1 目覚めたのは屋敷? そして彼の正体は…
いつも聞こえる冷蔵庫入れた光の音も。外の景色のカラスの声も。上の方が音を立てて聞こえる騒音も何もないような静寂の中、ふわりと揺れる布の感触が肌を撫でる。微かに揺れる炎の音が聞こえ、ゆらゆらと揺れる光がまぶたの裏を照らしていた。
意識の奥底からゆっくりと浮かび上がる感覚に、彼女はゆるりと瞼を開いてみる。
暗闇で視界がぼやけて見えないけど目に映るのは見覚えのない天井。白と金が織り交ざった美しい装飾が施され、どこか格式のある雰囲気を醸し出している…らしい。
横たわるベッドは柔らかく、掛けられた布団は驚くほど滑らかな肌触りだった。視線を巡らせると、アンティーク調の家具が整然と並び、温かみのある色合いの絨毯が敷かれている。
ここはどこなのか。見覚えなさすぎる。見覚えたらこんなこと思わないよね。
ゆっくりと上体を起こそうとするが、全身にじわりと広がる熱が焼けつくような感覚を伴い、力が抜ける。
何か違う。またあの一室に住むことになるのはもうさすがに気が重いのに。
ふと腕を持ち上げると、細く繊細な手が視界に入り私は瞠目する。指先を動かしながら、その感触を確かめる。前世の自分とは異なる柔らかさを持つ肌。
上品な一枚の布のワンピースも着用されていて。長い髪が肩から滑り落ち、ふわりと布の上に広がった銀糸のように美しい髪。
指でそっと挟み、確かめるように撫でる。さらりとした感触はまるで絹のよう。
違和感は、それだけではない。体の奥底から脈打つような温かい流れ。心臓の鼓動とともに全身を巡るそれは、これまで感じたことのないものだった。
なにこれ…?こんな温かい身体だった?ファンタジーでいうまさか魔力とかそんなのだったら流石に……
そう思った瞬間、呼吸が乱れそうになる。
全身鉛みたいに重いし痛い。明らかにおかしすぎる。以前はこんな痛みはつらい時に起こった時のみなのに今はこんな全身痛いのだっけ?誰かに憑依したとかそういう…いや ありえるありえる!
鼓動が早まる。冷たい汗が頬を伝い、息をしようにも肺が軋む体感だ。思うように動かせなかった。
「……本当に、何が起きてるの?」
美しい細々とした綺麗なとは違う、掠れた声が静かな空間に溶ける。喉は乾き、声を発するのも難しいほど上手く喋れない。
思考がまとまらないまま、脳裏に浮かび上がるのは、途切れ途切れの前世の記憶。
前の人生は、光のない日々を生きていたはず。
でもいつの間にか死んだということは、もうあの人生を送らなくて済む。でもこの身体は一体誰のもの…?
その時、扉の向こうから微かな音が聞こえた。
誰かが歩いてくる。
とっさな感知をしるすべもなく、規則正しく廊下を踏みしめる足音が、ゆっくりと近づいてくる。緊張が走り、無意識に唾を飲み込む。
足音は扉の前で人の気配を感じる。暫し短い沈黙が落ちたあと壊れないよう慎重に扉が開いた。
強い存在感を持った誰か。静かな夜の空間の中で、そこにいるだけで場を支配するような人物の気配だった一人の男性。
正装と言える服装を着こなした長身の美しい銀髪が夜の灯りに揺れ、漆黒の瞳が冷静に彼女を見守る。
その瞳には冷静な光が宿っていたが、その奥に何かを秘めたような気配があるのは…きっと私の勘違いかもしれない。
彼は一歩、静かに部屋へ足を踏み入れると、低く落ち着いた声で言った。
「目が覚めたか、エヴァルシア」
「……エヴァルシア?」
その声音は低く落ち着いており、どこか静かな威厳を感じさせた。しかし意図もせず彼女は反射的に口にする。
聞き慣れない名。それが、自分のものだというのか。
いや私は前世だから…えっと…
「……? お前の名前だ。エヴァルシア・シルヴァティス、公爵夫人だろう?忘れたのか」
彼は首を傾げるも、ゆっくりと部屋の奥にある椅子に腰掛けた。
「公爵夫人……?」
公爵夫人。その言葉に、彼女の思考が一瞬止まる。
しかも彼、エヴァルシアって呼んでたよね…?
戸惑う彼女を見つめながら、彼は淡々とした口調で続ける。
「ここはシルヴァティス公爵家の領地内にある名医の屋敷だ。お前は魔力暴走を起こした後、昏睡状態に陥り、この屋敷で療養していた」
「……私が………」
淡々とした声音で告げられる言葉の意味を、彼女は咀嚼するようにゆっくりと考える。
だが、なぜいきなり公爵夫人などという立場に?
シルヴァティス公爵家といった…?
小説で読んだことあるけど王族並ぶほどの格上の爵位では…?そして領地広いなかの屋敷だって?どういうことだ。私の身体は公爵家並のすごい人の身体で生きてたってこと…?
「……まさか、ほんとうに覚えていないのか?」
彼の言葉に、夢中になって思考を巡らせていた彼女は息をのんだ。
「ええ、覚えてません」と即答したいところだけど身体の痛さと声が出せる事が少ないので黙っておく。
暫くすると彼は漆黒の瞳に影が落ち、わずかに鋭い視線を感じた。
「忘れているかわからないが。俺と婚約している。そして俺が、お前の夫、アスティン・シルヴァティスだ」
その言葉に、彼女は驚きを隠せなかった。
ふと視線を落とすと、左手の薬指に美しく繊細な指輪が光っている。
私は、結婚しているの?彼が夫?まるで現実味がなかった。
冷静な顔立ち、鋭い眼差し。そのどれもが美しく整いすぎていて、まるで絵画の中の登場人物のよう。
「…エヴァルシア。痛みは大丈夫か?」
どう答えればいいのか分からなかった。
本当の名であったら嬉しいのに。
確かに前世の記憶はある。しかし、この世界のことは何も分からないけど、できる限りの意思疎通はしときたい。言葉は発せなくても伝えられると思い指先をぴくっと動かす。
彼女の様子をじっと見つめながら、アスティンは微かに眉を寄せた。
「そうか……以前のお前とは、それにしても雰囲気が違うな」
「…………っ」
「何かが変わったように感じる。魔力が正常だからかもしれんが ……よかった」
何が変わったのか、それは彼女自身が一番分かっているのに言葉が詰まる。前世でもそうだったが言葉を「どう言ったら伝わるか」は私にとってもどかしい事でもあり、苦戦していたことだからだ。
けれど、それを説明することはできない。感覚が現実的だと理解出来たから。
静かに息を吐くと、エヴァルシアは小さく呟いた。
「…あの、ここのこと、教えて貰えますか?」
アスティンはしばらくエヴァルシアを見つめていたが、やがて小さく頷いた。
アスティンの説明を聞きながら、少しずつこの世界について理解し始めた。
ここはグランディオス・アウレスト。「壮大なる黄金の王」通称グランディオス王国。そしてこの世界は魔力が存在し、貴族制度があり、自分はシルヴァティス領地に嫁がれ公爵夫人とされている…らしい。
…説明聞いて思うけど、前世と比べると、あまりにも感覚が違いすぎる。
前世の記憶ある彼女は、ただ生きることに精一杯だった。
幼い頃、家族の中で居場所を求めていた。母は優しかったが、姉たちとは距離があり、家庭の事情に振り回されることも多かった。
成長するにつれ、学校では孤立し、いじめを受ける日々が続いた。友人と呼べる存在は少なく、周囲との関わりが薄れていくにつれ、自分の感情を表に出すことも減っていった。
社会に出た後も、転職を繰り返しながら、どうにか生活を維持していたが、心も体も限界を迎え。
結局、働くこともできなくなり、一人で静かに療養することになったけど。人と関わることが苦手になり、ただ静かに生きるだけの毎日だった。
…でもあの生きることに弱気で落ち込むほどやわではなかった。何かは欠如したけどね。
ここ世界で、公女は必要とされていたのかな?
そう考えながら、ゆっくりと視線を上げる。
「私が……貴族という立場なのはわかったんですが…魔力暴走した?」
徐々に枯れた声が治ってきたばかりのぽつりと呟いたエヴァルシアの言葉に、アスティンが視線を向ける。
「実感が湧かないのか」
「……当然よ。私の知っている世界に貴族や魔力なんていなかったもの」
「世界?とはどういう意味だ」
思わずこぼれた言葉に、彼は僅かに目を細める。
この世界のことを知らない者の反応だと、察したのかもしれない。言ってしまったものは取り消せないけど。
「…まあ、いい。領地内で小爆だが魔力暴走を起こした後、お前は意識を失っていた。さすがに心配かけさせるのも癪だが、様子見として当分ここで療養することになった」
彼の言葉は淡々としていたが、その視線の奥には何かを探るような鋭さがあった。
何を考えているのかは分からないが、エヴァルシアに対してただの説明をしているだけではないような気がした。
「……魔力暴走のこと、詳しく知りたいわ」
彼の言葉の端々から、それがどれほど重大なものなのかを感じ取っていた。
「お前が魔力暴走を起こしたのは……偶然ではない」
アスティンの言葉に、胸がざわつく。
「偶然じゃない?」
「詳しい話は、もう少しお前の体調が落ち着いてからだ」
それ以上、彼は語らなかった。
「じゃあここは、あなたの屋敷なの?」
彼の領内の屋敷ならば、公爵邸内なのではないか。けれど、違和感がある。貴族の家にしては妙に静かで、どこか他の場所と隔離されているような雰囲気があった。
アスティンは少し間を置いてから答えた。
「いや、ここは名医の屋敷だ。邸内ではない。ちゃんとした病院施設だ」
その言葉に、彼女は思わず瞬きをした。
「名医……ってことは、私の?症状は…」
「お前の状態を診るために、一時的にここへ運ばれた。そうだな。今のところ、ただの魔力暴走としか言えない」
「ただの魔力暴走……私に魔力があるの?」
「ああ 嘘偽りなくある」
納得しつつも、疑問が浮かぶ。
「ということは普通の魔力暴走は治せるってこと?」
「お前の状態が特殊だからだ。通常の治療ではどうにもならなかった」
魔力暴走は病として扱われているということだろうか。にわかに信じ難い世界だわ。
「……私は、そんなに危険だったの?」
アスティンは少し視線を落とし、静かに息をついた。
「それも、追々話す」
「……分かった」
まだすべてを話してはもらえないが、彼が何かを隠しているのは分かった。とりあえず疲れたから眠ろう。
彼女は静かに目を閉じ、再び深く息をついた。
その様子を見ながら、アスティンは静かに立ち上がる。
窓際に歩み寄り、外の景色を眺める彼の横顔は、静かだが、どこか沈んでいた。
彼はこの状況をどう思っているのだろう。
妻であるはずの自分が、記憶を失ったかのように振る舞い、まるで別人のような雰囲気を纏っている。
彼にとって、自分はどういう存在なのか。そんな疑問が浮かびながら、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。
彼が何を考えているのかは分からない。
けれど、眠りにつく前、彼の静かな気配を感じながら、彼が見せたわずかな沈黙が気になっていた。