とれたて食材の鍋をあなたに
*食事前の閲覧注意*
秋の夜は突然やってくる。
夕暮れの時間が仕事終わりと同じくらいになってきた。
先月までは、帰宅してもまだ辺りが明るかったのに。
帰る途中、パトカーが何台も固まって駐車しているのが見えた。コンビニの駐車場だから、またアクセルとブレーキの踏み間違いで店前のポールをぶつけたりしたのだろう。
車を持たない生活の俺には関わりはないが、轢かれるのはごめんこうむりたい。
「ああ、日暮れが早くなったからなぁ。交通事故には気をつけないと」
駅から歩く短い時間でも、どんどん日が暮れていくのがわかる。
すっかり暗くなった中、マンションの鍵を開ければ、ただよってくる夕飯の匂い。
「ただいま〜」
「おかえりなさい」
キッチンに立つ妻の手元では、くつくつと煮込まれた鍋があった。
「最近冷えてきたから。今日は、ポトフにしたわ」
「洋風鍋だな」
「鍋が一番かんたん。今度はあなたが作ってね」
ポトフを言い換えたのか悪かったか。
とんだやぶ蛇だ。
着替えを済ませて、食器をテーブルに並べる。
妻は、冷蔵庫からタッパーをいくつか出した。
「今日はレンタル農園に行ってきたの。採れたてのミニトマトを湯むきして、鍋にしようと思って」
「野菜もいいけど、肉も欲しいな」
「もちろん用意しました」
「それはそれはありがたや」
「何よ、それ」
ふふっと笑う妻の目を見て、俺は少しだけ口元をゆるめた。
卓上コンロの上に鍋を乗せる。
軽くお玉で中を動かすと、白い卵が幾つも出てきた。
「うずらの卵かな?」
「あ、それも今日とれたてなの。農園の持ち主の方が飼っているんですって」
「へぇー」
くつくつと音をたてる鍋に、妻がいくつかのタッパーの中身を勢いよく入れる。
「トマト多くない?」
「溶けるから多めにね。あとは、ツミレと色々」
「なんだか丸いものが多いね」
「トマト食べた時に思ったんだけど、口の中で弾ける感じが美味しいなって思ったの」
「あぁ、たしかに」
しゃべりながら、皿やコップを動かして、食べる準備を終える。
あつあつの鍋は、夏には食べられなかった料理だ。
鍋用の小さなお玉ですくい、お椀によそう。
あつあつのトマト、うずらの卵、肉で巻かれたつくねが口の中でぷつっと弾ける。旨味が一瞬で口の中に広がり、熱いけれど止まらない美味しさだ。
「あ、これチーズか?肉で巻いてあるけど、なんかトロッとしたのが。いや、違うな。コラーゲン?」
「あ、それ当たりだわ。色々やろうとしたけど、挫折したの。それは一個だけ」
「ふぅーん。うまいよ」
「そう、よかった」
にっこりと笑う妻の目は、綺麗な二重瞼だ。
最近ようやく躊躇いなく見られるようになった。
トマトが溶け出して、そこにチーズと冷やご飯を入れて、締めのご飯にする。
あつあつなので、二人でふーふーと間の抜けた音で冷ます。
ため息を繰り返しているようだ。
そんなことを思ったからか、記憶が甦って、思わず言ってしまった。
「目は、大丈夫なのか?」
「もう一年も前だから」
「そうか」
冷めたチーズ雑炊を、ひと口食べた。
妻の目は、整形手術で二重瞼になった。
俺は一重瞼の妻と結婚し、特に顔も性格も不満はなかった。
ただ、子どもも出来ずに何年か経つと、単調な結婚生活に慣れきってしまい、魔がさした。
飲み屋で知り合った、妻と同い年の女と浮気をした。
特に美人でもないが、話していて面白かった。
4回目の時、妻にバレた。
知らないうちに、俺と妻のスマートフォンは位置情報を共有するようになっていた。
「浮気よね」
「すまん」
「若くもないじゃない。何であの人なの?」
「すまん。本当に、俺が悪かった」
「ねえ、何が違うの?私、そんなにひどい見た目じゃないと思うけど」
「悪くない。ただ、魔がさしたんだ」
ひたすら頭を下げて、妻に謝り続けた。
しん、と急な沈黙が妻との間に落ちる。
「………二重瞼だったわね。あの人」
「……そ、うだったか?」
「もういい」
妻はそう言うと、そのまま部屋を出て行った。
しばらく経って、妻が有給を取って、二重瞼の整形手術をして帰ってきた。
少しだけ腫れぼったい目を隠すように、部屋の中でもサングラスをかけていた。
食事とトイレ以外は部屋にこもって過ごしていた妻が、ある日、嬉しそうに腫れのひいた二重瞼になった目を見せてきた。
「……ごめん、もう二度と浮気なんかしない」
「何泣いてるのよ。綺麗な二重瞼になったでしょ?」
「うん、そうだな」
妻をどれだけ傷つけていたのかを、この時、俺は痛感した。
浮気はしない。
相手の女と会った飲み屋にはもう行かない。
俺は妻にそう約束した。
それなのに。
猛暑日が続いた夏のある日。
涼しさを求めて、新しくできた近所のコンビニへ買い物に行くと。
レジに立つ店員が、浮気相手の女だった。
慌てて別の店員のレジで支払いを済ませて店を出た。
心臓が早鐘を打つ。
浮気相手の女の顔を、妻は知っている。
謝罪をして、もう会わないと決めていたが、あまりにもマンションに近すぎる。
俺は二度とあのコンビニへは行かない。しかし、妻は。
俺は震える声を抑えながら、帰宅後すぐに妻に伝えた。
「……近くにできたコンビニには、行かないで欲しい」
「なぁに?何かお化けでもいるの?」
「……お、れが、浮気した、あの人が店員でいたんだ」
一瞬で妻の表情が抜け落ちた。
「俺も、もう二度と、あのコンビニには行かない。だから、お前にも、行って欲しくないんだ」
二重瞼になった妻は、以前よりも笑うようになった。けれど、それが苦しみを追い払うように頑張って作り上げた笑顔のように、俺には見えていた。
妻を苦しめたくない。
「もう、終わったことなんだ。だから」
「うん、わかった」
妻はそう言うと、ぎこちなく口元だけの笑みを作った。
「引っ越してもいいんだ」
「嫌よ。なんでその人のために、私たちが引っ越さなきゃいけないのよ」
「そうか。そうだよな。……ごめん、ごめん。俺が悪かったんだ」
俺は何度も謝って、謝って、顔を俯けた妻の肩をそっと抱きしめた。
あれからそのコンビニへは、行っていない。
通勤路にあたるが、大学も近い、人の多い街の中だ。
偶然でも会うことは滅多にない。
コンビニにいると思えば、それなりに避ければいいだけだ。
妻も行っていないのだろう。
夏の間は、レンタル農園に精を出して、毎日野菜をとったり、新しく苗を植えたりと出かける時間も増えて、楽しくやっているようだ。
今日のように、妻が採れたての食材で料理を作り、2人で食べる穏やかな食卓が毎日続けばいい。
鍋を食べ終わり、流しで洗い物をする俺の背中に、風呂上がりの妻がぺったりとくっついてきた。
「ご機嫌だね、奥さん」
「そうね。ちょっとだけ、今日は達成感があるわね」
「採れたての野菜をその日に美味しく食べられたから?」
両手にスポンジの泡をつけながら、適当に答えたが、一瞬妻は黙った後に、爆笑した。
「確かにそうね!とれたての新鮮なうちに、食べてもらえたからね!ふふふっ、あははっ!」
何がツボにハマったのか、妻は笑い続けた。
その夜の妻は、終始ご機嫌で、珍しく妻から夜の誘いを受けた。このまま子どもができればいいな、と思った。
幸せな家庭を妻と築いていきたいと思った秋の幸せな夜だった。
***
「うーす。おつかれ様」
「おつかれー。あれ?コンビニ弁当じゃないのか?居酒屋のテイクアウトなんて珍しいな」
「あー、なんか事件があったみたいで。警察官いっぱいで、店やってなかったんだよ」
「この近くのコンビニですよね?なんかコンビニ店員が裏口で襲われたらしいですよ」
「へ?強盗?」
「強盗……じゃないみたいですよ。女性店員が外にゴミか何かを出しに行った時に襲われたみたいで。ここだけの話」
「……なんだよ。もったいぶるな」
「え、何、なに?」
「片目、えぐられたらしいですよ」
「うわっ、何それ。こわっ」
「じゃあ、犯人見たのか?」
「もう片方の目は、刃物でぐさり。両目から血がだらだら流れてたらしいです」
「うわぁ、怖い」
「しかも、その片目が見つかってないみたいで。犯人が持ち帰ったんじゃないかって」
「うえぇ〜、どうすんだよ、そんなの」
「目玉焼きにして食べるとか」
「……うわっ、こわっ。先輩がすべりすぎてて、こわっ」
「はいはい、ごめんなさいね!」
「あー、でも魚の目玉って食べるよな」
「豚の目玉も食べたことあるけど、似た感じだった」
「え、食べ物に固定されてる」
「いや、人間の目って食べないだろ」
「どうなの?調理方法によって食べられるんじゃないの?焼くか煮るか」
「シンプルに鍋でいいんじゃないか?冷え込んできたし」
「いいから早く夕飯、食べろよ。今日の分の実験がまだ終わってないんだから」
「はぁーい」
「うーす」
「終わったら鍋パーティーするか」
「いぇーい。先輩ご馳走様でーす」
「農学部から採れたて野菜もらってきます!」
「いいから先に実験やれよ!」
「あー、男だらけの鍋じゃなくて、可愛い彼女の愛情たっぷりの鍋を食べたい」
【とれたて食材の鍋をあなたに】
当たりは一個だけ。