第一回 冤罪失職辞人世 能臣奸雄為一体
北門都尉、曹操。その名が、後に天下を揺るがす乱世の梟雄と呼ばれることを、この時の彼は知る由もない。あるいは、知っていても、そんな未来を笑い飛ばしたかもしれない。なぜなら、彼の内に宿る魂は、つい先日まで「平和な」現代日本で、理不尽に全てを奪われ、絶望の淵に沈んでいた一人の官僚のものだったからだ。
意識が浮上する感覚は、まるで泥濘から這い上がるような重苦しいものだった。全身を縛るような倦怠感、そして何よりも、胸の奥底から湧き上がる言いようのない空虚感。それは、現代で体験したあの悪夢のような日々、そして自ら幕を引こうとした瞬間の記憶と酷似していた。
「……また、夢か」
掠れた声が喉から漏れる。薄く目を開くと、視界に飛び込んできたのは見慣れない木製の天井だった。質素ながらも重厚な造り。現代のアパートの白い天井とはあまりにもかけ離れている。
ぼんやりとした頭で体を起こそうとするが、慣れない筋肉の感覚に戸惑う。妙にがっしりとした体躯。そして、手が触れた肌は、これまで見慣れた自分のものとは違う、鍛えられた男の感触だった。
ふと、枕元に置かれた銅鏡が目に入った。震える手でそれを引き寄せ、自身の顔を映す。
そこにいたのは、自分ではなかった。
精悍な顎のライン、鋭い眼光、そしてどこか自信に満ちた表情。見たこともない、しかし妙に馴染む顔。
「……曹操、だと?」
脳裏に、かつて夢中になった歴史シミュレーションゲームのキャラクターグラフィックがよぎる。まさか。そんな馬鹿な。
混乱する意識の片隅で、断片的な記憶が蘇る。
冤罪。身に覚えのない罪を着せられ、築き上げてきたキャリアも、信頼していた人間関係も、家族との平穏な日常も、すべてが泡のように消え去った。抗弁も虚しく、冷たい壁に囲まれた独房で、彼は自らの存在意義を見失った。そして、全てに絶望し、自らの手で終わりを選んだはずだった。
「……死んだはず、だよな?」
全身を冷たい汗が伝う。しかし、目の前の現実はあまりにも生々しい。自身の胸に手を当てる。確かに鼓動している。生きている。
そして、脳裏に刻み込まれたかのように、この体の名前と身分が明確に響く。
「北門都尉、曹操。……洛陽の治安を守る、都の門番か」
絶望の果てに飛び込んだはずが、たどり着いたのは、血と硝煙の匂いが充満する乱世の入り口。皮肉なものだ。
現代での彼は、楽観的ではあったが、常に現実を直視する合理主義者であり、非効率を嫌う官僚だった。冤罪に苦しむまでは、法と秩序を信じ、それを守ることに尽力してきた。
しかし、その「法」が彼を陥れ、「秩序」が彼を見捨てた。
冷え切った自嘲が口元に浮かぶ。
もう、失うものは何もない。
ならば、この与えられた二度目の生、この「曹操」という器を使って、何を成し遂げるべきか。洛陽の北門都尉という、まだ小さな権限しかない立場。だが、ここからならば、腐敗しきった漢王朝の現実を、最も肌で感じ取れるはずだ。
かつての自分が信じた正義は、簡単に捻じ曲げられた。だが、この乱世でなら、あるいは。
彼の心に、諦めと希望がないまぜになった、奇妙な静けさが訪れた。
書くべきこと…やるべきこと…
現代日本の官僚だった彼が転生したこの曹操という人物は、史実では若くして機知と権謀に富む一方、品行方正とは言えず、世間では「放蕩者」として芳しい評判はなかったという。転生者の目から見ても、鏡に映るこの顔は確かに生真面目な官僚からは程遠い、粗野だが底知れない野心を宿した男の顔だった。かつて袁紹と花嫁泥棒を行ったなどという、にわかには信じがたい逸話まであるという。この体の持ち主の過去の行動が、果たしてどこまで真実なのか、あるいは虚飾に満ちた世評の産物なのか、転生者には知る由もなかった。だが、その奔放な過去が、現代の官僚の常識とはかけ離れた自由な発想を可能にする器だとすれば、これほど面白い舞台装置もないだろう。
しかし、そんな世間の評とは裏腹に、曹操を高く評価する者もいたという。特に、本貫である譙県の近くに住む橋玄は、「天下はまさに乱れようとしている。天命の持ち主でなければ救うことは出来ない。それを収めるのは君である」とまで絶賛したという話が残る。さらに、人物鑑定で名高い何顒も「天下を安んずるものはこの人である」と評した。彼らの言葉は、転生者の知る史実の曹操の偉大さと奇妙な符合を見せる。彼らは、単なる放蕩者の裏に隠された、この男の真の器を見抜いていたのだろうか。
そして、極めつけは、橋玄の勧めにより赴いた人物評価の大家、許劭からの評だった。
「あなたは平時は治世の能臣、乱世にあれば奸雄だ」
その言葉が、まるで遠い過去の残響のように、転生者の意識に響いた。「乱世の奸雄」。まさに、後に彼が天下に轟かせることになる悪名そのものだ。現代で清廉な官僚として生きてきた自分には想像もつかないような称号。しかし、同時に、冤罪で全てを奪われた彼にとって、それはある種の「解脱」を意味した。正義や倫理に囚われず、ただ目的のために突き進む「奸雄」としての生き方。それは、彼が現代で直面した理不尽に対する、最も有効な対抗手段となるかもしれない。郷里でその名を知られるようになり、熹平三年、二十歳の時に孝廉に推挙され、郎として洛陽へと上った。そして、与えられた職務こそが、この北門都尉であった。
与えられた職務は、洛陽北部の治安維持。転生者である彼は、自身の胸の内で、現代の官僚としての合理性と、冤罪によって培われたリアリズムをフル稼働させていた。冤罪で全てを失った過去は、彼に「理不尽」への強い憎悪を植え付けていた。法が、秩序が、いかに簡単に歪められるかを知っている。だからこそ、この乱世でこそ、揺るぎない「法」と「秩序」を築かなければならない、という強烈な使命感が湧き上がっていた。
「法とは、万人に等しく適用されてこそ意味がある」
それが、彼の官僚としての信条であり、現代社会で失われた彼の「正義」だった。もはや、名誉や保身は彼にとっての優先事項ではなかった。一度死んだ身。ならば、この命を使い、何を変えられるか。その一点だけが、彼を突き動かす原動力となっていた。
着任早々、彼は北門に巨大な十数本の五色棒を立てさせた。その威圧的な佇まいは、それ自体が法を守ることの厳しさを物語っていた。そして、その棒の前に立て札を設置する。
「夜間通行禁止。違反者は棒で叩く。貴人・宦官も例外なく処罰する」
周囲の役人たちは呆れ顔だった。これまでの北門都尉は、貴人や宦官には目をつむるのが常だったからだ。特に、皇帝に寵愛されている宦官たちは、自らの権力を笠に着て、夜間であろうと好き勝手に門を往来していた。そんな彼らを「処罰する」など、正気の沙汰ではない。ましてや、曹操は宦官の養子であるため、宮中の派閥争いにおいては不利な立場にいた。無謀以外の何物でもない。破滅を招きかねない行動だと誰もが眉をひそめた。
しかし、転生者は揺るがなかった。彼の脳裏には、現代で不条理な権力によって捻じ曲げられた「法」の姿が焼き付いている。
この腐敗した社会を根本から変えるには、まずは既得権益の打破が必要だ。それも、誰もが法の下に平等であるという明確なメッセージを、強烈な形で突きつける必要がある。痛みなくして、真の改革などありえない
そして、その夜。
予感通り、霊帝に寵愛されていた宦官蹇碩の叔父が、供を連れて夜間の門を強行突破しようとした。彼らはいつものように、門番を恫喝し、横柄な態度で通行しようとする。転生者は、その傲慢な態度に、現代で自分を陥れた権力者たちの影を見た。怒りが、静かに胸の奥底で燃え上がる。
彼らの前に、北門都尉曹操が立ちはだかった。その眼光は、夜闇の中で鋭く光る。
「禁令を犯すとは、何たる不届き者か!」
怒声が夜の闇に響き渡る。蹇碩の叔父は、まさか自分たちが止められるとは思わず、嘲笑を浮かべた。
「貴様、我らを誰だと思っている! 愚か者が!」
その言葉に、転生した曹操は冷徹な眼差しを向けた。かつて冤罪で全てを失った経験が、彼に「理不尽」に対する絶対的な拒否反応を植え付けていた。権力を笠に着て法を破る者。それは、現代の彼を地獄に突き落とした者たちと何ら変わらない。もはや、彼に躊躇いはなかった。
「身分は問わぬ。法の下では、全ては平等だ」
彼の号令と共に、兵士たちが蹇碩の叔父を取り押さえた。騒ぎを聞きつけ、周囲の兵士やわずかな野次馬が集まってくる。皆が息を呑んで見守る中、曹操は五色棒を手に取り、その場で蹇碩の叔父を容赦なく打ち殺した。その一撃は、腐敗しきった漢王朝の秩序に、風穴を開けるかのようだった。
蹇碩の叔父を門前で打ち殺したという事実は、瞬く間に洛陽中に激震を走らせた。その知らせは、まるで疫病のように、貴族の館から庶民の長屋まで、都の隅々まで行き渡った。誰もが信じられないといった表情で噂し合い、北門都尉・曹操の名は、一躍洛陽中の話題の中心となった。
この事件が最も大きな衝撃を与えたのは、宮中の奥深くに巣食う十常侍たちであった。彼らは皇帝の寵愛を傘に着て絶大な権勢を振るう宦官の巨頭であり、蹇碩はその中でも霊帝の信頼篤い側近の一人だった。その蹇碩の叔父を、曹操が処罰したという報せは、彼らにとって青天の霹靂に他ならなかった。
「まさか、あの曹操が?」
十常侍の一人が、信じられないといった顔で呟いた。彼らの間には、困惑と怒り、そして微かな焦りが渦巻いていた。曹操の養祖父である曹騰は、かつて絶大な権勢を誇った大宦官である。彼らは、その血筋からして曹操が当然自分たちの味方であり、少なくとも自分たちに盾突くことはないと考えていた。彼らにとって、曹操は宮中における数ある傀儡の一つ、あるいは利用可能な手駒に過ぎなかったはずだ。
しかし、その思惑は脆くも崩れ去った。
「あの者は、法を盾に我らに挑むつもりか!」
「なんたる裏切り! 曹騰殿の顔に泥を塗る行いぞ!」
彼らの顔には、侮蔑と激怒が入り混じる。自分たちの身内を処罰されたことへの純粋な怒り、そして、宮中の権力構造の常識を覆されたことへの恐怖が、その感情の根底にあった。彼らが何よりも嫌うのは、自分たちの絶対的な支配に対する挑戦であり、曹操の行動はまさにそれだった。彼らは曹操を排除すべく、水面下での動きを活発化させていく。
一方で、十常侍と対立する清流派の人々も、驚きを隠せずにいた。彼らは、宦官の専横を憎み、漢王朝の立て直しを志す在野の士や官僚たちである。普段ならば宦官の暴挙を批判し、自らの信念を貫くことを是とする彼らだが、今回の件はあまりにも予想外だった。
「あの曹操が、そのような行動に出るとは……」
清流派の重鎮の一人が、目を丸くして息を呑んだ。彼らにとって、曹操は宦官の縁者であるというだけで、警戒すべき対象であり、正直なところ、あまり良い印象は抱いていなかったはずだ。彼の放蕩な世評も相まって、清流派の人間からは軽んじられていたかもしれない。しかし、その彼が、宦官の権威を真っ向から否定する行為に出た。それは、清流派が長年成し遂げられなかった、あるいは、表立って実行に移せなかった所業に他ならない。
戸惑いと、そして僅かな期待が、彼らの心に灯った。
「あの男は、果たして我らの味方となり得るのか? いや、それとも、ただの気まぐれか?」
清流派は、曹操の真意を測りかねた。しかし、確かなことは、彼らが宮中の権力構造に風穴を開けた一撃を、間近で目撃したということだ。この大胆不敵な行動は、清流派の人々の間で、曹操に対する評価を否応なしに再考させるきっかけとなった。彼の行動が、後の彼らの運命を、そして漢王朝の未来を大きく左右することになるとは、この時の誰もが知り得なかった。
この一件により、洛陽の治安は劇的に改善された。貴人であろうと宦官であろうと、北門都尉曹操の前では法が絶対であると知らしめられたからだ。彼の合理的な判断と、一度死を経験した者だけが持つ覚悟が、瞬く間に結果を生み出した。
しかし、宮中の宦官たちは曹操を深く憎悪した。彼らは曹操を排除すべく画策するが、法の禁を犯していない彼に、表立って手出しする理由が見つからない。そこで彼らは、彼を洛陽から遠ざけるために、皮肉にも頓丘令という栄転の形で推挙した。これは、彼にとっての左遷であり、同時に新たな舞台への招待でもあった。
光和元年、霊帝の皇后宋皇后が廃位される事件に連座し、曹操は一度免官となる。しかし、その二年後には再び召し出され、議郎(政教の得失を議論する官)に任ぜられた。彼の有能さは、一時的な逆境をも乗り越える力を持っていた。
転生者である彼は、この出来事一つ一つが、歴史の大きなうねりの中で、曹操という人物が経験する「史実」であると理解していた。最初の小さな一歩が、既に歴史の修正の始まりであることも。現代で得た知識と経験が、彼の行動を導く羅針盤となり、冤罪の苦しみが、彼の意志を鋼のように鍛え上げていた。
頓丘令か……。洛陽を離れるのは、むしろ好都合かもしれない。ここで漢王朝の腐敗を肌で感じ、次の手を打つ準備ができる
彼の胸には、官僚としての合理性と、冤罪で得た冷徹さ、そして乱世を生き抜く「奸雄」としての覚悟が、静かに宿り始めていた。彼はもう、現代のあの「彼」ではない。新たな「曹操」として、この乱世を、自らの手で切り拓いていく。