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官僚、乱世を駆ける  作者: 八月河
奸雄世に問う
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第十回 袁術称帝諸侯討 曹劉連手滅呂布

建安二年、春。宛を攻め落とし、張繍を降伏させた曹操は、ようやく安堵の息をついた。


「これで、この地も安泰か…」


勝利に沸き立つ将兵たちが夜に盛大な宴を催すなか、ただ一人、曹操の心は晴れなかった。


この宛の地で、私は、かつて痛恨の過ちを犯した。

前世の記憶が、まざまざと脳裏に蘇る。この場所で、私は油断し、張繍の叔母に心を奪われた。その隙を突かれ、張繍に反乱を起こされ、多くのものを失った。

長男の昂、甥の安民、そして…我が愛将、典韋…

あの悲劇の記憶が、曹操の脳裏を駆け巡る。


「二度と、同じ過ちは繰り返さぬ」


曹操は決意を固め、静かに酒杯を置いた。


「典韋」


声をかけると、屈強な体躯を持つ典韋が、すぐさまその前に跪いた。


「はっ!」


「お前には、今夜からこの城の兵糧庫を固めさせよ。決して、私の護衛にはつくでない」


「しかし、曹公の身に何かあれば…」


典韋の言葉を、曹操は手で制した。


「良い。これは、命令だ。子脩、お前は典韋を補佐し、後方の補給路を守れ。決して、私の城内に入るでないぞ」


父の意図を測りかねながらも、曹昂は、その厳命に従った。


そして、その夜。歴史の歯車は再び回り始める。史実通り、張繍は反乱を起こしたのだ。


「曹操め、我らを侮りおって!」


激しい喊声が、夜の闇を切り裂く。激しい矢傷を負いながらも、曹操は命からがら宛城を脱出した。

しかし、彼の心に、後悔の念はなかった。


昂も、典韋も、無事だ…


史実では命を落とすはずの二人が、自分の手で危険から遠ざけられた。歴史は、変わったのだ。


「フン…」


曹操は、血の滲む傷口を押さえながら、静かに笑った。


「歴史は、変わるものだ…」


宛城を脱出した後も、兵士たちの過酷な旅は続いていた。


灼熱の太陽が大地を焦がし、乾ききった風が砂埃を巻き上げる。連日の行軍で、兵士たちは皆、喉の渇きに耐えていた。水はすでに底を尽き、口唇はひび割れ、足取りも重く、誰もが一歩を踏み出すごとに絶望を味わっていた。


「水…水はないのか…」


「もう、動けん…」


兵士たちの嘆きが、力なく響く。このままでは、行軍は滞り、士気は地に落ちるだろう。


その時、先頭を進んでいた曹操が馬を止め、振り返った。その顔には、一筋の疲労の色も見えない。


「皆の者!諦めるな!」


曹操の力強い声が、兵士たちの耳に届く。


「この先、山を越えれば、広大な梅林がある!そこは、甘く熟した梅がたわわに実り、皆の喉を潤してくれるだろう!」


「梅…」


その言葉を聞いた瞬間、兵士たちの口の中に、甘酸っぱい梅の味が鮮やかに蘇る。唾液がジュワリと湧き出し、カラカラだった喉がゴクリと鳴った。


それは、偽りの幻だったかもしれない。しかし、その言葉は兵士たちの心に、確かに希望の光を灯した。


「梅林まで、あと少しだ!」


誰かが叫び、再び歩き始めた。足はまだ重い。だが、彼らの目に映るのは、もう目の前の苦痛だけではない。酸っぱい梅の実がたわわに実った、豊かな梅林の幻。


その幻に導かれるように、兵士たちは再び前へと進み始めた。そして、まもなく、彼らの目に飛び込んできたのは、幻ではない、きらめく水源だった。


この故事は、後世に「望梅止渇」として語り継がれることになる。


故郷に戻った曹操は、戦で疲弊した軍の立て直しに乗り出した。だが、現実はあまりに過酷だった。疲弊した兵士たちを養う食糧は底を尽き、空虚な国庫は再建の道を閉ざしている。このままでは、いくら天下に大義を掲げようとも、その足元から崩れ去ることは明らかだった。


他に、道はないのか…


夜通し考え抜いた末、曹操は一つの結論に至った。それは、誰もが口にするのをためらう、非情な決断だった。


「董卓が洛陽を焼き払い、悪逆を尽くした時、私は悟った。この乱世では、古き時代の秩序や儀礼に囚われてはならぬと」


曹操は側近を集め、厳かに命じた。


「私はここに、発丘中郎将と摸金校尉という官職を置く。彼らの任務は、ただ一つ。王侯貴族の墓を掘り、その副葬品を国庫に戻すことだ」


側近たちは息をのんだ。死者の眠りを妨げる行為は、漢の代々続く礼法に反する、禁忌とされていた。しかし、曹操は彼らの動揺を意に介さない。


「その金は、飢える兵士の食糧となり、明日を生きるための軍備となる。国のために、この行為をなすのだ。それゆえ、誰も文句を言えまい」


曹操の言葉は冷徹だった。しかし、彼らが明日を生きるためには、他に道がなかったことも事実だ。


その日より、曹操の命を受けた者たちが「摸金校尉」と称し、各地の王侯の墓を暴き始めた。黄金の副葬品は次々と掘り出され、その莫大な富によって国庫は潤い、軍の再建は急速に進められた。


後世、人々は「漢墓十室九空」と嘆くことになる。だが、その財によって、曹操が乱世の覇者へと駆け上がったこともまた、紛れもない歴史の事実であった。


歴史をなぞるように、寿春に逃れた袁術は、江東を平定した孫策らのおかげで、再び勢力を盛り返していた。


「四世三公の名門、袁家の血を引くのはこの私、袁公路だ!天下の王たる資格は、この私にこそある!」

彼は、その虚栄心に駆られ、ついに皇帝を名乗った。国号を「仲」と定め、玉座に座る袁術の姿は、肥満した体に豪華な衣装をまとっていたが、どこか滑稽で、天下の大義とはかけ離れたものだった。


許昌の曹操は、その知らせを聞き激怒した。


「天下に号令するのは天子をおいて他になし。袁公路め、天子を差し置いて帝位を僭称するとは、大義を無視する不忠者よ!」


配下全てを集め、その対処を談議していた。


「うむ、揃ったな」


「はっ!」


「皆に一つ笑える話をしてやろう!袁術が帝を僭称したぞ!ハハハハッ!かようなマヌケが居るとは知らんだぞ!ハハハッ!」


諸将は黙って聞いているだけで、曹操は続けた。


「袁術を見誤ったは我が過失よ…」


ここで黙っていられなかったのが曹仁である。


「袁術が帝を僭称するのは別に兄貴の過失じゃないだろ?」


夏侯惇が曹仁を窘めた。


「子孝、気をつけよ」


曹操もそれに気づいたが、気にとめなかった。


「元譲、たまには昔に戻っても良いでは無いか!何より儂は気分が良い!ハハハハッ!」


「子孝よ、我が過失とは袁術が底なしの愚か者であった事だ!あの者、一時でも傑物と見たのは誠に我が過失である!」


「「ハハハハッ!」」


「この曹操、畜生を龍鳳に見間違えたのだぞ!これこそ明らかな間違いではないか!のう、皆」


曹操はそう言って、高らかに笑う。諸将もつられて声を揃え、主君の言葉に笑った。


「これで、敵の中で強弱がはっきりしたな!真の強敵は袁紹である!」


曹操はすぐさま呂布や孫策らと手を結び、袁術を包囲した。


袁術は打開を図るため、北の袁紹を頼ろうとした。だが、すでに曹操が放った軍によって、彼の主力は壊滅させられていた。


「天下は、私のものだ!天下は…!」


かつて豪語した言葉も虚しく、豪華な衣装は泥まみれとなり、袁術はわずかな兵を連れて、飢えと渇きに苦しみながら逃げ惑う。


故郷を頼ろうと北へ向かうが、道を阻むのは劉備の軍勢。逃げ場を失い、自らの無力さを悟った袁術は、最期に蜜入りの水を求めたが、その渇きが満たされることはなかった。


天下を我が物とせんとした男の最期は、なんとも皮肉なものであった。


史実の通り、建安三年、曹操は徐州へと兵を進めた。彭城を落とすも、下邳に籠城した呂布は、その無双の武力で城を堅固に守り、戦況は膠着状態に陥った。曹操軍の兵士たちは日ごとに疲弊し、冬の厳しい寒さも相まって、将兵の間からは撤退の声が上がり始めた。


「このままでは、攻め落とすどころか、我が軍の精鋭を失うことになりかねませぬ」


曹操は軍議で、部下の言葉に耳を傾けていた。その時、荀攸と郭嘉が進み出て、声を揃えて進言した。


「下邳を落とすには、水攻めしか道はございません」


曹操の命を受けた兵士たちは、泗水と沂水という二つの川の水を下邳城へと引き込んだ。城はみるみるうちに水に沈み、兵士たちは飢えと寒さ、そして水の中で絶望の淵に突き落とされた。


一方、城内でも状況は最悪だった。水は食糧を奪い、寒さは兵士の命を蝕んでいく。


「もはやこれまで…」


呂布の部下である侯成、宋憲、魏続は、この絶望的な状況に耐えきれず、ついに裏切りを決意した。彼らは陳宮らを捕らえ、その首を持って曹操に投降した。


縄でがんじがらめにされ、曹操の前に引き出された呂布の顔に、かつての天下無双の猛将の面影はなかった。その顔には、傲慢さと、どうしようもない惨めさが混じり合っていた。


「縛り方がきつすぎる。少し緩めてくれぬか」


呂布がそう訴えると、曹操は冷徹な眼差しで答えた。


「虎を縛るのにきつくせぬわけにはいかぬ」


その言葉に、呂布は一瞬黙った。だが、彼は諦めなかった。


「貴殿の悩みの種はこの俺だけのはず。この俺を配下に加えれば、天下は定まったも同然。貴殿が歩兵の指揮を執り、俺が騎兵の指揮を執れば、天下の平定など簡単なことであろう」


曹操の顔に、わずかな動揺が見えた。


呂布の武勇は、確かに天下無双。その力を手に入れれば、天下統一の道は一気に開ける…


曹操の脳裏に、その計り知れない才能がよぎった。


その時、劉備が傍らから一歩進み出た。


「呂布が過去に丁原、董卓を裏切ったこと、お忘れなきよう」


劉備の言葉は、まるで冷たい水を浴びせられたかのように、曹操の心を覚醒させた。そうだ、この男は何度も主を裏切ってきた。どんなに優れた才能でも、忠義を持たぬ者に未来はない。


「この大耳野郎こそが一番信用ならんのだ!」


呂布は劉備を指差し、怒りに燃えて叫んだ。しかし、もはや時すでに遅し。曹操は静かに頷き、呂布の処刑を命じた。


「呂布め、裏切りを重ねた愚か者よ。陳宮よ、お前の才は惜しい。私に仕えぬか」


だが、陳宮は静かに首を振った。


「天下に忠義を尽くせぬお前などに、仕えるわけにはいかぬ」


「そうか、ならばお前の父母妻子はどうするのだ?」


「ふっ、お前ならば我が父母に孝を尽くし、妻子を養ってくれるであろう」


「ふむ、まさにその通りだ」


「ならば、孟徳よ…早く逝せてくれ」


そう言って、彼は潔く首を差し出した。


こうして、天下無双の呂布と、その忠義の臣である陳宮は、同じ日にこの世を去った。彼らの首は許に送られ、晒し首にされたが、後に埋葬されたという。


呂布と陳宮の首がはねられた後も、下邳城には重い空気が満ちていた。


その場に、新たな囚人が引き出されてきた。呂布の配下であった、武将張遼である。彼は縄に縛られながらも、まっすぐに曹操を見据えていた。その目には、敗者の悲哀も、命乞いの卑屈さもなかった。


「この度は、貴様を殺せなかった事が残念でならぬ!」


呂布が命乞いをしたのとは対照的に、張遼は勝ち誇った覇者に向かって堂々と罵声を浴びせた。そして、自ら頸を伸ばし、処刑を促す。その姿は、忠義を貫く誠の武士そのものだった。


「この無礼者め!直ちに首をはねよ!」


張遼の態度に激怒した曹操は、剣の柄に手をかけた。その瞬間、一歩前に進み出たのは、傍らに控えていた劉備だった。


「曹公、何卒お待ちくだされ。このような誠の武士こそ、取り立てて然るべきではございませんか」


劉備の言葉は、冷徹な曹操の心に響いた。だが、さらに強く助命を懇願する者がいた。それは、劉備の義弟である関羽である。


「拙者、文遠殿の忠義をよく知る者。もし彼が裏切るようなことがあれば、この関某が命を懸けてお引き受け致します。何卒、ご助命を!」


関羽の熱意に、曹操は驚きを隠せなかった。そして、彼は剣から手を離し、張遼に向かって声を上げた。


「ハハハ!戯れてみただけだ」


曹操はそう言って、自らの戦袍を脱ぎ、それを張遼の肩にかけた。


その温もりに、張遼はすべての抵抗を捨て、心からの降伏を決意した。自分を真っ向から敵と見なす者、その命を助けようとする者、そしてその命を懸けてまで助けを乞う者。この三人の器量に触れた張遼は、心からの降伏を決意した。


「この命、曹公にお預け致します」


呂布という「裏切り者」を処刑した曹操は、その代わりに、張遼という比類なき忠義の武将を得たのである。


呂布と陳宮が処刑された後、曹操の前に、一人の将軍が引き出された。呂布の配下であり、忠義の将として知られる高順である。彼は縛られたまま、静かに曹操を見据えていた。その目には、敗北の悔しさも、命乞いの卑屈さもなく、ただ一点の曇りもない忠義の光が宿っていた。


曹操は彼の扱いに困惑していた。


この男を殺すには、あまりにも惜しい…だが、生かせば、諸将の不満が噴出しかねん


その時、曹操の傍らに控えていた郭嘉が進み出て、静かに口を開いた。


「高順は、呂布軍にあって厳格な軍事統治と卓越した戦略的思考を備えた、この世で稀有な武将でございます」


曹操は深く頷いた。郭嘉の言葉に偽りはない。


「しかし、もし彼を配下に収めたとしても、今この乱世では彼に相応しい官職を与えることは叶いませぬ。このような人物が公に認められた場合、他の諸将はどう思うでしょうか? 寧ろ、ここで彼の名節を全うさせた方が、曹公の天下を揺るぎないものにするでしょう」


郭嘉の冷徹な進言は、最も合理的であり、理に適っていた。曹操は納得し、処刑の言葉を口にしようとした、その時だった。


「父上、お待ちください!」


その声に、曹操は振り返った。前に進み出たのは、長子の曹昂であった。


「高順殿の武勇と忠義は、父上の天下統一に必ずや必要となります。彼の才をこのまま失うことは、父上にとっても大きな損失です!」


曹昂は、父の制止も聞かずに、高順の前に進み出て、その場に深く頭を垂れた。


「高順殿、どうか命を助けてはいただけませんか。この昂の配下となり、共に父上の天下統一に力を貸してはいただけませんか。あなたの忠義は、父上もお認めになっています。どうか、あなたの忠義を私に、いえ、父上に尽くしてはいただけませんか!」


その必死な訴えに、高順は静かに目を閉じた。かつての主を失い、死を覚悟したはずの男の心に、曹昂の言葉は深く染み入った。


高順は、静かに顔を上げ、曹昂の真摯な目を見つめた。そして、無言で首を垂れた。それは、新たな主への忠誠を誓う、武士の心からの降伏であった。


曹操は、その光景を静かに見つめていた。郭嘉の合理的な判断を上回る、長子の命懸けの決断。その若く誠実な心が高順を動かしたことに、曹操は深い安堵と誇りを感じたのだった。


彼は自らの手で歴史を変えただけでなく、息子が示した新たな道によって、さらなる未来が拓かれることを知ったのだった。

高順に関しては依怙贔屓です!お許しください!

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