第十五回 曹子桓奪他人妻 曹孟徳唯才是挙
袁紹の死の報が、許昌に戻った私の耳に届いたのは、官渡での勝利から二年余りが経った頃だった。私は静かに杯を手に取り、たった一人、酒を飲んだ。
これでいいのだ。天は、袁紹に、自らの手で自らを滅ぼす時間を与えてくれた。袁紹という巨大な壁は消えた。だが、あの男が遺した怨念は、まだ消えてはいない…名門という呪縛が、あの愚かな息子たちを滅ぼすだろう。
私の予見通り、袁家の内部では、早くも骨肉の争いが始まっていた。長子の袁譚と、寵愛された末子袁尚が、後継者の座を巡って激しく対立している。愚かな兄弟たちよ、自らの手で、父の遺産を食い潰すか…
私の執務室に、一人の側近が早馬で駆け込んできた。
「曹公、袁譚殿が、袁尚殿との戦いに敗れ、窮地に陥っております!救援を求める使者が、今、陣営の外でひれ伏しております!」
私は静かに頷き、使者を中に入れるよう命じた。
使者は、私の前に進み出ると、必死の形相で床に頭を擦りつけた。
「曹公!袁譚様は、曹公を信じ、この窮地を救ってくださると信じております!どうか、袁尚を討つため、我々と手を組んでいただけませぬか…!」
彼の声は、懇願と絶望に震えていた。その瞳には、私を唯一の救世主と見なす、盲目的な光が宿っている。
哀れな男よ。お前は、私を、お前が求める英雄としてしか見ていない。この男の目には、私に手を差し伸べることで、父の遺志を継ぐ正当な後継者として認められる、という愚かな計算が働いている。だが、私はただの道具として彼を利用するだけだ。お前たちが自ら選んだ、滅びの道の手助けをしてやるだけだ。
そう呟いてから、私は慈悲深い君主を演じ、優しい声で語りかけた。
「ご安心くだされ。袁譚殿の窮地、この曹操が必ずや救いましょう。お前たちの父が果たせなかった天下統一の夢、我らが力を合わせ、袁尚を討ち、その夢を叶えるのだ」
私の言葉に、使者は感涙にむせび、嗚咽を漏らした。
私は袁譚と手を組み、袁尚を北へ追いやることに成功した。袁譚は、私が河北に侵攻しないことを信じ、安堵の表情を見せた。
「曹公、心より感謝いたします!これで、父上の無念を晴らせます!」
その無知さこそが、彼の致命的な弱点だった。
この男は、私を、父袁紹と同じく、信じるべき君主だと思っている。だが、我々は同じではない。袁紹は忠言に耳を傾けなかったが、私は違う。お前たちが自ら招いた崩壊を、私は利用するにすぎない。
曹操の力を借りた袁譚は、再び袁尚に戦いを挑み、ついに彼を打ち破った。袁尚は、兄に敗れ、次男の袁熙と共に、異民族である烏桓の元へと逃亡した。
袁家の本拠地である鄴城が陥落した。私は、戦場での激戦を終え、静かに城内へ入った。長年の宿敵を打ち破った達成感はあったが、私の心はすでに、次に目指すべきものへと向かっていた。
この鄴城には、かの「絶世の美女」、甄氏がいると聞く…
私は、噂に名高い袁煕の妻、甄氏を一目見ようと、静かに袁紹の屋敷へと向かった。だが、その入り口に差しかかった時、すでに私の次子、曹丕が、私の兵を連れて乗り込んでいた。
「子桓よ、なぜここにいるのだ?」
私の問いに、子桓は毅然とした表情で答えた。その手には、震える一人の女性が守られるようにして立っていた。噂に違わぬ、息をのむような美しさだ。
「父上、この方が、甄氏にございます。この者をお守りするため、私が参りました」
私の頭の中に、一瞬の空白が生まれた。それは、驚きと、そして息子に先を越されたことへの、抑えきれない怒りだった。
この小僧…!私の考えを読んでいたのか…!いや、それとも、ただの偶然か…?…血は争えぬな。この息子も、私と同じように、欲しいものは手に入れる性格か…
私は、怒りを顔に出さなかった。ただ、静かに甄氏を見つめる。彼女の怯えきった表情の奥に、私は、杜氏を我が妻にした、若き日の自分を見た気がした。時を経て、歴史は繰り返す。いや、それは歴史ではない。私自身の欲望が、息子に受け継がれたのだ。
私の怒りは、やがて苦い笑みに変わった。私は、大きくため息をつき、周囲に聞こえるように、冗談めかして言った。
「……まったく。この戦は、あいつのために戦ったようなものだ…」
私の言葉に、夏侯惇ら古参の将軍たちは、内心で笑っているのがわかった。彼らの言葉が、私の心の奥底に隠された、欲望と、それを抑えきれない自分への葛藤を、すべて見透かしているようだった。
「さすが、曹公と若君だ。親子というものは、不思議なものよな…」
私は、苦笑いを浮かべたまま、甄氏との結婚を許した。それは、親としての度量を見せつけるためであり、そして、私自身が過去に犯した罪を、息子が繰り返すことを認めることでもあった。
この出来事は、私の天下統一という大事業の陰に隠された、人間的な欲望を浮き彫りにした。私は、この息子が、私と同じように、欲しいものは何としてでも手に入れる男であることを再認識した。それは、私自身の分身を見るような、複雑な感情を呼び起こした。
しかし、袁譚の喜びは、一瞬にして絶望へと変わった。用済みとなった袁譚を、私は容赦なく滅ぼしたのだ。
「なぜだ、曹操…!なぜだ…!」
彼の絶叫が空虚な虚空に響く。裏切られたことへの怒りと、自分の愚かさに対する言いようのない絶望が、彼の心を支配していた。彼は、最後まで、私に利用されたことに気づかなかった。
烏桓に逃れた袁尚と袁熙は、互いを支え合うというよりは、最後の抵抗を試みていた。だが、彼らの運命は、すでに決まっていた。
私は袁譚を滅ぼした後、本格的な北伐を開始した。もはや、この地を脅かす者はいない。袁家は、自らの手で滅びの道を歩んだのだ。
華北統一を果たし、内政に力を注ぐ日々。私は、一つの報告書を手に取った。そこには、袁家が滅んだ後、各地に潜伏していた文人や官僚たちの名が記されていた。
その中に、ある男の名があった。
陳琳。
かつて、官渡の戦いを前に、袁紹のために私を激しく罵倒する檄文を書いた男。あの檄文は、まことに見事な筆致だった。だが、父、祖父にまで及ぶ罵詈雑言は、一族の者たちの怒りを買った。その言葉の刃は、私自身の心を切り裂くようだった。
私の執務室に、何人かの将軍が集まってきた。彼らは、陳琳を処罰すべきだと強く主張した。
「曹公!あの男は、我々を、そして貴公のご先祖を、あれほどまでに侮辱しました!生かしておく必要はございません!」
彼らの怒りは、もっともだった。だが、私の心はすでに決まっていた。
つまらぬ私情で、才ある者を失うのは、国家にとって最大の損失だ。
彼は、袁紹のために全力を尽くしただけ。その忠義は称えるべきものだ。そして、あの文才は、私が目指す新しい国家の建設に不可欠なもの。
私は、将軍たちの声に静かに耳を傾け、そして、冷徹な声で告げた。
「陳琳を処罰するのではない。召し出せ」
数日後、陳琳は私の前に引き据えられた。彼の顔は、憔悴しきっていた。彼は処刑されることを覚悟しているのだろう。私の前にひれ伏し、震える声で命乞いをしようとしたが、言葉が出てこないようだった。
私は、彼に語りかけた。
「陳琳よ。お前の檄文は、私を罵倒する文として、まことに見事だった。だが、一つだけ不満がある。なぜ、私だけでなく、私の先祖にまで言及したのだ?」
私の言葉に、陳琳は恐怖で顔を上げることができない。ただ震えるばかりだった。私は、彼の恐怖を取り除くように、優しく語りかけた。
「だが、心配するな。お前の才は、国家に必要だ。過去の因縁など、もはやどうでもいい。私のために、その才を振るってほしい」
陳琳は、私の言葉に顔を上げた。その瞳には、驚きと、そして安堵の涙が浮かんでいた。彼は、震える声で、言葉を絞り出した。
「…この、愚かな私めに…もったいなきお言葉…!この命、何卒…何卒、貴公のためにお役立てください!」
彼は再び深く頭を垂れ、声もなく嗚咽を漏らした。
私は、彼を召し抱えた。それは、私の度量の広さを天下に示すためではない。ただ、才能という宝を、この手で手に入れたかったからだ。
私は、復讐心という感情を、すでに捨て去っていた。私が目指すのは、才能ある者が、身分や過去に囚われることなく、存分に力を発揮できる国家だ。
だが、その頃、私の最も信頼する軍師、郭嘉が病に倒れた。私は、彼の病床へ駆けつけた。ひっそりとした病室は、ひどく冷え込んでいた。彼の顔は、すでに蒼白だった。その手は、まるで氷のように冷たく、か細い息が、辛うじて彼の命を繋いでいた。
「奉孝、頼む、私を置いていかないでくれ。そなたがいなければ、この天下統一は成し遂げられぬのだ」
私の言葉に、郭嘉はか細い声で答えた。
「お見苦しいところを…しかし、曹公…あなたの…あなたの覇業を…最後まで…見届けたかった…」
彼の言葉は途切れ、静かに、永遠の眠りについた。私は、彼の遺言を胸に刻み、悲しみを押し殺して北伐を続行した。彼の存在なくして、この勝利はあり得なかった。
郭嘉の知恵は、彼の死後も私を助けた。烏桓を制圧し、さらに袁尚と袁熙をかくまっていた公孫康を追い詰めた時、ついに決着の時が来た。公孫康は、私を恐れ、両者の首を自ら斬って私に降伏してきたのだ。
公孫康は私の前にひざまずき、震える声で言った。
「曹公、この者たちが、貴殿を悩ませた者たちにございます。どうか、この命だけは…」
私は彼の行動を冷ややかに見つめ、静かに問いかけた。
「ほう、お前が自ら首を斬るとはな。随分と、命が惜しいようだ。」
公孫康は顔を上げ、必死の形相で答えた。
「…彼らをかくまうことは、我が一族を滅ぼすことになります。愚かな袁家の者たちに、命を捧げるわけにはいきませぬ…!」
私は、差し出された首級を見つめた。土と血にまみれたその顔は、もはや生前の面影を失い、虚ろな目が空を見つめていた。
見ろ、袁紹よ。これが、お前が寵愛し、お前が残した愚かな息子たちの末路だ。お前は最後まで、誰を信じ、誰を疑うべきか、分からなかったのだな。
私の目には、もはや戦の終わりを告げる達成感はなかった。ただ、深い虚しさと、そして胸を締め付けるような喪失感が広がっていた。
「だが、私とて同じだ…私は、ただ一人、信じるべき男を、今、失った…」
この勝利は、私一人で勝ち取ったものではない。郭嘉が命と引き換えにくれた、最後の知恵によるものだったのだ。華北統一という、私の長年の夢は達成された。だが、その隣には、友を失った大きな穴が、ぽっかりと空いていた。
華北統一を果たした後の夜。私は、執務室の机に広げた天下の地図を、じっと見つめていた。戦場はもはや私の舞台ではない。
私は、もはや剣を振るう男ではない。私が目指すは、この天下に、二度と袁家のような悲劇が繰り返されない、永続的な秩序を築くことだ。
これから私が為すべきは、この広大な天下を、法と秩序で治めるための完璧な布陣を敷くことだ。
私は、李通を淮汝の地に任じた。その忠義の厚さゆえに、袁紹と劉表の間にあっても、決して動揺することはない。臧覇を青徐の地に、鍾繇を西方の関中に任じた。彼らは、武力だけでは成し得ぬ知略と経験を持っている。
私は、古参の将軍たちだけでなく、息子たちにも、それぞれの役割を与えた。夏侯惇には河南尹を、長子の子脩には軍を率いて袁紹の残党征伐を、そして次子曹丕には五官中郎将として、私の補佐に当たらせた。
「子桓よ、そなたはこれより、私の傍で、この国のすべてを見よ。軍事、行政、そして人材の登用。すべてを学び、将来、この国を背負う者としての資質を磨くのだ。」
私は、すべての配置を終え、広げた地図を眺めた。そこには、私の「不在」を補うための、完璧な防衛網と人材配置が描かれていた。
これでいい。私が直接剣を取らずとも、彼らが、この天下を守り、私の理想を実現してくれるだろう。
私は、剣を置き、筆を握った。私の役割は、「武力で天下を獲る者」から、「未来を築く者」へと完全に変わった。
これから始まるのは、血を流す戦ではない。それは、法と秩序を打ち立て、すべての人々が安んじて暮らせる世を創るための、静かなる戦だった…。




