5 魔力暴走の回路と心の支えにあった光
お茶会から数日が経ち、エヴァルシアの体調はかなり回復していた。まだ完全とは言えないけど、食事をとり、部屋の中を歩く程度なら問題ないほどに。
以前のような重い倦怠感も少しずつ薄れてきて楽なのもある。
この日の朝も、彼女はダイニングの一角で朝食をとっていた。向かいには、すっかり顔なじみになった屋根付き看護師のアイラが座っている。
温かいスープの香りが広がる中、アイラが準備を終えたところで穏やかな笑みを浮かべながら声をかけてきた。
「公爵夫人、今日の体調はいかがですか?」
エヴァルシアはスプーンを動かしながら、軽く肩を回してみる。昨日よりも格段に楽だった。
「悪くないわ。昨日よりずっといい」
「それは良かったです。でも、無理は禁物ですよ?」
「わかってるわよ、アイラ。急に無茶したりしないって」
アイラがクスッと笑った。私もつられて笑う。
彼女を「アイラ」と呼び始めたのは、ここ数日のこと。最初は看護師として距離を取っていたが、毎日顔を合わせて世話を焼かれるうちに自然と名前で呼ぶようになった。
アイラもそれを気に入っているのか、初日以前よりも親しげな態度を見せてくれる。
アイラのおかげかここに転生したとは言え、前世でされてこなかったお世話も本当に心地よくて満足してしまっている。
「そういえば、お茶会のことですが、結構話題になっていましたよ」
「お茶会?レティシア王女のお茶会のこと?」
スプーンを止めて顔を上げると、アイラは楽しそうに頷いた。
「ええ。公爵夫人はとても気品があって、堂々としていたって評判です」
「私が?あんなに緊張して言ったのに?」
思わず瞬きをする。あのお茶会では、できるだけ目立たないように過ごしたつもりだった。まさかそんな風に見られていたとは。
「堂々としてたって…ただ静かにしてただけなんだけど?」
お得意の処世術でね。警戒心ないようにするのも案外楽ではないのだけど。
「それが余裕のある態度に見えたのかもしれませんね。皆さん、かなり驚いていたみたいですよ」
「へえ…」
彼女は考え込む。
内心は結構気を張っていたし、無難に過ごそうと努めただけだった。そんな自分が「気品があった」と評されるのは、少し不思議な気がする。
「まあ、悪い評判よりはいいか」
「ええ、その調子なら、これからの評判も良くなっていくかもしれませんね」
アイラが微笑みながら言うと、エヴァルシアもつられて小さく笑った。
思ったより悪くない結果だったのかもしれない。
自信あったから当然失敗なんてしたくない。
朝食を楽しんでいたが、ふいに使用人がそっと近づいてきた。気配に会話が自然と止まる。どこか落ち着かない様子で、緊張しながら言葉を選んでいた。
「公爵夫人、公爵閣下がお話したいと」
スプーンを止め、顔を上げる。
「アスティンが?」
「はい。執務室でお待ちしております」
使用人は丁寧な口調ながらも、どこかそわそわしている。そんな様子に、エヴァルシアは軽く眉を寄せた。
……なんか話あった?と思うけれど、馬車の件といい初日といい、話すことを合わせていなかったから、きっとその話かもしれない。そろそろ来ると思ったけど、緊張する…。
「わかった、支度して行くわ」
「お支度が整いましたらご案内いたします」
使用人が頭を下げるのを見届けながら、エヴァルシアは少し考え込む。
アスティンとは最近ほとんど会話をしていない。
というのも屋敷に戻ってからも執務で忙しくしていたようで、顔を合わせる機会は限られている。
そんな彼が突然呼び出すとは、思わなかったけど……
「行けばわかるよね。擦り合わせ必要だもの」
そう呟きながら席を立ち、支度のために部屋へ向かった。アイラはその様子を心配そうに見て彼女の支度をお手伝いし始めた。
暫くしてエヴァルシアは食事と着替えを終え、執務室へ向かうために廊下へ出た。
アイラと過ごした時間のおかげで、以前よりも屋敷での生活に馴染みつつあるように思う。治療専念だったから公爵夫人という立場に慣れるというのも無理があるから…これからだろう。
そんなことを考えながら歩いていると、廊下の端でひそひそと囁く声が聞こえてきた。
小さなグループを作り、使用人たちが何かを話している。ときどき、ちらりとこちらを見ては慌てたように視線を逸らす。
その様子は、何か噂をしているのだと容易に察せた。
歩みを緩め、彼女は無言で彼らを見つめる。
「最近の公爵夫人、変わったわよね」
「ええ、前とは全然違う。まるで別人みたい」
「でも、公爵閣下は何も言わないし……」
そう囁く声が聞こえてくる。エヴァルシアは表情を変えずに、ただ静かに見ていた。
その瞬間、ぴしゃりとした視線が飛んだ。
アイラだった。
腕を組み、じっと噂話をしていた使用人たちを睨みつけている。その視線の鋭さに気づいた者たちは、ぎくりと肩を震わせ、慌てたように散っていく。
「……まったく」
小さくため息をついたアイラは、エヴァルシアの方を振り返った。
「気にしないことです、公爵夫人」
「……まあ、慣れてるけど」
「え?」
「なんでもないわ」
エヴァルシアは淡々と答え、歩みを進める。
アイラはしばらくその背を見送った後、再び使用人たちの方へ冷ややかな視線を向けるが。「次に見つけたら、ただじゃおかないから」とアイラが低い声でそう呟くと、周囲は静かになった。
エヴァルシアは何も知らないまま、使用人に案内され、静かに執務室へ向かっていた。屋敷の奥まった廊下を進み、執務室の前へと辿り着く。
扉の前で立ち止まると、先導していた使用人が恭しく一礼し、ゆっくりと扉を開いた。
エヴァルシアは一度静かに息を整え、そして足を踏み入れた。アイラたちは外し執務室の扉が静かに閉じられると、室内には重厚な沈黙が広がった。
エヴァルシアはゆっくりと視線を巡らせる。
高い天井に整然と並ぶ書棚、整理された書類の山。公爵家の執務を司るこの部屋は、格式と威厳をそのまま形にしたような空間。
ここでいつもアスティンが過ごしてる時間。珍しい本もあったのでぜひ詳しく読みたいところ。
アスティンは机の向こう側に座り、書類から顔を上げた。冷静な青紫の瞳が彼女を映す。
「体調はどうだ?」
彼は変わらぬ低く落ち着いた声で問いかけた。
「……だいぶ良くなりました」
エヴァルシアは簡潔に答える。
確かにまだ少し疲れやすさは残るものの、名医の診断通り、回復は順調だった。
「そうか」
アスティンは短く頷くと、指先で机を軽く叩くようにしながら言葉を続けた。
「お前が公爵夫人として果たすべき役割があるが、まずは無理のない範囲でこなせばいい」
「……分かりました ご配慮ありがとうございます」
淡々とした説明に、エヴァルシアは静かに相槌を打った。公爵夫人としての務めなど、今の彼女にとっては実感の湧かないものだったが、必要ならばこなすしかない。
アスティンは彼女の反応を観察するように一瞬黙ったが、すぐに視線を外し、執務机から立ち上がる。
「詳しい話をする前に、少し場所を移す」
彼は執務机の前に置かれた応接用のソファセットを指し、彼女を促した。エヴァルシアは少し戸惑いながらも、彼の指示に従い、柔らかなクッションに腰を下ろす。
アスティンも向かいのソファに腰を下ろし、一息つくように姿勢を整えた。
彼が執務机ではなく、ここで話そうとしている。それはつまり、これから交わされる会話が、単なる公務の話ではないことを示していた。そして、彼が静かに口を開いた。
「……魔力暴走について、話す約束だったな」
ついに来た。魔力暴走について。
急な申し出にエヴァルシアの指先がわずかに震える。
「……はい」
「お前が屋敷で魔力暴走を起こした時、通常の症例とは異なる兆候が見られた。名医も診察の結果、確かにお前の魔力は安定していると言ったが……」
アスティンはわずかに目を細め、彼女の表情を伺うように続けた。
「問題は、お前の精神状態だ」
エヴァルシアは息を呑んだ。
「……精神状態?」
「そうだ。普通、魔力暴走を起こした後の患者は、精神的な混乱や不安を抱えるものだ。だが、お前は違った。まるで最初から魔力暴走の事実そのものを、自分とは関係のないことのように捉えているように見えた」
アスティンの言葉は静かだったが、その奥には鋭い洞察があった。彼女は何も言えずに唇を噛む。
「エヴァルシア、お前は……本当に、俺の知るお前なのか?」
「………!」
そして鋭い問いが、彼女の胸を突く。それだけ彼の視線と言葉は真っ直ぐだったからだ。
やっぱり知っていた。前世の記憶があるという確信がアスティンの口から証明された…なんて思ってもいないだろう。
そして、暫く沈黙の中、勇気出したエヴァルシアはゆっくりと口を開く。
正直怖いけど、魔力暴走で何か関連すると思うと至ってもたってられなかった。そして彼女の境遇と何かあったら私も同じく危険だということも直感的に感じた。
「……信じられない話ですが……以前の私の記憶がないのです」
アスティンの目が微かに揺れた。
「記憶が……ない?」
彼女は頷き、言葉を選ぶように続ける。
「はい…屋敷で目覚めたとき、私には……この世界の記憶がなかったのです。まるで別の自分になったような感覚で、ここがどこなのかすら分からなかった」
それを聞いたアスティンは、しばらく沈黙した。
彼は考え込むように眉間に指を当て、ゆっくりと息を吐いた。
「……名医の診察では、脳への異常は見られなかった。しかし、お前の言動は、以前のお前とは明らかに違う」
彼の目が彼女を捉える。
前世も精神的ダメージはあったものの、脳の異常なしと診断されたことがある。うつ病と診断された前はおかしいと思える気持ちだったのに、症状を見ても何も分からないようなそんな気持ち伝わったら…
「つまり、お前は俺たちの記憶を持っていても、それが“実感”として繋がっていないということか?」
エヴァルシアは少し考えてから、ゆっくりと頷いた。
「……はい。記憶の断片はあります。でも、それが本当に“私”のものなのか、自分でも分からないんです」
エヴァルシアが自身の記憶について打ち明けた後も、アスティンはしばらく沈黙していた。
テーブルに軽く指を当てながら、考え込むように視線を落とし、やがてゆっくりと彼女に向き合う。
「……そうか。お前が記憶を失ったのが、魔力暴走によるものか、それとも別の原因かは今のところ分からない」
静かな声だったが、その言葉の奥には慎重な探りが感じられた。エヴァルシアもまた、漠然とした不安を覚えながら彼を見つめる。
「……でも、私の魔力暴走は通常のものとは違うのでしょう?」
「そうだ 魔力暴走は、一般的に二種類に分類される。一つは“外的要因”による暴走。魔力制御の未熟さ、薬や魔法の影響、あるいは魔力回路の負荷が原因となるものだ。これは調整や治療で抑えられることが多い」
「……もう一つは?」
エヴァルシアが問い返すと、アスティンの瞳がわずかに鋭さを増した。
「もう一つは、“内的要因”による暴走。これは精神状態、感情の乱れ、過去の影響が深く関与する。暴走の原因が自らの魔力そのものであり、根本的な要因を取り除かない限り、何度でも発生する」
エヴァルシアは彼の言葉を噛み締めながら、自分の魔力について考えた。
つまり前世のうつ病と同じように軽度と重度がある…ということだろうか?
「……私は、どっちのタイプだったの?」
アスティンは少し間を置き、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「お前の魔力暴走は、どちらの側面も持っていた」
「……両方?」
「そうだ。魔力回路の乱れは、魔力暴走を引き起こす一因ではあった。だが、名医の診察では、お前の魔力は今、安定していると診断された。つまり、外的要因だけなら暴走は終息しているはずだ」
「でも、違う……?」
エヴァルシアは無意識に自分の手を握りしめた。
魔力回路は安定してる?つまり、彼女は外的要因で暴走し内的反抗で起きたということ?
「お前の場合、魔力が自身の精神と強く結びついている可能性がある。名医が言っていたように、お前の魔力は“繊細”だ」
「……繊細?」
「一般的な魔力は、ある程度訓練すれば制御が可能になる。しかし、お前の魔力は、根本的に性質が異なる可能性が高い。制御を覚えるだけではなく、根底にあるものを理解しなければならない」
エヴァルシアは、胸の奥がざわつくのを感じた。
「つまり……私は、ただの魔力暴走とは違う何かを持っている……?」
アスティンは静かに頷いた。
「それを解明するためにも、お前の魔力について、しばらく観察と調査が必要になる」
彼は慎重に言葉を選びながらも、淡々とした調子で話を進める。
「そして、そのためにはお前自身が自分の魔力を知ることが不可欠だ。今のままでは、また同じことが起こる可能性がある」
「……分かりました」
エヴァルシアは深く息を吸い、ゆっくりと吐き出したあと。静かにそう答えると、アスティンはわずかに目を細める。
「お前が理解していく過程で、また変化があるかもしれない。だが、まずは現状を把握することが先決だ」
エヴァルシアは静かに頷いた。
自分の魔力は、ただの力ではなく、精神と深く結びついたもの。
それが何を意味するのか、まだ分からない。だが、確かに今の彼女の身体には、前世では決して感じることのなかった魔力の流れが存在している。それを制御できなければ、自分自身すらも危うくなる。
魔力を理解するって、彼女自身どうなるか危ういけど公務だけではない要因を刺激するかもしれないから自由を選択させた…のね。
暫くして返事ない彼女を確認するとアスティンは執事を呼び寄せ、「護衛と案内役を手配しろ」指示を出した。
エヴァルシアは静かに座ったまま「かしこまりました、公爵閣下」と執事と会話した様子を眺め、今交わした言葉を反芻する。
私は、今この場で決断を迫られている。「自分の魔力を知る」そのために、まずは動かなければならないということ。そしてアスティンも危惧ないように調べてくれていること。
いつの間にかアスティンは彼女をじっと見つめているけど…彼は彼女を慕っていたんだろうか。
「案内役がもうすぐ来る。迎えを寄越した…からいいか」
エヴァルシアは小さく頷き、茶を一杯飲んだあとアスティンと一緒に執務室を出る。
執務室を出ると、すでに廊下で待っていた案内役の女性と護衛、そしてアイラが立っていた。アイラは腕を組みながら、少し心配そうな表情を浮かべている。
アスティンは彼女たちを一瞥し、静かに言った。
「案内役をつけた。今日からお前の行動には彼女が同行する」
エヴァルシアは案内役の女性を見つめた。彼女は落ち着いた雰囲気の持ち主で、柔らかな茶色の髪をきっちりとまとめ、上品な黒の制服を身に纏っていた。彼女の瞳には誠実さが感じられ、言葉遣いも丁寧だった。
「初めまして、公爵夫人。私はリーゼと申します。今後、お屋敷の案内を務めさせていただきます」
「リーゼ……よろしくお願いするわ」
エヴァルシアが軽く会釈すると、リーゼも深々と頭を下げる。
「護衛もつけているが、お前に何かあればすぐに報告を受けるようにしている」
アスティンの言葉に、エヴァルシアは微かに眉を寄せた。
「そんなに必要なの?」
「お前はまだ体調が万全ではない。それに……以前とは違う」
「……」
エヴァルシアは沈黙したまま、そっと視線を落とす。
「まずは、使用人のことを把握しろ。以前の記憶と今の記憶が異なるのなら、屋敷を巡ることで何か思い出すかもしれない」
「……つまり、私の行った場所を回れということ?」
アスティンは頷いた。
「何か気づいたことがあれば、夕食の場で報告してもらう」
こういうのはもっと話すべきなんだろうけど…今更言ったところで逆に宥めてもいいことないだろう。
エヴァルシアは少し考えた後、小さく息を吐いた。
「……わかったわ」
「それと、アイラも同行させる。体調のことは引き続き気を配るように」
アイラは腕を組んだまま、小さく頷く。
「ええ、ちゃんと見ていますから」
アスティンは短く頷き、扉の方へと歩み寄る。
「リーゼ、案内を頼む」
「かしこまりました」
リーゼが静かに一歩前に出る。アスティンは最後にもう一度エヴァルシアを見つめた。
「無理はするな」
それだけを言い残し、彼は執務室を後にした。
エヴァルシアは扉が閉まる音を聞きながら、静かに息を整えた。
「では、公爵夫人。ご案内いたします」
リーゼが恭しく頭を下げる。アイラはエヴァルシアの様子を横目で確認しながら、少し前に出る。
「歩きすぎて疲れたら、すぐに言いなさいよ」
「ええ、分かってる」
エヴァルシアはまだ馴染みのない屋敷を見渡しながら、静かに歩みを進めた。
屋敷の中を歩くにつれ、エヴァルシアは以前の自分がどのような場所を好んでいたのかを知ることになった。
リーゼは屋敷の各所を丁寧に説明しながら案内する。アイラは時折、エヴァルシアの様子を確認しながらついてきていた。
「こちらは、公爵夫人がよく読書をされていた書庫です」
リーゼの案内で足を踏み入れたその場所は、高い本棚が並び、室内には仄かに紙とインクの香りが漂っていた。
「私は……ここをよく使っていたのね」
「ええ。静かな場所を好まれていました。執務室と同じくらい、こちらで過ごされることが多かったかと」
エヴァルシアは書棚に目を向けた。指で背表紙をなぞるが、どれも馴染みのないタイトルばかりだった。
以前の彼女がどんな本を読んでいたのか、興味はあったが、今の彼女にとっては初めて目にするものばかりだった。