3 公爵夫人、優雅な茶会と貴族の試練
公爵邸に移って初日。淡い光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
エヴァルシアは静かに目を開け、天蓋付きのベッドの中でしばらくぼんやりと天井を見つめる。
驚くほど…昨夜はあまり深く眠れなかった。この寝室で過ごしていた記憶はあるはずなのに、今の彼女には馴染みのない場所のように感じられて。
毛布の温もりを感じながら、ゆっくりと上体を起こすと、視界に映るのは豪奢な装飾が施された部屋。
金と深い青の織物で彩られた壁、繊細な彫刻が施された家具、そして大きな窓から見える手入れの行き届いた庭園。
……まるで絵画の中に迷い込んだような空間だわ。
しかし、それが今の彼女にとって「居心地が良い場所」かと問われれば、答えに詰まる。
まだ宿泊施設にしか思えないから手にもつけるにも、畏れ多いことだから。それにしても…
「……今日から、私は何をすればいいのかしら」
ぽつりと呟いた言葉は、誰にも届かずに静かに消えていく。その時、扉の向こうから控えめなノック音が響いた。
「失礼いたします、公爵夫人。朝の準備をお手伝いいたします」
穏やかで落ち着いた声。
扉が開き、屋敷付きの看護師が入ってきた。昨日まで名医の屋敷で彼女を診ていた、あの女性だった。
「おはようございます。体調はいかがですか?」
「……問題ないわ」
エヴァルシアは慣れない言い回しをしながら、静かに答える。看護師は優しく微笑み、テーブルの上に朝食のトレーを置く。
「本日の朝食は、消化に良いスープと焼きたてのパンです。それと、名医の先生から処方された薬も、お飲みください」
「ありがとう」
エヴァルシアは目を輝かしゆっくりとスープの器を手に取る。
温かな香りが立ちのぼり、口に含むとじんわりと優しい味が広がった。
この数日間、ようやくまともに食事が喉を通るようになった。魔力暴走の影響はほぼ収まったとはいえ、完全に回復したわけではない。
体調管理には、まだ気を付ける必要があった。
「……ところで、あなたがここに?」
エヴァルシアはスープを飲みながら、静かに問いかけた。看護師は微かに笑みを浮かべたまま、ゆっくりと答える。
「公爵閣下のご指示です。しばらくは、名医の先生の指導のもとで、私がこちらでお世話をすることになりました」
「……彼の?」
エヴァルシアは僅かに眉を寄せた。
「はい。公爵夫人の体調が安定するまでは、無理をさせないように、とのことです」
看護師は穏やかに言葉を続ける。
「それに、公爵邸には通常、専門の療養施設がありません。貴族の屋敷では、治療は外部の施設や神殿で受けるのが普通ですから」
「……なるほど」
エヴァルシアは静かに頷いた。
彼女を名医の屋敷から公爵邸へ戻したものの、まだ完全に回復しているわけではない。だからこそ、看護師をここに留めたのだろう。
彼がどこまで考えて手配したのかは分からないが、少なくとも、彼なりに彼女のことを気遣っているのだと理解できた。
といっても顔出さないのは結婚した仲とはいえありえないことな気もするけど。もしかして避けてる?
「……公爵は?」
ふと何気なく尋ねると、看護師は少し驚いたように瞬きをした。
「アスティン様は、朝早くに公務へ向かわれました。お戻りは夕方頃になるかと」
「そう」
エヴァルシアは小さく頷き、パンを一口かじる。
昨日はほとんど会話らしい会話もなかった。
彼がどんな気持ちで彼女を迎え入れたのかも、まだ分からないままだ。
「……公爵夫人として、私がやるべきことは?」
美味しい食事を終え、エヴァルシアは看護師に問いかけた。彼女は少し考え込んだ後、慎重に言葉を選ぶように答える。
「基本的には、公爵夫人としての社交や、貴族の間での立ち振る舞いをこなしていくことになるかと……」
「……そう」
それが、今の彼女にとってどれほど難しいことなのかは、言うまでもなかった。
公爵夫人としての役割。貴族社会に適応すること。
その重みを改めて感じながら、エヴァルシアは静かに息を吐いた。
エヴァルシアは、看護師の手を借りながら身支度を整えた。
鏡の前に立つと、そこには青みがかった銀髪をなめらかにまとめ、淡いラベンダー色のシルクのドレスを纏った自分の姿が映っていた。
かつて、この公爵邸で幾度となく身に着けてきたはずの衣装。しかし、それを纏う自分自身には、今なお違和感が残っていた。
鏡の中の自分を見つめながら、エヴァルシアは改めて問いかける。
「……私は今まで、そういう場に積極的に出ていたの?」
看護師は少し困ったように微笑んだ。
「そうですね……公爵夫人としての役割を果たすべく、お付き合いはなさっていました。ただ、以前の奥様は……少し控えめな方でしたので、目立つことはあまりなかったようです」
「控えめ、というのは?」
エヴァルシアは更に問いかける。看護師は慎重に言葉を選びながら答えた。
「貴族社会では、特に王都の貴族たちは、力や影響力のある者ほど社交の場で積極的に交流を持ちます。ですが、以前の奥様は、積極的にその輪の中へ入ることはありませんでした」
「では、私はどんな風に見られていたの?」
看護師は僅かに躊躇した後、正直に口を開いた。
「 静かな公爵夫人です。公爵様の妻でありながら、強い魔力もなく、貴族たちの主流の派閥に属することもなかった。
ですが、それを揶揄する者は少なかったのです」
「……どうして?」
エヴァルシアが問いかけると、看護師はふっと微笑んだ。
「公爵閣下が奥様をお守りになっていたからです」
その言葉に、エヴァルシアは一瞬だけ息を呑んだ。
彼が、私を守っていた?
「どういうこと?」
看護師は少しだけ表情を引き締め、説明を続ける。
「公爵閣下は、奥様のことをとても大切にされていました。しかし、貴族社会には“弱さ”を許さない風潮が根付いています。特に公爵家は王族に次ぐ立場にあり、政治的な影響力も非常に大きい。
そのため、公爵夫人である奥様が“弱魔力”と見なされることは、公爵家にとっても不利な要素になりかねませんでした」
「……つまり、彼は私をそういった視線から遠ざけるために、表舞台には立たせなかった?」
「そうとも言えますし、単に奥様ご自身がそのような場を好まれなかったのかもしれません。 ですが、結果として、公爵閣下は奥様が過度に貴族社会で注目を浴びることを防いでいました」
エヴァルシアは考え込む。
公爵夫人でありながら、社交の場ではあまり目立たず、彼の庇護のもとで過ごしていた以前の自分。
今の自分と、以前の自分。確かに同じ存在であるはずなのに、どうしても違う人間のように感じる。
そして、彼は“以前の私”を守っていた。
しかし、彼女は結局、魔力暴走を引き起こし、今のこの状況に至っているなら。
彼は今、どんな気持ちで私を見ているのだろう。
考えても答えは出なかった。彼に聞く他答えがない。
「それで……今日は、何をするの?」
エヴァルシアは思考を切り替え、看護師に問いかけた。
「本日は特に公爵閣下からのご指示はございません。ただ、三日後の午後に王都で開かれる貴族夫人たちの茶会に招待されております」
「茶会?」
エヴァルシアは眉を寄せた。
お茶会ってまさか……
「はい。王都の有力な貴族夫人たちが定期的に開いている社交の場です。 今回の茶会は、王宮主催のものではありませんが、王族とも繋がりのある貴族夫人たちが多数参加される予定です」
「……王族とも繋がりがある?」
「はい。貴族夫人たちの社交の場は、大きく二つに分かれます。一つは、貴族同士の情報交換や交流を目的としたもの。そしてもう一つは、王族の動向や政策に影響を与えるためのものです」
「つまり、今回の茶会は……」
「王族との距離が近い貴族夫人たちが集まる場です。公爵夫人としての立場を再び確立するためには、避けて通ることは難しいでしょう」
「……出席しなければ?」
「公爵夫人が公の場に戻ることを避けている、あるいは、まだ体調が完全ではないと見なされる可能性があります」
「そうね」
エヴァルシアはゆっくりと息を吐く。
このまま屋敷に留まり続けるのは簡単だが、それでは公爵夫人としての立場を維持することはできない。
それに私も魔力暴走したからって、状況把握しないことも何事にも行動できないのは望んでいない。
ここで行動するのみ!
自由になれるチャンス見逃してられるか!
「……わかったわ。私、茶会に出席するわ」
心の中に強く決心をしたエヴァルシアは静かに頷いた。彼女の瞳には、覚悟の光が宿っていたことを看護師に覗かれていたとは知らずに。
三日後の当日。エヴァルシアは、さっそく使用人の手を借りながら馬車へと乗り込む。
目的地は、王都の中心部にある大貴族の邸宅。その広大な庭園で、貴族夫人たちの茶会が開かれることになっている。
馬車がゆっくりと動き出すと、窓の外には賑わう王都の街並みが広がっていた。
石畳の道を行き交う人々、店先で商品を並べる商人たち。王族が統治するこの国の中心であり、多くの人々が日々の暮らしを営んでいる場所。
しかし、その喧騒とは異なる世界が存在することを、彼女は知っている。
貴族社会。表向きは優雅な文化と礼儀を重んじる世界。しかし、その実態は、政治的な駆け引きや権力争いが渦巻く場でもある。
きっとアスティンも、公爵夫人として、彼女はそこに立つことを求めている。
「……」
エヴァルシアは馬車の中で静かに目を閉じた。
彼女はまだ、貴族社会での立ち振る舞いに慣れているとは言えない。だが、それは過去の自分も同じだったはず。
静かな公爵夫人として公の場での発言を避け、守られる立場にいたかつての彼女。
しかし、今の彼女は違う。
以前のようにただ守られるだけの存在でいるつもりはない。
「到着いたしました、公爵夫人」
馬車が止まり、扉が開かれる。
彼女はゆっくりと外へ降り立った。
目の前に広がるのは、美しく整えられた庭園。季節の花々が咲き誇る中、手入れの行き届いた噴水が涼やかな音を立てていた。
そして、その中心には、優雅に談笑する貴族夫人たちの姿があった。
彼女たちは、王都の上級貴族の夫人たち。その中には、王族に連なる血筋の者もいる。
貴族夫人の社交の場は、単なるお茶会…ではない。
これは、貴族間の関係を築き、情報を交換するための場であり、貴族社会における立場を決定づける場でもある。
その場に、彼女は一人で足を踏み入れることになった。
「まぁ、公爵夫人がお見えになったわ」
エヴァルシアが足を踏み入れた瞬間、周囲の空気が変わるのを感じた。
視線が集まり、噂されているのが分かる。
「久しぶりですわね、公爵夫人」
優雅な笑みを浮かべた女性が、エヴァルシアに歩み寄ってくる。
彼女はレティシア王女。(情報によれば)王族の一員であり、貴族社会の中でも特に発言力を持つ女性の一人らしい。
「公の場に戻られるのを心待ちにしておりましたわ」
「……ご挨拶が遅れました。皆様、本日はお招きいただきありがとうございます」
エヴァルシアは丁寧に礼をする。レティシアは微笑を崩さないまま、エヴァルシアを観察するように見つめてくる。
「お身体の方はもう大丈夫なのかしら?」
「はい。おかげさまで、問題ありません」
エヴァルシアは表情を崩さずに答える。
彼女が言葉を選んでいるのが分かる。怖い。
この場にいる誰もが、彼女の状態を探っているのだ。
弱魔力の公爵夫人と呼ばれた彼女が、公爵邸に戻り、こうして社交の場に現れた。
それが何を意味するのか。彼女たちは、彼女をどう扱うべきかを見極めようとしていたに違いない。
エヴァルシアは、前世でもこうした空気を感じたことがある。学校で、職場で、家族の中で。こういう表向きの優しさの中にある計算の目線は…裏を返せば本心を探ろうとするための行動を表すものと知っている。
前世は生き続けた結果、「感情を表に出さない」生き方を身につけて自分を守っていたのだ。
そして今、貴族社会でも同じものが目の前にある。
……つまり前世の記憶ある私は簡単に乗り切れる!
「それでは、どうぞお席へ」
レティシアが優雅な仕草で手を差し出す。
エヴァルシアは静かに頷き、用意された席へと向かった。
エヴァルシアは、用意された席に腰を下ろし、周囲の貴族夫人たちを静かに見渡す。
庭園の中央には、白亜の大理石のテーブルが並び、その上には金細工の施された豪奢なティーセットが並んでいる。
貴族夫人たちは、それぞれの立場を象徴するかのように異なる装いをしていた。
レティシアは深紅のドレスに金糸の刺繍が施され、胸元には王族の紋章を象ったブローチが輝いており。
彼女の指先には、宝石が散りばめられた金の指輪が光を放っていた。
その横に座るヴィオレットは、藤色のドレスに銀細工の簪を挿し、繊細なレースをあしらった控えめな装いで優雅に佇んでいる。
対照的に、カミラは深い群青色のドレスに黒いレースを纏い、鋭い目つきで場の空気を探っていた。
彼女たちの服装や振る舞い一つで、
貴族社会の派閥や立場がはっきりと分かった。
王族派、中立派、貴族階級派。
それぞれが違う立場にありながら、この場に集まる目的は一つ。それは、公爵夫人であるエヴァルシアの“今”を見極めること。
レティシアが、上品な手つきでティーポットを傾ける。
「こちらは最近王宮でも人気の茶葉ですわ。アウレスト王宮専属の茶師が厳選した特別なブレンドで、月の光を浴びて育った『月影茶葉』を使っておりますの」
「月影茶葉……」
エヴァルシアは、カップから立ち上る香りをそっと吸い込んだ。
カモミールと蜂蜜の甘い香りが広がり、ほのかに柑橘の爽やかな香りが漂ってくる。一口含むと、優しい甘みと共に、ほのかな渋みが舌に残った。
「これは……とても繊細な味ですね。蜂蜜の甘みが際立つけれど、後味がすっきりしている」
「まあ、公爵夫人はお茶にも詳しいのですわね」
レティシアが微笑みながら、カップを手に取った。
「この茶葉は、特別な製法で夜にのみ摘み取られるため、魔力の流れを落ち着かせる作用もあるそうですわ。王宮では、夜の儀式の前に出されることが多いのです」
「魔力を落ち着かせる……それは興味深いですね」
「ええ。特に、魔力の循環を安定させることで、貴族たちの間では好まれておりますわ」
茶会の場ですら、こうして魔力に関わる話題が自然に交わされる。
貴族社会において、魔力はただの力ではなく、家格や影響力と密接に結びついていた。
エヴァルシアは静かにカップを置きながら、改めてこの世界の仕組みを理解しようとしていた。
「公爵夫人、ご体調が戻られて本当に何よりですわ」
ヴィオレットが穏やかに微笑みながら声をかける。
「ええ、私も長らく静養していましたが、こうしてまた皆様とお話できるのは嬉しいことです」
エヴァルシアは、貴族らしい微笑を浮かべながら静かに答えた。だが、その瞬間、レティシアの赤い唇がゆっくりと開く。
「まあ、以前の奥様とは少し雰囲気が変わられたように思いますわ」
「……そうでしょうか?」
エヴァルシアが表情を崩さずに問い返すと、レティシアは小さく首を傾げながら続ける。
「以前の奥様は……そう、どちらかというと控えめで、あまり前に出ることはありませんでしたわね。でも今日は、随分と落ち着いていらっしゃるように感じますの」
探るような視線が、じっとエヴァルシアを見つめていた。
「そうかもしれませんね」
エヴァルシアは、ティーカップを持ったまま、ゆっくりと答えた。
「以前は……あまり自分の意思を表に出すことがなかったのかもしれません」
「まあ」
周囲の夫人たちが驚いたように小さく声を上げる。
「ですが、こうして改めて公の場に戻った以上、私も公爵夫人としての務めを果たさねばなりません」
静かに、けれどはっきりと告げた言葉に、レティシアが微笑む。
「それは素晴らしいことですわ、公爵夫人。貴族社会は厳しくとも、それぞれの立場を持ってこそ成り立つものですものね」
「ええ」
エヴァルシアは落ち着いた表情で頷いた。
貴族夫人たちは、それぞれの思惑を巡らせているのが分かる。
彼女が“以前の公爵夫人”としての立場に戻るのか、それとも貴族社会の新たな一員として生きるのか。それを決めるのは、彼女自身だった。
馬車が公爵邸の門をくぐる。
馬車を降りると、そこにはアスティンの姿があった。
青みがかった銀髪が月光を浴び、まるで夜空に輝く星のように美しく光を放つ。彼の身に纏うのは、夜の闇のように深い藍色の貴族服。
「戻ったのか」
低く、落ち着いた声。
「ええ」
エヴァルシアはゆっくりと彼を見上げた。
彼は、彼女を守るために貴族社会と向き合っていた。
では、今度は彼女の番だ。
「公爵夫人として、務めを果たしてきたわ」
彼の瞳がわずかに揺れる。
「そうか」
それだけを言うと、アスティンはエヴァルシアの肩を軽く叩き、屋敷の中へと促した。
「……お疲れだろう。今夜はゆっくり休め」
エヴァルシアは静かに頷いた。
「……そうね」
静かな夜が、二人を包み込んでいった。