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2 この世界の常識と、公爵家の責務


王都の一角にひっそりと佇む名医の屋敷の暖かな朝の光は窓から差し込んでいて気持ちいい。物静かで柔らかい布団の心地よさに、エヴァルシアは微かに瞼を震わせる。


この屋敷は大きな病院ではなく、特別な治療が必要な者だけが訪れる場所。

私のような特殊な魔力の病を持つ者や、貴族たちの間で隠された症例の治療が行われることで知られているので普通の診療より数が少ないらしい。


あれから意識がはっきりと戻ったのは、名医の屋敷に運ばれてから数日が経った頃だった。

最初の数日は、思うように体を動かすこともままならない。

魔力暴走の影響か、体の奥深くが鉛のように重く、少し身じろぎするだけでも全身の力が抜けていく感覚に襲われる。

ただ、日を追うごとに少しずつ感覚が戻ってきた。


初めて起き上がったのは、目覚めて三日目のこと。


エヴァルシアはゆっくりと立ち上がり、侍女ではなく、屋敷の看護師の手を借りて足を動かした。


体の奥にまだ残る鈍い疲労を感じながらも、ようやく自分の足で立てるようになったことに安堵する。


「焦らずにね。魔力の影響で身体が完全に元通りになるには、あと数日はかかるわ」


屋根付き看護師が優しく声をかける。


四十代ほどの女性で、経験を積んだ落ち着いた雰囲気を持ち、短くまとめられた栗色の髪と、丸い眼鏡が印象的だ。


「ええ、分かっています」


静かに答えながら、エヴァルシアは窓の外を見つめた。

屋根付き看護師は毎日欠かさず部屋を訪れ、体調を確認しながら、食事や薬の時間を管理してくれる。


温かいスープを差し出され、エヴァルシアはゆっくりとスプーンを口に運ぶ。

この世界に来てから、まともに味わうことができた初めての食事。香草の香りが仄かに漂い、塩気の効いたスープは胃に優しく染み渡る。


…美味しい。病院食が美味しいと思うなんてどんな贅沢な気分だろう。報われてる気がする!


「うんうん。少しずつ食事も摂れるようになってきたし、回復は順調ですね」


味わいながら食べ進めていると名医が部屋に入り、穏やかに微笑みながら彼女の様子を確認した。


彼の顔には深い皺が刻まれていたが、その表情には長年の経験と、患者を気遣う優しさが滲んでいる。


滲んでいる。…五十代半ばってとこかしら。


「今日はもう一度、簡単な診察をしておこう。横になってくれ」


エヴァルシアはベッドへ腰を下ろし、名医が手をかざす。彼の手からほのかな魔力が放たれ、体の状態を診断していく。


「……うん。魔力回路の乱れも落ち着いてきている。魔力暴走の影響で、全身の魔力回路が乱れ、一時的に身体機能が低下していたが、今は回復しつつあるな」

「そうですか……よかった」


エヴァルシアは呟くように答える。名医は慎重に言葉を選びながら、処方された薬についても説明を続けた。


「この薬は、魔力の循環を安定させる効果がある。服用を続ければ、数日以内には完全に回復するだろう」


エヴァルシアは渡された手元の小瓶を見つめた。

透明な液体が揺れる薬瓶は、魔力を抑える効果を持つものらしい。


「ただし、今後も魔力の暴走を防ぐために、定期的な魔力診断が必要になるだろう。おそらく、公爵邸に戻ってからも、体調管理には十分に気を配らねばならん」

「………」

「しばらくは、無理せずゆっくり休むといい。君の魔力は……とても繊細なもののようだ。お大事に」


そう言い残し、名医は穏やかに微笑んだ。


エヴァルシアは名医の言葉に小さく頷き、エヴァルシアは小さく息を吐く。


「公爵が迎えに来るのは、夕方らしいわ。どうぞお大事になさってね?」

「はい…お気遣いありがとうございます」


さらに屋敷付き看護師に気遣いされたことを少し嬉しく思いながら、気まぐれに外の窓を見つめる。


この屋敷で過ごす時間は短かったけど、この世界での自分の存在は、実感が湧かないまま。


そして、その日の夕方、彼女は久しぶりに部屋の窓を開けた。

涼やかな風が肌を撫で、外の庭からは鳥のさえずりが聞こえる…自然の音は飽きないなあ。


手元の薬瓶を眺めながら、ふと、自分の姿が映る鏡に目を向けた。

長く流れる銀色の髪が、やわらかな光を帯びながら肩に滑る。透き通るような白い肌と、細く整った指。

そして、鏡に映る瞳は、淡い青と緑が溶け合う不思議な色をしていた。


前世とは違う、自分の姿。こんなに綺麗だなんて。

綺麗になりたかった自分からしたら大いに嬉しいことなのだけど。……これが、私なのね。


その時、扉が静かに開いた。


「体調はどうだ?だいぶ良くなったか?」


低く落ち着いた声に振り向くと、そこに立っていたのはアスティンだった。


彼女は、これまで薄暗い部屋の中で彼を見ていたが、こうして明るい場所で正面から向き合うのは初めてだった。


夕日の光の下で彼を見た瞬間、思わず息をのむ。

銀糸のように輝く髪が、柔らかく揺れ。彼の髪はただの銀ではなく、月の光を浴びたような微かな輝きを帯びていた。

そして、深い青紫の瞳。まるで星の煌めきを閉じ込めたようなその瞳は、冷たくもあり、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。


端正な顔立ちは、王族に匹敵するほど整っていた。

貴族としての威厳と気品が滲み出ており、それでいて隙のない存在感を持っている。


そして彼の服装は、濃い藍色の軍服風のロングコートに、銀糸で繊細な紋様が刺繍されているものだった。

高めの襟元には、白いシャツが覗き、胸元には公爵家の紋章が刻まれた金のピンが留められている。

腰には細身の剣が下げられ、その立ち姿はまさに貴族の中の貴族、気高い騎士そのものだった。


……綺麗な人。そう呟いてしまうくらいに。


魅入る彼女にアスティンはゆっくりと部屋に足を踏み入れ、椅子に腰を下ろした。


「今日、公爵邸へ戻る」


淡々と告げられたその言葉に、エヴァルシアは軽く瞬きをした。


「戻る……?」

「お前の療養は一通り終わった。名医も、もう問題はないと判断した」


静かな声だったが、それが決定事項であることは、彼の態度から伝わってくる。


「……そう」


彼女は視線を落とし、手のひらをそっと握りしめた。

公爵邸へ戻る――それはつまり、本格的に「公爵夫人」としての生活を始めることを意味する。


……遂に、私の知らない世界が始まるのね。


「支度を整えろ。すぐに出発する」


アスティンはそう言い残し、部屋を後にした。

エヴァルシアは静かに立ち上がり、着替えを手に取る。

名医の屋敷では質素な寝間着しか着ていなかったが、公爵邸へ戻るにあたり、相応しい衣服を選ばなければならなかった。


用意されたのは、淡いブルーのドレス。

細やかな刺繍が施され、袖口には白いレースがあしらわれている。シンプルだが、品のある装いだった。


エヴァルシアは鏡の前で静かに身支度を整え、深く息をつく。


これが、私の新しい人生なのだとしたら、ちゃんと公爵夫人として振る舞えるだろうか…?


そんな疑問を抱えながらも、彼女は馬車へと向かった。




馬車が動き出すと、エヴァルシアは窓の外に広がる風景に目を向ける。


王都の石畳の道を、馬車は静かに進んでいく。


この世界に転生して以来、彼女がまともに外の景色を見たのは、これが初めての体験。


市場には活気があり、露店には果物やパンが並べられ、店主たちが客と賑やかに言葉を交わしている。

道行く貴族たちは優雅に歩き、平民の子供たちが道端で遊んでいた。

石造りの家々が並び、通りのあちこちには魔道具を売る店の看板も見える。


前世の都会の喧騒とは違うが、それでも確かにここには人々の営みがあった。


「……本当に、違う世界なのね」


ぽつりと呟いた言葉に、アスティンが微かに視線を向ける。彼は窓の外を見つめたまま、静かに口を開いた。


「そうだ。ここは、お前が知る世界ではない」

「え……そう、ね」

「……」


エヴァルシアは目を伏せ、馬車の中に流れる静かな空気を感じる。


アスティンの話聞いて思ったけど、アスティンとは婚姻関係にあるものの、こうしてまともに二人きりで過ごすのは、数えるほどしかなかったという。正直……初夜って、どうしてたのだろう。疑問でもあるけど言わない方がいいのかな。


前世の記憶を思い出した初日を思い出しながら、彼女はふと問いかけた。


「どうして私は、名医の屋敷に運ばれたの?」


アスティンはしばらく沈黙した後、低い声で答えた。


「お前の魔力暴走が起こった直後、お前は意識を失っていた。公爵邸で対応できる状態ではなかったため、名医に診てもらうのが最善だった」


彼の言葉に、エヴァルシアは静かに息を呑む。


魔力暴走の記憶はない。ただ、気がついた時には、名医の屋敷のベッドの上だったから。聞かなくちゃ。


「……私は、何かを壊したりした?」

「屋敷の一部と、魔力障壁の一部が損傷した。それだけだ」


アスティンは淡々とした口調で答える。彼の声音からは、怒りや非難の感情は感じられない。


だが、それが余計に、エヴァルシアの胸に鈍い重みを落とした。

彼女が引き起こした暴走がどれほどのものだったのか想像もつかなかった。……そんな威力をこの彼女が持っていたなんて想像しただけでも恐ろしい。


被害は少なかったと言われても、それがどれほど危険なものなのかは、彼の態度が示していた。


「……迷惑をかけたわね、随分と」

「そう思うなら、今後は制御できるよう努めることだな」


アスティンはそれ以上何も言わず、再び窓の外へと視線を向けた。


馬車はしばらく街を進み、やがて貴族街へと入る。


庶民の住む地区とは違い、手入れの行き届いた石造りの邸宅が立ち並び、道幅も広い。

そして、その奥にひときわ大きな建物が姿を現した。

荘厳な造りの公爵邸。王族の居城にも匹敵するほどの格式を持ち、銀を基調とした外壁が夕日に輝いている。


「着いたぞ」


馬車がゆっくりと停まり、扉が開かれる。


アスティンが先に降り、手を差し伸べた。


エヴァルシアは彼の手を見つめ、一瞬ためらったものの、そっとその手を取る。彼の手は驚くほど温かかった。


「行くぞ」


アスティンの言葉に導かれるように、エヴァルシアは公爵邸の扉の向こうへと足を運んでいく。


公爵邸の扉が重厚な音を立てて開かれると、エヴァルシアはゆっくりと足を踏み入れる。その光景は驚きの連続だった。


長い回廊の先には広大なホールが広がり、高くそびえる天井には豪奢なシャンデリアが輝いている。

大理石の床は滑らかに磨かれ、深紅の絨毯が堂々と敷かれて。控えていた使用人たちが一斉に頭を下げる。


「公爵閣下、ご帰還お待ちしておりました」


恭しく礼をする執事を横目に、アスティンは歩みを進める。エヴァルシアもついていくかのように彼の後を追う。


公爵夫人としてここに住んでいたはずなのに、まるで初めて訪れた場所のような感覚が拭えない。


ここは、本当に私の家なの?


彼女は自分に問いかけるが、答えは見つからなかった。


「部屋へ案内しろ」


アスティンが短く命じると、執事が静かに頷き、エヴァルシアを先導する。


彼女の部屋は、邸内の奥まった場所にあった。


名医の屋敷とは比べ物にならないほど広く、天蓋付きの豪華なベッド、繊細な刺繍が施されたカーテン、大理石の暖炉、そして窓の外には手入れの行き届いた庭園が広がっている。


「今後の体調管理について、専属の医師と相談しながら決めていく」


後ろから聞こえてきたアスティンの声に、エヴァルシアは静かに振り向く。

彼は部屋の入り口で立ち止まり、彼女を見つめていた。


「必要なものがあれば、使用人に言え」

「……ええ」

「それと」


アスティンは一瞬、言葉を切った。


「? 何か」

「……いや。休め」


そう言い残し、彼は静かに扉を閉める。


部屋に残されたエヴァルシアは、ゆっくりとベッドへ腰を下ろす。肌に触れるシルクのシーツが心地よい。

だが、それ以上に感じるのは、ここがあまりにも「現実的な」場所であるということだった。


ここは、自分が暮らしていたはずの場所。


だが、前世の記憶を持ったままの彼女にとって、それは遠い過去のように感じられる。そして、彼女は気付いていた。


アスティンが、彼女の変化に気付いていることを。

以前のエヴァルシアとは明らかに違う…と。


感情をあまり表に出さず、言葉数も少なくなって。彼にとって、それは不可解な変化だったに違いない。


それでも、私はもう以前の私ではない。……でも何事もなかったのが幸いかも。

移動で疲れるとは思ってなかった私は静かに目を閉じた。


公爵邸に戻り、豪奢な寝室に身を置いているというのに、不思議なほど現実味がない。この場所で過ごした記憶はある。だが、今の彼女にとっては「かつての誰かが暮らしていた場所」のように感じられる。


ベッドの上に座り、部屋をぐるりと見回した。

棚には高価な装飾品が並び、衣装棚には数多くの豪奢なドレスが収められている。


それらの一つ一つが、自分のものであるはずなのに、どこか他人のもののように思えてしまう。


「……私、本当にここで暮らしていたの?」


ぽつりと呟いた声は、広い部屋の中であまりにも虚ろに響いた。その時、扉の外で微かな気配を感じた。


足音はしない。けれど、確かに誰かが立ち止まっている気配がする。エヴァルシアはそっと顔を上げ、扉の方を見つめた。


「……公爵邸は、あなたの家なの?」


言葉にしたのは、誰に向けたものでもなく、自分自身のための確認だった。扉の向こうの気配が、ほんのわずかに動いた気がしたが、返事はない。


代わりに、しばらくの沈黙の後、ゆっくりと足音が遠ざかっていく。彼女は静かに息を吐いた。


扉の向こうにいたのは、おそらくアスティンだったのだろう。彼は何か言おうとしたのか、それともただ様子を見に来たのか。


どちらにしても、今は深く考える気になれなかった。


「……休もう」


そう呟き、ベッドへと身を沈める。

ふかふかの羽毛布団に包まれると、ようやく少しだけ緊張が解ける気がした。目を閉じれば、名医の屋敷での静かな時間が思い出される。


……あの場所の方が、よほど落ち着いて居られた気がする。


ここは「家」なのだろうか。少なくとも、そう思えるようになるまでは、もう少し時間がかかりそうだ。


こうして、公爵夫人としての新たな生活が始まりは呆気なく過ぎていった。

それが、どんな未来を描いていくのかは、まだ分からないけど。ただ、もう後戻りはできないことだけは、確かだった。



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