09 呑気な雑談
ひらひらと飛び回る蝶を追いかけ、リュージュは走る。それでも届かない位置に飛んでいってしまうと、そのあとはぼんやりと木漏れ日を眺めていた。
日陰に入ると風が吹いて涼しい。
「――……」
リュージュは何か歌っているが、どうやら人魚の歌ではなく一般的な童謡のようだ。
自然と寄ってきた小鳥たちと戯れながら木漏れ日を歩く少女然としたリュージュは、御伽噺の一節かと錯覚するほど非現実的で美しい。
そんなリュージュの背中に「離れすぎるなよ」と一声かけると、元気よく「はーい!」と返ってきた。
「リュージュは森が珍しいのか?」
ラオの袖を握り締めたまま歩くタンファに問う。
「初めてだな」
「初めて?!」
「リュージュは生まれてから雑技団を離れたことがない」
タンファの横顔は冷静で、どんな感情でその言葉を出したのか見当もつかない。
聞いていいのか迷ったが……意を決して「どうしてあの雑技団に?」と訊ねてみる。
「最初に雑技団にいたのは僕たちを産んだ人魚だった。ボクが幼いころに雑技団に売られたんだ」
しかしタンファは、躊躇う様子もなく答える。
「そのあとリュージュが生まれたから、リュージュは雑技団から出たことがない」
「んん? 人魚って性別ないんだろ? どうやって……」
「一定条件化で可能と聞いたことがある。ボクが詳細を聞く前に、親はリュージュを産んで死んだ。そこからはボクが親に代わって水中演舞を始めたんだが……」
そこまで喋ってくれて、タンファは言い淀むが……意を決した様子で「頼む」と顔を上げた。
「リュージュは幼いころに雑技団員の嫌がらせで無理やり水に落とされて以来、泳げないんだ」
「泳げない……? 人魚なのにか?」
「落とされたのが淡水だった。ボクらは海水じゃないと人魚の姿になれない。あのときのことが怖いのか、人魚の姿でも人間の姿でも泳げないんだ」
初めてリュージュと出会ったときに覚えた疑問の答えが今ようやく見つかる。
雑技団員の醜い感情に晒された上で物理的な嫌がらせを受けて、子供が心に傷を負うのは容易いだろう。話を聞いただけで腹が立った。
「もしリュージュが水に落ちたら、助けてやってくれ」
「ああ、約束する」
即答する。しかしタンファは「……うん」と不安げに頷いた。
どうやら今は心を読んでいないらしい。安心できてはいないものの約束を守ってくれているのだ。期待に応えなければ。もっとも、そんな事態にならないことを祈るが。
「そこは信用してくれよ。頼まれたから頼まれてやるって返しただけだぞ。確かに人魚と比べたら泳ぎは遅いかもしれないけどさ」
「まぁ人魚の姿になれば海中でも呼吸はできるから問題ないんだが……」
「えっそうなのか?! すげー便利。貝とか取り放題だろ」
「人魚の島の主な収入源は海産物の輸出だと親が言っていたから、あながち間違いじゃないのかも……」
木漏れ日の森を抜ければ再び野原で、すぐに広々とした湖が見えてきた。湖を囲むように町が広がっており、人間の姿も確認できる。
「でっかい池!」
「これは湖って言うんだ。で、あれが今日の目的地。もう日が落ちてきてるから、夜までには着きたいんだけど……」
ちらりと二人の足を見るが、やはり突貫で作った布の草鞋は既にボロボロで解れてしまっていた。きちんとした靴を買ってやりたい。これからまだまだ歩くのだから、絶対に必要だ。
「今日は宿に泊まって、明日二人の靴を買おう」
「……買ってもらってばかりで悪い」
「一応聞くけど、雑技団で給料は出たのか?」
「……」
「……鱗を売ったことがあるって言ってたよな。その金はちゃんと全部……いや、わずかにでも自分に入ったのか?」
「……」
本当に、胸糞悪くなる。
ラオは物凄く裕福というわけではない。旅に節制は必要不可欠だ。だが、靴は出し惜しみする品物ではない。これは必要経費だ。
「靴?っていうの、ジュー可愛いの欲しい!」
「うーん、しばらく歩くことになるから、歩きやすさ優先かな……集落に靴職人がいるんだ。帝国でもあのおやっさんの作った靴はすごい売れるらしい。集落に行ったら、そこでリュージュ好みの靴を作ってもらおう」
「うん!」
水面で跳ねる魚にリュージュが目を奪われ、フラフラと水辺に寄っていく。さすがにすぐ溺れるような深さではないが、注意深くその足取りを目で追った。
「……その、ラオはなんでその集落から旅立ったんだ?」
不意にタンファに問われ、ラオは目を見開く。
「前に『ラオは強いな』って言ったときとか、あまり良い感情を感じられなかったから、聞かないほうがいいんじゃないかと思っていたんだが……」
「あー」
とはいえ、二人の生い立ちを聞いたのだから、ラオも話さないのは不公平に思えた。
いずれ二人が集落に行けば嫌でも耳に入るだろうし、誰かに脚色された内容を吹き込まれるよりは、いま自分で話してしまったほうがいい。
「俺さ、前の族長の息子なんだ。つってもコウカの部族は基本的に『次期族長を決める試合で勝ったヤツが族長』って規則だから、世襲とかはしないんだけど」
タンファは黙ってラオの話を聞いている。
「……父上が病で倒れてさ、つい一週間くらい前に次期族長を決める試合をしたわけ。面をつけて、取られるか破壊されたら負けって試合で。……最後の最後にロンに……兄さんに負けた。全力で、本気で挑んだのに、アイツぜんっぜん本気出してねぇのに、負けた。しかもそのとき面を割られたんだ」
「ああ、白いのが言ってたのは……」
「そういうこと。ロンに服従とかそんな考えは一切なくて、本当にただの事故だったんだけど……取られるどころか割られるって最悪だよ。実戦だったら死んでる」
ため息を吐いて夕日を仰ぐ。眩しい。視線の先にある湖の町もよく見えない。
「ロンは才能の塊だからアレに勝てなくても仕方ないってみんな言うんだけどさ、俺は勝ちたい。だから修行に旅立った。……んだけど、まさか二度も面を割られるなんてな……」
「ご、ごめん……」
「あー悪い。タンファに文句言ったわけじゃない。自分自身が情けなくて……二人を安全な集落に連れていくほうが重要なのに、ロンの立場もあるからって修理を優先させて、ホントごめん」
安全な場所まで連れていくと言ったのに、一日あれば達成できたはずの約束を違えてしまっている。
けれど、なぜラオがゼン族の大事な面を気軽に持ち歩いていたのか、集落のみんなに知れたら。
おそらくは「早く戻ってきてほしい」と口に出せなかっただけのロンが責められるのは明白だ。そしてロンは絶対に弁明も言い訳もしない。族長として間違っていたと最初から理解しているはずだから。族長になりたくなかっただろうし、未だに実感もないだろう。
あのとき……突然父上が「次期族長を決める」と宣言したあのとき。
本気のロンと全力で戦ってみたいと思わなければ。
もっと強くなりたいと思わなければ。
外の世界を知ってみたいと思わなければ……
「ラオ?」
声をかけられ、ラオはハッと目を見開く。
奇跡的な造形の顔が間近まで覗き込んできて、思わず飛び退いてしまった。
リュージュも立ち止まり、魚から視線を外してラオを不思議そうに眺めている。
どうやら二人とも本当に人魚の目を閉ざしているらしい。こんな感情を曝け出すことにならなくて、本当によかった。
「……少し後悔してたんだ。集落を出たこと。ロンに全部投げ出した」
「ボクとしてはラオがあのとき帝国に来ていなかったら一生雑技団で飼い殺しだったし、リュージュも異国に売られていたから、感謝しているぞ」
「ジューもー!」
……そう言ってくれるのは有難い。
「じゃ、お前らのことは責任もって集落まで送り届けるよ。ちょっと遠回りになったけど」
「……その」
タンファが何か言いかける。しかしいくら待っても続きは聞こえてこなかった。そのまま口ごもって「なんでもない」と、結局なにも話してはくれない。
まぁ、いい。そのうち話せるときが来たら、それでいい。
ようやく湖の町に辿り着いたころにはすっかり日も暮れており、宿に入るだけで食事も取れそうになかった。
「朝はちゃんと食べような」
「別になくても……」
「一日一食だったもんねー」
次にあの雑技団を見かけたら壊滅させてやる。ラオは強く心に誓ったが、人魚の目を閉ざした二人はそんな害意には気付いていない。
他人の思考を読まなくとも生きられる場所を、早く二人に用意してやりたいと強く願った。