タマは二度しゃべれない
絹江さんは数年前に夫と死別してからは、残された広い屋敷に一人で暮らしています。
子供は娘が一人いるのですが、今は結婚して家庭を持ち、車で一時間ほどの隣町に住んでいるため、会うのは二、三カ月に一度でした。
ただそうであっても、絹江さんは少しも淋しくはありませんでした。日々やることは多かったし、家には飼い猫もいたからです。
その飼い猫は名はタマといい、絹江さんとは子猫のときからの付き合いで、夫がどこからか拾ってきた捨て猫でした。
この日の朝。
初夏のまぶしい陽ざしのなか、タマは広い庭を寄り道しながら通り抜け、屋敷の外へと出かけていきました。雨や雪が降らないかぎり、タマはこうして毎日、自分のナワバリの見まわりを兼ね、朝の散歩に出かけてゆくのです。
と、そこへ……。
今朝は絹江さんも庭に姿を見せました。
庭には多くの植木のほかに菜園もあります。
家庭菜園は夫の趣味で、石ころだらけの庭を数年かけてこつこつと耕し、野菜や花が育つような土壌に変えたのでした。
夫の死後。
絹江さんは庭が荒れることを嫌い、夫がやっていた作業を見よう見まねで引き継ぎ、こまめに庭の手入れをしてきました。また菜園を続けることで、今も亡き夫がそばにいるような気がしたのです。
そして今日は、先日ホームセンターで買っておいたナス、ピーマン、ミニトマトの苗を畑に植えます。
苗はそれぞれ五本ずつ。
その数に合わせて畑に十五カ所、クワを使って苗床を作っていきました。
――けっこう大変だわね。
絹江さんは女性、さらにご老体。一つの穴を掘るにも一苦労でした。
――それにしても今日は暑いわねえ。
穴を掘るたびに息が上がります。
そして汗が噴き出します。
作業を始めたときより陽射しが強くなって、気温も上昇していたのでした。
――そうだ、お水を用意していたんだわ。
冷やしたペットボトルのお茶を縁側に用意していたことを思い出しました。
全部の苗の穴を掘ったところで一休みです。
絹江さんは苗植えの作業をいったんやめ、それから縁側の先によいしょと腰を下ろしました。
絹江さんがタオルで汗を拭きながら、冷たいお茶を飲んで喉を潤していると、そこへタマが散歩から帰ってきました。
タマが目の前を通ります。
「タマ、今日は暑いわねえ」
絹江さんは何の気なしに声をかけました。
するとそれにタマが立ち止まって、「暑いねえ」と返事をしたのでした。
猫が人間の言葉をしゃべったのです。
「えっ! タマ、あんたいま……」
絹江さんびっくりしてタマの顔を見ました。
タマはしまった、まずかったなあというふうな顔をして、それから言い訳するようにニャアーといつものの声で鳴きました。
「飼い猫は一生に一度だけ、人間の言葉をしゃべるんだってよ」
夫が生前、どこから仕入れてきた話なのか、そんな冗談を真剣に話していたことを思い出しました。
たとえそれが本当のことだとしても、絹江さんはもっと大事なときにしゃべるものだと思っていました。
それが天気のことなんかで、しかも何でもないことに一度きりのチャンスを使ってしまうとは、タマは暑さで頭がボーとしていたのか、それともつい油断したのか、それにしても何とも間が抜けています。
ですがそれ以前に……。
猫が人間の言葉をしゃべるとはとても思えません。ですので先ほどのことは、この暑さで自分の方がおかしかったのだと思うようにしました。
絹江さんは畑仕事の続きを始めました。
先ほど掘った穴に肥料をまき、続いてキュウリ、ピーマン、ナスと、それぞれの苗を一株ずつ、苗用ポットからその穴へと植え替えていきました。
最後、水やりをすれば終わりです。
空になった苗用ポットやクワを片付け、水道の水をジョウロに移していたときでした。
絹江さんは急にめまいがしてきました。
周囲の景色がグルグルと回り、体の力が一気に抜けていくようでした。
――どうしたのかしら?
絹江さんはフラフラとした足取りで、やっとの思いで縁側までたどり着きました。そしてそのまま倒れ込むようにして横になったのでした。
めまいはひどくなる一方で、やがて目の前が薄暗くなり、吐き気もしてきました。それに何だか意識も薄れてゆく感じがします。
――熱中症?
絹江さんは娘を家に呼ぼうと、急いでズボンのポケットからスマホを取り出しました。
娘を呼び出しますが、すぐに出てくれません。
このときすでにスマホの画面は見えず、ほかに助けを呼ぼうにも、その操作はできなくなっていました。
――このまま死んでしまうのかな?
そんなことをぼんやり考えていると、誰かに頬をツンツンとつつかれました。
絹江さんが覚えているのは、それが最後でした。
絹江さんが正気に戻ると、そばに付き添っていた娘さんがすぐに話しかけました。
「お母さん、わかる? ここ病院よ」
絹江さんは病院のベッドで寝ていたのです。
「ええ……」
「よかった、もう大丈夫だから」
「誰がここに?」
「それがね……」
娘さんがこれまでのことを話してくれました。
「お母さんからの電話に出たら男の人の声がして、すぐに家に来いと言われたの」
あとはタマのニャアーニャアー鳴き騒ぐ声が聞こえていた。こんなこと初めてだから急いで駆けつけてみたら、お母さんが縁側で倒れていた。
それで急いで救急車を呼んだのだという。
「そうだったの……」
絹江さんはスマホで娘を呼び出したところまでは覚えていましたが、「すぐに来い」と言った記憶はありませんでした。
――もしかしてタマ?
そう思いましたが、人間の言葉をしゃべれるのは一生に一度だけという夫の言葉を思い出し、すぐに思い直しました。
そう、あのときタマはうっかり絹江さんに返事をしてしまい、もう人間の言葉をしゃべることはできなかったのです。
「男の人の声がしたって?」
「うん、それで私が家に着いたときは誰もいなかったのよ。でね、電話のその人の声、聞き覚えのある懐かしい声だったんだけど」
「誰だったんだろうね」
二度しゃべれないタマにかわって、あのとき私を助けてくれた人……。
絹江さんは思わず叫んでいました。
「お父さんだったのよ!」