7 触れられない過去と、約束の灯火
「しかし……本当に、それを聞くのか?」
アスティンの言葉が静寂を切り裂くように響いた。
彼の蒼い瞳がじっとエヴァルシアを見つめる。だが、その奥にはかすかな躊躇いがある。
エヴァルシアは答えを待っていたが、アスティンはすぐには言葉を続けなかった。
彼は視線を逸らし、一度息を整えるように短く吐く。その仕草から、彼自身もどう話すべきか迷っているのが伝わってくる。
「……お前は、エヴァルシアは、本当に覚えていないんだな」
静かに呟かれたその言葉には、どこか確かめるような響きがあった。エヴァルシアはわずかに瞳を伏せた。
「……ええ」
その答えが、彼の何を揺らしたのかは分からない。
アスティンは再び視線を向けたが、その眼差しはどこか遠いものだった。
「……初めて会ったのは、貴族の集まりだった」
話し始めた声は、いつもより低く落ち着いていた。
「お前はその場に似つかわしくないほど、大人しくて、穏やかだった」
「そう……なの?」
「貴族の娘はどこか誇り高く、社交に長けているものが多いが、お前はどこか違っていた。目立たないように振る舞いながらも、誰よりも周りを気にかけていた」
エヴァルシアは小さく呟いた。彼の言葉に、少しだけ胸が締め付けられるような感覚を感じた。
「そんなお前が、突然家の事情で俺の元へ嫁ぐことになった。正直、最初は戸惑いもあったが……」
言葉を切ったアスティンは、ふと視線を落とす。
「……お前は、いつの間にか俺の隣にいるのが当たり前になっていた」
その言葉に、エヴァルシアは彼の顔を見つめる。
「では……私たちは、普通の夫婦だったの?」
小さな問いかけだったが、アスティンはすぐに答えなかった。その沈黙が、何よりも雄弁に語っているような気がした。
「……普通ではなかったかもしれないな」
短くそう告げた彼の声には、どこか苦味が滲んでいた。
「俺は……お前を守ることばかり考えていた」
「守る……?」
「お前が公爵家に来たことで、貴族社会の中で様々な視線に晒されることになった。それがどれほどの負担になっていたのか……俺は気づいていなかった」
アスティンの拳がわずかに強く握られる。
「だから、俺はお前の負担を減らすために動いた。表に立つのは俺で、お前には静かに過ごしてもらえればそれでいいと」
「……そう」
そう、だったのか。
それが、彼の考えだった。
エヴァルシアはゆっくりと瞳を閉じ、彼の言葉を噛み締めるように思い巡る。
アイラも言った通りアスティンは守ると思っていた。そして嫌悪感よりどこか遠慮がちな彼が、ここ数日の近寄り難い態度には償いでもあった…そう思えてくる。
「お前を守るつもりだったが……それが正しかったのか、今も分からない」
アスティンの声は静かだったが、どこか自嘲するような声色を隠さず話してくれている。こんな慕われてたなら、前世のことを話したらどうなるのだろうか。
「私は……幸せだったの?」
不意に、そう問いかけた。彼は一瞬、何かを言いかけたが、その言葉は結局口にされず「……分からない」と答えた。エヴァルシアはゆっくりと顔を上げ、彼の横顔を見つめる。
彼は、自分の記憶がないことに戸惑いながらも、確かに何かを思い出している。
そしてその記憶が、彼を苦しめていることも。
「……私は、どう思っていたのかしら」
不安に呟くように言ったその言葉に、アスティンはゆっくりと彼女を見た。
「それを知るために、お前はここにいるんじゃないのか」
そう言いながら、彼は穏やかに微笑んだ。その表情には、どこか懐かしさと戸惑いが入り混じっていた。
きっと、前世の記憶の彼女に向かって言う言葉ではない。そんな不安が拭えないエヴァルシアは一瞬、何かを言いかけたが、その言葉は喉の奥に留まる。
彼の視線がまっすぐ自分に向けられていることに気付き、無意識のうちに指先が小さく動いた。
この夜の静寂の中で、彼女は改めて感じる。
彼女がどれだけ大切だったか。慕われるほど近くにある存在だったのか。痛いほど伝わってくる。
彼女が羨ましい。前世の記憶残っている私の感想だ。
優しさに触れた生活できて前世がこんなにも忘れたいと思うのも事実ではあるけど、話せる機会がこんなにも嬉しいのは本当に私だけなんだろうか。彼女もそうだったのではないのか。
…可能性が大いに広がる機会で彼女のことを感じれたらどんだけ良いんだろう。
アスティンは、静かにエヴァルシアを見つめていた。その蒼い瞳には、迷いと戸惑いが滲んでいる。
「……それでも、お前は今ここにいる。」
低く抑えられた声が、静かな室内に響いた。
エヴァルシアは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。ただ、その言葉には、まるで彼自身にも確信が持てないような、不安定な響きがあった。
「……そうね。」
それだけを返すと、彼女はそっと視線を落とす。
彼女にとって、私にとって、ここが「自分のいるべき場所」なのか、まだ分からない。
それでも、今はここにいる。それが事実だ。
アスティンは軽く息をつくと、椅子に深く座り直した。彼の仕草には、どこか慎重さが漂っている。
「お前がどう感じるか、正直に話してほしい。」
エヴァルシアはゆっくりと顔を上げる。
「……私は、あなたと一緒にいた記憶はない。でも、だからといって、今の私があなたと過ごす時間を意味のないものだとは思わないわ。」
その言葉に、アスティンの表情がわずかに動いた。
「記憶がないのに、そう思うのか。」
「ええ。あなたが私の夫だったことも、私を守ろうとしていたことも、言葉では分かる。でも、それが私にとってどんな感情だったのかは、まだ分からない。ただ……」
エヴァルシアはそこで言葉を止め、一度息を吸い込む。
「今の私は、あなたを知らない。でも、それでもあなたがどんな人なのか知りたいと思っている。」
その言葉が、どこか決意のように響いたのか、アスティンの瞳がわずかに揺れた。
「……お前は、変わったな。」
彼は、ぽつりと呟く。エヴァルシアはその言葉の意味を問いかけようとしたが、アスティンは先に言葉を続けた。
「以前のお前なら、そんなふうには言わなかった。」
「どんなふうに?」
アスティンはしばらく彼女を見つめたあと、ゆっくりと口を開いた。
「もっと……自分のことより、周りのことを気にしていた。」
それは、まるで過去の彼女を懐かしむような声だった。
エヴァルシアは静かに彼の言葉を聞きながら、それが彼にとってどんな意味を持つのかを考えていた。
「それは……悪いこと?」
「いや。むしろ、今のお前の方が、素直に思うことを言えている。」
「……そう。」
自分が変わったかどうかは分からない。彼女にとっては、今の自分がすべてだから。
でも、アスティンの言葉を聞いて、過去の自分と今の自分が違うのだということは理解できる。
「……お前が知りたいのなら、俺はお前にすべてを話すつもりだ。」
その言葉に、エヴァルシアはゆっくりと頷いた。
「……ありがとう。」
二人の間に流れる空気が、少しだけ変わったような気がした。
アスティンは、エヴァルシアをじっと見つめたまま、何かを言おうとして言葉を飲み込んだ。その仕草が、彼の迷いを如実に表している。
「……話せることがあるなら、話してほしい。」
エヴァルシアがそう促すと、アスティンは短く息をついた。
「……俺は、お前を守るつもりだった。」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
「俺は、公爵家の人間として生まれ、幼い頃から責任を背負わされてきた。お前と結婚した時も、それは変わらなかった。俺にとって、お前を守ることは当然のことだった。」
「……」
エヴァルシアは彼の言葉を黙って聞く。
彼が語る「守る」という言葉は、彼の生き方そのものなのかもしれない。私の前世もそうだったからこそ、分かることなのかもしれないが、アスティンは罪悪感や想いを大切にしていたんだろう。
「だが……気づいたんだ。」
アスティンは、ふっと視線を落とした。
「お前は、俺が守ることで自由を奪われていたのかもしれないと。」
その言葉に、エヴァルシアは少し目を見開く。
「……どういうこと?」
「お前は、自分の意思で何かを選び取ることができなかったんじゃないかと思う。貴族の立場、公爵夫人という役割、そして俺という存在……すべてに縛られていたのではないか、と。」
彼の言葉には、深い後悔が滲んでいた。
本当にこの人はなんなんだろうか。
エヴァルシアは、自分の過去を全て覚えていない。
でも、アスティンが感じていたこと、それを正しく受け止める必要があるのではないかと思えてくる。
こんなにも全部違くても、嬉しいという気持ちもあるのだから。不思議だ。
「でも、それは私がどう思っていたか次第でしょう?」
「……そうだな。」
彼女の問いかけに、アスティンはゆっくりと目を上げた。彼の表情が、僅かに和らぐ。
「だから、お前自身の言葉で知りたい。今の……お前の気持ちを。」
彼は、記憶を失った彼女に過去を押し付けるつもりはない。ただ、今目の前にいるエヴァルシアが、何を感じているのか、それを知りたいのだと。
エヴァルシアは彼の言葉を受け止めながら、そっと息を吐いた。
「……正直、分からない。」
彼の眉がわずかに動く。
「あなたの言う通り、記憶がない私には、過去の私がどう思っていたのか分からない。でも、今の私は……」
言葉を探すように、彼女は少しの間黙った。
「あなたが、私を気にかけてくれていることは分かる。それがどんな形であれ……私は、無関心でいられるほど冷たい人間ではないわ。」
その言葉に、アスティンの目がわずかに揺れた。
彼は何かを言おうとしたが、その言葉は結局声にはならない。
二人の間には、確かに何かが変わり始めている。
だが、それがどんな意味を持つのか、まだお互いに確信を持てずにいた。
エヴァルシアの言葉を受け、アスティンはしばし沈黙したあと静かに問いかける。
「……お前は、これからどうしたい?」
彼の声には、探るような響きがあった。
「どう……したい、か。」
エヴァルシアは少し考えた後、静かに答えた。
「正直、私は記憶がない。でも、それをただ嘆いても仕方がないと思うの。」
彼女の瞳はまっすぐに彼を捉えていた。
「過去の私がどんな人間だったか、あなたがどう思っていたのか、すごく気になる。でも、それ以上に……私は今の私として、あなたと向き合いたい。」
その言葉を聞いた瞬間、アスティンの表情がわずかに変わった。驚きとも、安堵ともつかない、複雑な感情が滲んでいる。
「……そうか。」
それだけを言って、彼は静かに目を伏せた。
エヴァルシアは、彼のその反応が何を意味するのかまでは分からなかった。ただ、彼が少しだけ肩の力を抜いたことに気づく。
静かな時間が流れる。
やがて、アスティンはゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ休め。もう遅い。」
その言葉に、エヴァルシアもまた、椅子から立ち上がる。彼の言う通り、長い夜だった。
「……ええ、そうね。」
そう答えたものの、彼女はふと、何かを思い出す。
アスティンが扉へ向かおうとした足を止め、振り返る。
「あの……」
「どうした?」
エヴァルシアは少しだけ躊躇いながらも、目を逸らさずに言った。
「私と、どこまでしたんですか?」
静寂が訪れる。
アスティンの表情がぴたりと固まる。
しばらく言葉を失い、何かを考えるように視線を落とす。
「……」
彼の耳の奥が、ほんのわずかに赤みを帯びた。
意外だ。反応を見て思わず言葉が思い浮かばない。
「えっと……?」
「気にするな。」
「いや、気にするでしょう……?」
エヴァルシアがじっと短く言い放つ彼を見つめると、アスティンは肩をすくめた。
「……必要なら、そのうち話す。」
「そのうちって、いつ……?」
「お前が覚えていないのなら、今話しても仕方がない。」
歯切れの悪い言葉だった。アスティンが「今はもう遅い、休め」と言って話を終わらせようとするが、次の言葉を言い放った。
「……これからは、必ず夕食後に話す時間を作る」
静かな声だったが、確かな意思を含んでいた。
エヴァルシアの足が止まる。
そして再度ゆっくりと彼の方を振り向いた。
アスティンは静かに見つめていた。
「……?」
青紫の瞳がじっとエヴァルシアを見つめる。この会話を通じて、彼が何かを隠していることは確かだ。
しかし、彼は沈黙したまま彼女を見つめている。はぐらかすような様子はない。むしろ、それは約束を守ろうとする態度に見て取れた。
エヴァルシアは僅かに息を飲み込む。
まさか、彼の方からそんな言葉を聞けるとは思っていなかった。胸の奥に広がる温かい感覚に、無意識のうちに指先が胸元を押さえる。
「……ありがとう」
小さな声だったが、その言葉には確かな温かさが宿っていた。アスティンの瞳がわずかに揺れる。
「おやすみなさい」
そう告げると、エヴァルシアは微かに微笑み、静かに部屋を出ようとする。
だが、扉に手をかけたその瞬間、背後からアスティンの低い声が届いた。
「……本当に覚えていないんだな」
疑いも、怒りもない。ただ、どこか確かめるような、ほんのわずかに寂しさの滲むような響きがあった。
エヴァルシアは振り返らなかった。
だが、心の中では彼の言葉が確かに引っかかっていた。
扉の向こうへと歩き出しながら、彼の最後の言葉が静かに胸の中に響き続けており、その後も収まることがなかった。