8 彼女のいない空白の記録、消えた想い
あれから、アスティンとの夕食を共にする時間が増えていった。彼は約束を守る男だった。
一度「夕食後に話す機会を作る」と決めた以上、それを当然のように続けている。彼の意図は単純だった。「話す機会を持つなら、食事の時間がいい」と。それは、彼なりの配慮だったのだろう。
そして今、エヴァルシアはアスティンの自室にいた。
彼は食事を終えた後、自室に戻り、いつものように書類に目を通している。
屋敷の管理、領地の報告、軍の動き、王城とのやりとり。彼の目の前には、膨大な情報が詰まった文書の山があった。
エヴァルシアは、その様子を静かに眺める。
食事の場では、それなりに言葉を交わすようになったが、それでも彼のことを深く知っているとは言えない。
しかし、話せば話すほど、わからないことが増えていく。
彼にとっての「エヴァルシア」とは何だったのか。
どんな時間を過ごし、どんな想いを抱いていたのか。
自分にとっての「彼女」は、この世界の自分であるはずなのに、どこか他人のような気がしてならなかった。そして、そう感じるのはエヴァルシアだけではないのかもしれない。
使用人たちの間でも、彼女の「変化」はひそやかな話題になっていた。直接言葉にされることはないが、目線や態度が微妙に変わったのを感じる。執事をはじめ、屋敷の人間は以前よりも少しだけ気を遣うようになった。
まるで、何かが大きく変わってしまったかのように。
だが、それはエヴァルシアにとっても同じだった。
「エヴァルシア」という存在は、自分にとっても「わからない」ものなのだ。考えることが多すぎた。
エヴァルシアはアスティンと過ごす時間が増えたことで、いくつかの事実を知ることができた。
そのひとつが、公爵家の人々の態度についてだった。
この屋敷に嫁いでからの時間は、今の自分にとっては未知のものばかりだったが、話を聞いていくうちにいくつかの事実が浮かび上がってきた。
アスティンは元々、研究に没頭するあまり、社交の場にはほとんど姿を見せない男だった。
執事によれば、結婚を機に少しずつ変わり始めたという。
結婚前の彼は、公爵家の次期当主としての責務を果たしながらも、どこか浮世離れしていたらしい。
社交の場では最低限の関わりしか持たず、貴族間の交際も積極的にはしなかった。彼にとって「人付き合い」というものは、義務でしかなかったのだろう。
しかし、結婚を機に彼は変わった。
エヴァルシアと共に公の場に出るようになり、周囲と関わる機会が増えていった。
とはいえ、それは彼自身の意思ではなく、エヴァルシアを守るためだった可能性が高い。
公爵家は確かに強大な影響力を持つ家柄だったが、その分敵も多かったようで。
エヴァルシアが公爵夫人となったことで、周囲の視線はより強くなり、彼女自身が標的になりかねない立場になっていたという。
それを避けるため、アスティンは彼女を表に立たせず、できるだけ周囲との関係を最小限に抑えた。
しかし、それが結果的に、彼女を貴族社会から孤立させることに繋がったのではないか。
そんな考えが頭をよぎる。
一方で、エヴァルシア自身の過去についても、いくつかの事実を知ることができた。
エヴァルシアは結婚当初、周囲との交流を必要最低限に抑え、公爵家の人々とも一定の距離を保っていた。
最初は公爵夫人として相応しく迎え入れようと、執事や使用人たちは彼女に馴染んでもらおうと努力していたらしく。
食事の場ではさりげなく話しかけられ、庭園の散策に誘われることもあったようだ。
しかし、彼女はそれらをすべて断っていた。
「私は、ただ静かに過ごせればいいのです」
それが、過去の彼女の言葉だったと執事から聞かされたとき、エヴァルシアは思わず言葉を失った。
彼女がそう言った理由は、誰にも分からなかった。
だが、確かなのは、彼女自身が周囲と関わることを拒んでいたという事実だけ。
確かに、貴族社会には一定の距離感が必要だ。
だが、過度に関わりを避けることは、結果的に「冷たい」と受け取られることもある。それを意図したのか、それとも単に馴染めなかったのか。
今となっては、その答えを知る術はない。
ただひとつ、確かなことがある。
彼女は、この屋敷で「孤独」だった。
彼女のことを知る人間はいても、彼女自身が心を開いた相手は、ほとんどいなかったのではないか。
そしてふたつめは、公爵家の歴史と役割について。
シルヴァティス公爵家は、王国の中でも特に格式の高い貴族の一つであり、王家を支える重要な立場にある家門。
単なる名門貴族ではなく、王家と深く関わる家系であり、政治・軍事・魔力研究といった幅広い分野で影響を持っているという。
その中で特に大きな役割を担っているのが、王族の魔力制御を補佐すること。
王族は生まれながらにして強大な魔力を持つが、その力が暴走する危険性が大きくなるという。
そのため、公爵家の者は代々、王族の魔力を安定させる技術や知識を受け継ぎ、必要に応じて王家の魔力を抑える役目を果たしてきた。
過去には、王族の魔力暴走によって王城の一部が崩壊するという大事件が起きたことがあり。
その際に暴走を鎮めたのが、当時のシルヴァティス公爵であり、彼の功績によって公爵家は「王家の守護者」としての地位を確立することになった。
以来、公爵家は王国の安定に不可欠な存在となり、現在に至るまでその役割を果たし続けている。
そして現在の公爵であるアスティンも、同様に王家と関わる立場にある人。
しかし、彼は王族との関係を必要以上に深めることを避け、適度な距離を保つようにしているようだった。
公爵家としての責務を果たしながらも、政治的な争いに巻き込まれないよう慎重に立ち回っているのがうかがえた。
そしてみっつめは、公爵家が持つ社交界での影響力について。
シルヴァティス公爵家は、政治や軍事に関わるだけでなく、貴族社会の中でも強い影響力を持つ家柄。
貴族の間では、公爵夫人が社交界に姿を見せることは当然のこととされており、それは単なる慣習ではなく、貴族としての立場を確立する上で重要な役割を果たすものと考えられている。
社交界とは、お茶会や舞踏会、王宮の式典などを通じて貴族同士が交流し、家門の影響力を維持するための場でもある。
そのため、公爵夫人がこうした場に出席しないことは、貴族たちにとっては異例の事態だった。
特に、公爵夫人の不在を問題視しているのは、社交界の中心にいる一部の貴族たちだ。
侯爵夫人エレノアは、その筆頭である。
彼女は王族に近い家柄を持ち、貴族社会の秩序を重んじる人物として知られている。
かつてはアスティンとの婚約の噂があったこともあり、公爵家の振る舞いに対して強い関心を持っていたんだとか。
彼女は公爵家が社交の場に顔を出さないことを快く思わず、公爵夫人の不在を批判的に捉えている。
また、伯爵令嬢クラリスも、公爵夫人の不在を問題視している貴族の一人。
彼女は、貴族の女性は家門の名誉を守り、社交の場でその影響力を示すべきだと考えており、その役目を果たさないことを否定的に見ていた。
こうした貴族たちの間では、公爵夫人が公の場に姿を現さないことが、公爵家全体の評価にも影響を及ぼす可能性があると考えられていた。
そしてよっつめは、レティシアの存在について。
公爵家に関わる女性の中で、特に社交界で名前が挙がることの多い人物として、レティシアがいたという。
彼女は公爵邸に頻繁に出入りしており、初参加したお茶会同様公爵家の関係者として一定の立場を持っているようだった。
社交界では、彼女の振る舞いは洗練されており、貴族たちの間でも高評価されていたらしい。
彼女は人付き合いが上手く、礼儀作法も完璧であり、公爵家に相応しい品格を備えていると見られていた。
そのため、一部の貴族の間では「レティシアこそが公爵夫人にふさわしいのではないか」という声も上がるようになっていたという。
彼女の堂々とした立ち振る舞いや社交界での活躍が、公爵夫人に求められるものに近いと考えられていたからだ。
しかし、レティシアの公爵家における立場については、公には明かされておらず、その詳細を知る者は限られている。
公爵邸の使用人たちも、彼女について語る際に慎重な様子を見せることがあった。
「レティシア様は、昔から公爵様にお仕えしておられます」といった曖昧な言葉で説明されることが多く、はっきりとした答えを聞くことはできなかった。
こうした状況から、彼女の存在は公爵家の関係者たちにとっても、どこか不透明なものとして認識されていた。社交界において彼女が持つ影響力や、公爵家における彼女の立ち位置は、明確には見えてこないまま。
そしていつつめは、エヴァルシア自身に関する情報。
公爵家や社交界のことが分かるにつれて、彼女自身についての情報も浮かび上がってきた。
しかし、それらの情報には奇妙な点があった。
彼女が公爵家に迎えられてからの記録はあるものの、彼女が何を考えていたのか、その記録がほとんど残っていない。公爵邸の使用人たちも、彼女の行動については語るが、彼女の気持ちについては何も知らないようだった。
誰も彼女が何を思い、何を感じていたのかを理解していなかった。公爵家の記録にも、彼女の発言や意志を示すものはほとんどいない。
まるで、彼女の心だけがそこには存在していなかったかのようだった。
そして六つ目は、魔力暴走前の彼女の記録について。
エヴァルシアが魔力暴走を引き起こす前、彼女はどのように過ごしていたのか。公爵家の記録をたどると、彼女は確かに公爵夫人として屋敷にいた。
しかし、そこには社交の記録も、公の場での活動の記録も、ほとんど残されていなかった。
公爵夫人としての役割を果たしていないという事実は、記録からも明らか。それだけではない。彼女が屋敷の中でどのように過ごしていたのかについても、記録は曖昧だった。
屋敷の使用人たちは、彼女が静かに過ごしていたことは知っているが、彼女が何をしていたのかをはっきりとは語らない。
それどころか、彼女のことを語る際には、どこか歯切れの悪い言葉を選ぶ者が多かった。
そして七つ目は、彼女の魔力暴走についての詳細。
魔力暴走が発生した際の記録は、公爵家にも残されていた。しかし、その内容にはさきほど同様不自然な点がいくつもある。
魔力暴走が起きた原因についての記録が、ほとんど残されていなかったのである。
アスティンが言うには、通常、魔力暴走は強いストレスや感情の高まりによって引き起こされるものとされている。
だが、彼女の魔力暴走については、何が引き金になったのかがはっきりしないまま。記録には「突発的な魔力の高まりが見られた」とだけ記されていた。
さらに、公爵家の記録の中には、暴走の直前までの彼女の様子が書かれたものがほとんどなかった。
彼女がどんな状態だったのか、何を考えていたのか。
それを知るための手がかりは、ほとんど残されていない。
まるで、彼女の魔力暴走が、「突然起こったもの」のように扱われているかのようだった。
こうした記録をたどるうちに、一つの疑問が浮かび上がった。
彼女は何を考えていたのか。
なぜ、彼女の記録には「彼女の意志」がないのか。
そして、なぜ彼女の魔力暴走の原因が明確に記録されていないのか。
その答えは、まだどこにも見つからなかった。
思えることは、確かにひとつ。彼女がどう思っていたのか、その情報が一切出てこないこと。
公爵家の記録にも、使用人たちの証言にも、彼女の心情を示すものは何もなかった。
なぜなのか。その理由すら、今のところは分からない。
公爵家に迎えられてからの彼女の行動は記録されている。しかし、彼女自身が何を考え、何を感じていたのか、その痕跡はどこにも残っていなかった。
思考を巡らせ、記録をたどりながら、答えの見えない疑問に思いを沈めていると、不意に声がかかった。
「そんなに悩んで、どうした?」
アスティンの声だった。
その問いかけが、ひとつの事実へと繋がる。
そういえば、彼女の家族について、何も知らない。
彼女がどんな家庭で育ち、どんな思いで公爵家に嫁いだのか。
公爵家の記録にも、家族との関係を示すものはほとんど残されていない。
なぜ彼女の家族についての情報がこんなにも少ないのか。考えれば考えるほど、その答えは遠ざかっていくっていうのに。
けれど、ひとつだけ確かめられる情報。彼女の家族のことを知る必要がある。
そして、それを知っているのは、目の前にいるアスティン。彼がこの鍵のキーなのだと再確認させられるのであった。