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6 交差する記憶と距離



「今は、読もうと思う気にはならないけど……そのうち、落ち着いたらまた来るわ」

「かしこまりました」


次に案内されたのは庭園だった。色とりどりの花々が咲き誇り、中央には噴水が静かに水をたたえている。


「ここでは、よくお茶を飲まれていました」


リーゼの言葉に、エヴァルシアは微かに目を細めた。

懐かしく想う背景にあったのだと察するが、申し訳なく心が痛い。


「……そう」

「最近はほとんど利用されていませんでしたが、いつでもお使いいただけます」


エヴァルシアは足を止め、噴水の水面を眺める。穏やかな水の揺らぎに、ふと心が落ち着く。

前世にこんな場所欲しかったんだよね……理想的で住み着いちゃいそう。


「ここなら、静かでいいわね」

「ええ。もしご希望でしたら、今後はお茶の準備もいたします」

「そうね……考えておくわ」


リーゼが喋る姿を熱く見ていたとは知らず、再び歩き出しながら、エヴァルシアは少しずつこの屋敷に対する印象が変わっていくのを感じていた。


知っているはずなのに知らない場所。

馴染みがあるのに遠い記憶。


そんな奇妙な感覚の中で、かつての自分がどんな人間だったのか、ほんの少しだけ理解できるような気がした。



屋敷内を半分巡った後、夕食の時間が近づいていた。


「そろそろお部屋に戻られますか?」


リーゼの問いかけに、エヴァルシアは小さく頷く。


「そうね。少し休みたいわ」

「では、お部屋までご案内いたします」


傍で控えていたアイラは少し心配そうにエヴァルシアを見つめた。


「疲れてない?」

「大丈夫よ。思ったよりも歩けたし」


そう言いながらも、心地よい疲労感が全身に広がっていく。こういう気持ち忘れないようにしなきゃ。


部屋へ戻ると、窓の外はすでに夕暮れに染まっていた。エヴァルシアは静かに息をつき、ベッドへ腰を下ろす。


「夕食の時間になりましたら、お迎えに参ります」


リーゼが丁寧に一礼し、部屋を後にする。アイラもエヴァルシアの様子を確認してから、名残惜しそうに扉を閉めた。


エヴァルシアは部屋の静寂の中で、一日を振り返る。


この屋敷は確かに自分が過ごしていた場所だったのだろう。けれど、それを実感するにはまだ時間がかかりそうだった。

けれど、こうして歩き、話し、見て回ることで、少しずつ何かが変わっていくのかもしれない。そう思いながら、エヴァルシアはゆっくりと目を閉じた。




夜が訪れ、屋敷の灯りが静かにともる頃、エヴァルシアはアイラと共に食堂へ向かうために部屋を出た。


食堂で夕食を共にするのは、公爵邸に戻ってから初めて。

今までアイラも付き添って一人で食事を取ることが多かったため、こうして正式な場に出向くのは少しだけ緊張する。


アイラが喋ってくれるので、心地良さを感じてしまってるせいかもしれない。

けれど、これは避けられない。アスティンが報告を聞く場として夕食を選んだ以上、応じるしかないからだ。


廊下は静かだった。使用人たちは食事の準備を整え終えており、足音ひとつ響かないほどの慎ましい空気が漂っている。


やがて、食堂の大きな扉が開かれた。

エヴァルシアが足を踏み入れると、すでにアスティンが席についていた。長いテーブルの中央、彼は姿勢よく座り、落ち着いた視線でこちらを見てくる。


「疲れたろう。座れ」


彼の一言に、エヴァルシアは静かに席についた。


食堂は、格式高い場所でありながら、思ったよりも圧迫感はない。使用人たちは控えめに給仕を進め、過剰に緊張する必要はなさそうだった。

アイラも様子を見て、立つ場所を弁えて見守っている。


執務室の目線は…気のせいかな?


料理はすでに並べられていた。温かいスープ、メインの肉料理、付け合わせの野菜。華美すぎず、程よい品々が揃っている。

エヴァルシアは静かにフォークを手に取り、食事を進める。アスティンも無言のまま食事をしていく。


数分の気まずい沈黙が流れた後、彼はナイフを置き、視線を向けてきた。


「巡った感想を聞こう」


エヴァルシアは少し考えながら、今日のことを振り返る。


「……思ったんですが、結構広い屋敷ですね」

「それだけか」

「使用人たちはよく働いていると思いました」


アスティンは軽く眉を上げた。その反応を見た執事が、控えめに口を開く。


「公爵夫人、普段と異なる点や、お気づきのことはございましたか?」

「……特には。ただ、屋敷が広すぎて、すべてを把握するには時間がかかるかと」

「無理に把握する必要はない」


アスティンはそう言いながら、ワイングラスを軽く回した。


「気になったことがあれば、随時報告すればいい」

「……わかりました」


静かに答えるエヴァルシアを見つめ、彼はふと口を開いた。


「屋敷について詳しく知りたいか?」


エヴァルシアは少し迷いながらも、ここで何も知らずにいるのは問題だと判断したので頷く。


「……ええ」


その返答を受け、アスティンは執事の方に顔を向けて軽く頷いた。アスティンの指示の意図を読んだのか、笑みをみせて給仕に耳打ちしていた。


夕食の席での会話が進む中、彼女は食事が進むにつれ、エヴァルシアの緊張も少しずつ和らいできた。


最初は警戒するように口にしていた料理も、今は落ち着いて味わうことができる。対面に座るアスティンも特に何も言わず、静かに食事を進めていた。


使用人たちは給仕をこなしているが、どこか落ち着かない気配が漂っている。静寂に耐えられない食堂の隅で控えている者たちが、小声で何かを囁き合っていた。

エヴァルシアは無意識のうちに視線を動かす。ひそひそと交わされる言葉の断片が耳に届く。


「今夜は特に静かですね」

「久しぶりに二人きりの食事だから?」

「でも、あまり会話が……」


小さく息を吐き、手元のカトラリーを動かす。


薄々執務室の時から違和感は感じていた。

私自身も、食事の場に違和感を覚えながら席に着いたのだから。


「余計な詮索は慎め」


執事の低い声が響く。

彼が一瞥をくれると、控えていた使用人たちはすぐに姿勢を正し、小さく頷いて静かに下がった。


「エヴァルシア、気にするな」

「ええ、大丈夫よ」


淡々とした口調で言うアスティンに、すぐに手を動かしながら答える私。

確かに、気にはしないけれど、どこかで「そう見られているのだ」という現実だけが意識に残っている。


ある程度食事を終え、静かにナプキンを置くと、アスティンは立ち上がり軽く手を差し伸べた。


「行くぞ」

「?」


エヴァルシアは一瞬戸惑いながらも、その手を取る。


「屋敷のことを少し話す」


その言葉に、エヴァルシアはさっきのことだと思い出したように静かに頷いた。

何を話されるのかは分からない。けれど、彼がわざわざ食事の後に話をするのだから、それなりの内容なのだろう。


でも、こういう時、きちんと距離を寄り添ってくれるから少し嬉しい!


アスティンのあとに続きながら、エヴァルシアはニヤケる顔を誤魔化して静かに彼の隣を歩いた。


エヴァルシアはアスティンの後を静かに追いながら、広々とした廊下を進んでいく。夕食の場を出てから、廊下を歩く足音だけが響くのがなんとも落ち着く。


アイラは少し離れたところを歩いていたが、彼女がついてきていることに気づいたアスティンは、一度足を止め、視線を向ける。


「アイラ、お前はここまででいい」


その短い言葉に、アイラは少しだけ不服そうに口を引き結んだが、最終的には小さく頷いた。


「かしこまりました、公爵閣下。公爵夫人、ご無理はなさらぬよう」

「……ありがとう」


エヴァルシアは小さく返し、アイラを残して再び歩き出す。アイラはその場に留まり、彼女の背中をじっと見送っていた。


アスティンとエヴァルシアは、そのまま屋敷の奥へと向かう。夜の廊下は静かで、窓から差し込む月の光が、白い大理石の床に淡い影を落としていた。使用人たちが遠巻きに見ているのが分かったが、誰も声をかけることはない。ただ、視線だけがこちらを追いかけている。

彼の部屋の前まで来ると、アスティンは扉に手をかけ、静かに開いた。


「入れ」


その短い言葉とともに、扉の向こうの部屋が目に入る。


広々とした空間に、豪奢な調度品が整然と並べられている。落ち着いた深い藍色を基調とした室内は、無駄な装飾が少なく、彼の性格を表しているようだった。奥には大きな机と椅子があり、その横には応接用のソファセットが置かれていた。


ここは何処だろうか?まさかアスティンの部屋?


エヴァルシアは一瞬だけ躊躇い、静かに息を整えてから中へ足を踏み入れる。扉がゆっくりと閉じられる。


部屋の奥まで進むと、アスティンは椅子ではなく、ソファの一つに腰を下ろした。彼は無言のまま手を軽く動かし、向かいのソファを示す。


「座れ」


短い言葉だったが、さほど強い命令口調ではなかった。エヴァルシアはゆっくりと頷き、その向かいに腰を下ろした。


「話をしよう」


アスティンは背もたれに軽くもたれながら、真っ直ぐにエヴァルシアを見据えた。その表情はいつものように冷静で、どこか慎重に見えた。


「屋敷のこと、それから結婚についても知っておくべきだろう」


エヴァルシアは、その言葉に小さく息を飲み、頷いた。エヴァルシアは静かに姿勢を正し、アスティンの言葉を待つ。


「まず、お前はこの屋敷のことをどこまで理解している?」


低く落ち着いた声が、静かな室内に響く。


「……あまり分かっていないわ」


率直な返答だった。実際、彼女がこの屋敷を詳しく知る機会はほとんどなかった。転生してから初めて意識して歩いたものの、まだ分からないことの方が多い。


アスティンは少し考えるように目を細めたあと、言葉を継いだ。


「この屋敷は、シルヴァティス公爵家の本邸であり、王都でも最も古い貴族邸のひとつだ。屋敷全体に強固な魔力障壁が張られているが、内部には制限区域も存在する」


「……制限区域?」


「主に魔力研究に関する施設や、王族直轄の情報管理部門がある場所だ。普段の生活で関わることはないが、知識として持っておいた方がいい」


エヴァルシアは静かにその言葉を受け止める。

公爵家が王族と密接な関係にあることは知っていたが、そこまで厳重な管理がなされているとは思っていなかった。


「それと、公爵夫人であるお前が立ち入ることのできる区域もある。必要があれば執事や使用人に指示を出して確認するといい」

「……分かったわ」


それからアスティンは屋敷のことをきちんと教えてくれた。

一つ一つ情報を整理するように、エヴァルシアは心の中で反芻する。覚えるのに時間はかかるけどいい思い出になりそう。


アスティンは彼女の薄笑う反応を確かめながら、次の話題に移った。


「結婚についても話しておく」


一瞬、室内の空気がわずかに変わった気がした。エヴァルシアは小さく息を吸い、アスティンを見つめる。


「……あなたとの結婚について?」

「そうだ」


アスティンは組んでいた腕をほどき、ソファの背に軽くもたれた。


「お前がシルヴァティス公爵家に嫁いだ理由は知っているな?」

「……ええ」


私は知っている。自身の「弱魔力」が貴族社会で問題視される中、家の立場を守るために結ばれた政略結婚だったことを。

しかし、実際に二人がどう過ごしていたのか具体的にも。そこが曖昧だった。


「結婚生活については、どこまで覚えている?」

「……申し訳ないけれど、あまり……」


答えながら、エヴァルシアは自分の手元を見つめた。


本当に何も思い出せないわけではない。ただ、転生前の記憶と混ざり合い、どこまでが「エヴァルシア」としてのものか区別がつかないのだ。


アスティンはしばらく彼女の様子を観察するように見つめた後、静かに口を開いた。


「……そうか」


それ以上は何も言わなかった。ただ、彼の表情の奥に複雑な感情が滲んでいるように見えるのは…気のせいだろうか?


「お前が戻ってきた今、夫婦としての関係を再構築するかどうかも考えねばならない」


アスティンはそう言いながら、彼女の反応を探るように視線を向けた。


「……」


エヴァルシアはすぐには答えられなかった。彼女の中で、今の関係を「夫婦」として受け入れるには、あまりにも距離がある。


「まだ決めかねているか?」

「……そうね」


正直な気持ちだった。アスティンはそれ以上深く追及することなく、静かに頷いた。


「いずれ答えが出るだろう。それまでは、お前のペースで考えればいい」


その言葉に、エヴァルシアは小さく息を吐いた。少なくとも、急かされることはないのだとわかっただけでも、心の重荷は少しだけ軽くなる。


アスティンは立ち上がり、窓の外を見やる。

エヴァルシアもまた、時計を見た。


そこで、彼女の中に、ずっと気になっていたことがふと浮かんだ。


だが、暫くエヴァルシアは時計の針が進んでいることを確認しながら、ずっと気になっていたことを口にするべきか迷っていた。

アスティンとの距離が微妙に縮まりつつある今、このまま聞かずにいるのは後々気になってしまう気がした。


十分、二十分経った頃、アスティンが窓の外を見ていた視線を戻し、再び彼女へ向き直る。


「そろそろ終わりにするか」


そう言って、残念そうに笑い立ち上がりかけた彼を見て、エヴァルシアは反射的に口を開いた。


「あの……聞けなかったんですけど」


アスティンの動きが止まり、再び彼女を見る。


「私と……どこまでしたんですか?」


言葉が静かに落ちる。


部屋の空気が、一瞬だけ張り詰めたように感じた。


エヴァルシアは自分でも何を聞いているのか、少し混乱しながらも目を逸らさずにいた。

アスティンは、その問いの意味をすぐに理解したのか、しばらく彼女を見つめていたが、すぐには答えなかった。


「……どうして、それを聞く?」

「……だって、私は記憶がないから」


エヴァルシアは、彼と共に過ごしたはずの時間が思い出せない。それなのに、公爵夫人として振る舞うのは、あまりにも曖昧なままだと思ったのだ。

アスティンは深く息をつき、静かに彼女を見据える。

その瞳の奥に、一瞬だけ言葉にできない複雑な感情が揺れた気がした。


「……」


彼は何かを考えるように視線を落としたが、やがて意を決したように口を開いた。


「答えるべきことなのか……それとも、今はまだ知らない方がいいことなのか」


彼の低い声が、ゆっくりと部屋に響いた。

エヴァルシアは言葉を待つように彼を見つめる。


アスティンは、一度目を閉じると、静かに椅子へと腰を下ろした。


「お前が知りたいなら……話そう」


彼の言葉に、エヴァルシアは自然と息を飲み込む。


この会話が、何かを大きく変えることになるのかもしれない――そう思いながら、彼女は静かに彼の言葉を待った。


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