を持って執り行います」


私の脳裏には、二千年先の世の記憶が鮮明に蘇っていた。そこでは、君主は象徴であり、政治は民の代表者が担っていた。それは、私が目指す道と酷似していた。


私は、ただの簒奪者ではない。私が為すのは、権力の私物化ではない。この国の永続という、二千年先の世から受け継いだ大義なのだ。


皇帝は、私の言葉を、ただ静かに聞いていた。彼の瞳には、抵抗する力も、理解する気力も残っていない。彼は、ただ、私の強大な力に圧倒されているだけだった。


長い沈黙の後、彼は、静かに答えた。


「…卿に、任せる」


私は、皇帝の許しを得て、朝廷の改革を断行する。私は、皇帝の権威を否定することなく、その象徴としての地位を保たせた。そして、私が目指す法治国家の実現に向けて、静かに動き出した。


これから始まるのは、この国を根底から変える、最も困難で、最も重要な戦いだった。


曹操が「法治国家」への転換を語り終えると、玉座の上の私は、静寂の中、かすかに身震いした。その瞳に宿っていた諦念は、今や、困惑と、そして底知れぬ恐怖へと変わっていた。


「卿の言う法治とは…朕の言葉よりも、法が上にあるというのか?」


私の声は、震えていた。私は、その言葉に、この時代の「常識」という名の檻に、私が囚われていることを悟らされた。私の世界では、天下は皇帝の徳と権威によって治められるものであり、法は皇帝の言葉を補完するものでしかなかったのだ。


「陛下、私は、個人の徳に頼る治世の不安定さを憂いております。歴代の皇帝が、その徳を失うたびに、天下は乱れてきました。私は、個人の才覚や徳に左右されない、永続的な制度を築きたいのです」


曹操が論理で説得しようとすると、私は、さらに声を荒げた。


「しかし!この国は朕の天下、朕の言葉こそが法ではないのか!卿の言うことは、父祖の代から受け継がれてきた道理に反している!」


道理だと?曹操が言う道理とは、名門の権威と、血筋にのみ価値を置く、過去の因習にすぎない。


私は、内心で苦笑した。この時代の常識人ならば、私の言葉を理解できないのは当然だ。二千年先の世では当たり前だった概念が、この時代では、あまりにも奇異に映る。


「陛下、私は、陛下の存在を否定するものではございません。むしろ、陛下をこの国の象徴として、永くその玉座にいていただきたいのです。しかし、政治は、もはや私情や血筋に左右されるべきではありません。それが、この国を永遠に続く泰平に導く唯一の道なのです」


曹操は、私の目を見つめ、静かに、しかし、有無を言わせぬ口調で告げた。私は、その言葉に、ついに抵抗する気力を失ったようだった。私の瞳から、最後の光が消え、再び、無力な諦念の光が宿る。


長い沈黙の後、私は、静かに「…卿に、任せる」とだけ答えた。


私は、曹操の抵抗を乗り越え、法治国家への道を歩み始めた。それは、一人の人間の思想ではなく、二千年先の世から受け継がれた、普遍的な原理に基づいていることを、私は確信していた。


私の理想は、その時代の常識とぶつかり合いながらも、着実に前進していく。それは、この国を、そして私の人生を、根底から変える、静かなる戦いだった。


曹操が去った後も、私は玉座に一人座り続けた。私の耳には、彼の言葉がまだ残っていた。「法治国家」「永続的な制度」「卿に任せる」…。


しかし、彼の言葉が、私の心に希望の光をもたらすことはなかった。むしろ、その言葉の裏に隠された、冷徹な野心に、私は深い絶望を覚えた。


法が、朕の言葉よりも上にあるというのか?それは、朕の権威を、法という名の枷で縛るということではないか…


彼は、私の存在を否定しないと言った。だが、それは、私がこの玉座に座る、無力で生気のない飾り物として生きることを意味していた。彼は、私の徳や才覚を否定し、法という新たな秩序をこの国に持ち込もうとしている。しかし、それは、彼自身の権力を、揺るぎないものにするための、巧妙な策略としか思えなかった。


永続的な制度だと?それは、曹氏の天下を、永遠に続くものにするということだろう…


私の脳裏に、過去の権臣たちの顔が浮かび上がった。董卓、李傕、郭汜…彼らは皆、皇帝を傀儡とし、自らの野望を追求した。曹操もまた、同じ道を歩んでいる。いや、彼は彼らよりもさらに巧妙だ。力で強奪するのではなく、言葉で私の心を縛り、私に自ら従わせようとしている。


彼は、私の父祖の代から受け継がれてきた道理を、時代の遅れたものだと断じた。だが、それは、彼自身の権力を正当化するための、新たな詭弁にすぎない。私は、反論する言葉も、それを打ち破る知恵も、もはや持ち合わせていなかった。私は、ただ、この男の強大な力に飲み込まれ、彼の描く未来を、静かに見つめるしかないのだ。

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