04 木春菊は空を飛ぶ
宿へ向かうラオの足取りは妙に軽い。心なしか浮かれているようだった。
あの歌声に何らかの作用があったのだろうか。高揚感に包まれていて、ここまでの興奮を覚えたのはロンとの試合くらいだった。……それでもロンはいつもどおりの涼しい顔でラオを打ち負かしたのだが。
思い出したらスッと冷静になれた。長いため息を吐きつつ、夜風に当たってもっと落ち着くため少し遠回りしようと裏道へ入る。
コウカ帝国の裏道は治安が悪い。夜になればなおさらだ。裏道をねぐらにしている者はどれほどの実力があるのか、少々楽しみになってしまう。そんな都合よく現れるわけもないだろうに。
くだらないことを考えながら、放置された空き瓶を蹴っ飛ばしたときだった。
……聞き覚えのある声が聞こえた気がする。
咄嗟に鬼の半面をつけて、声の聞こえたほうへ駆けた。入り組んだ裏道の奥、声の発生源に近づいたあたりで身を潜め、様子を窺う。
大人が子供を誘拐しようとしている光景、だろうか。もしかしたらコウカ帝国の裏道ではありふれた日常風景なのかもしれない。だからといって放っておくこともできないが。
「!」
だが、よくよく見れば、攫われようとしているのはあの人魚だった。
「放っ……」
タンファは美しい銀髪を振り乱して抵抗を試みているが、瞬く間に猿轡を噛まされ手際よく縛られていく。
非力そうなか細い腕だが、人魚の歌が歌えれば逃げることはできただろう。口を塞がれては打つ手なしか。
大男がタンファを担ぎ、この場を去ろうとラオのいる方向へ背を向ける。その瞬間に駆け出して、その首を思い切り殴りつけた。
「ぐっ……?!」
大男は唸りながら倒れる。随分呆気なさ過ぎて、ラオのほうが驚いてしまった。
そんなことよりタンファを助け出して拘束を解く。が、タンファは怯えて動けないようだった。
「大丈夫か? あの雑技団の子だよな」
「……!」
「雑技団まで送ろうか。道わかんねぇから、教えてくれると……」
「っ、リュージュが!」
震えたりひっくり返ったり、タンファは酷く動揺した声を絞り出す。まるで悲鳴のようだった。
「きょうだいが、先に、つ、連れっ、かれ……っ」
「!」
「ボ、ボク、追いかけたら、コイツに……っ!」
ガタガタ震える手で縋られ、思わず握り返す。華奢な手だ。ここまで生きるのにどれほど怖い目に遭ったのだろう。危険を承知で妹のために飛び出すなんて……よく見ればタンファは裸足のままだ。
「……わかった。妹を連れてったヤツはどっちに行った?」
この手を振り払うなんて、ラオにはできなかった。
タンファは目を見開いていたが、やがて何度も「あっち」と真っ暗な路地を指差してラオの袖を引っ張る。
ちょうどいい腕試しになればいいが。
「お前はこの辺に隠れて……」
言いかけるが、この辺に隠れられる場所はなさそうだ。
致し方ないか。ラオは鬼の半面を外し、懐に収める。
「いや、一緒に来てくれたほうがいい」
一人になったら、タンファは今にも泣いてしまいそうだった。
裸足のタンファには悪いが、一緒に道を走ってもらう。
「そういえば、俺はラオ! 旅人だ!」
「ボ、ボクはタンファ……」
「おう、よろしくな!」
途中の五差路で立ち止まり、遅いが自己紹介する。
さて、ここからどう移動したのだろう。当然ながら手がかりはない。虱潰しに行動する時間も惜しい。
悩んでいると、タンファが「少し静かにしてくれ」とラオの袖を引っ張った。
「――……」
人魚の歌声だが、単調な音でしかない。人間になんらかの作用がある歌ではないのだろう。
響きを伴ってどこかへ広がっていくのに、間近にいるラオですら耳障りには聞こえなかった。
『――……』
少しして、タンファの歌声に共鳴するように、同じ旋律が返ってくる。港のほうだ。このまま海から逃げるつもりか。
「あっちだ」
「すごいな。それ人魚の能力なのか?」
「うーん……? ボクとリュージュがお互いの位置を知らせるときにやるだけで、特に人魚の特殊能力ではないと思う……」
「……いま返ってきたのが妹の歌なら、妹は口を塞がれてないのか?」
「……? 確かに、そういうことになるが……」
誘拐犯は人魚と知りながら、口を封じていない。
ラオにもタンファにも理由はわかりかねたが、ひとまず追うしかなかった。タンファがケガしていないか心配だが、もう少し頑張ってくれ。
港に停泊していたのは全貌を視界に入れるのもやっとなほど大型の客船だった。異国の人間が人魚の密輸でもするつもりなのか? 船周辺を警備していた者たちを一人ずつ気絶させ、船に近寄っていく。
「その……ラオは、強いな……?」
恐る恐る声をかけてきたタンファ。
……別に、強くはない。部族内では二番目の強さを誇るが、一番強いロンが「世界には俺より強いヤツが大勢いるらしい」と言っていた。部族の外をあまり見たことがないラオには真偽がわかりかねたが、きっとそうなのだろうと思う。
「ま、タンファよりは強いかな」
しかし今そんな弱音を吐いてタンファの不安を煽るわけにはいかない。笑ってみせるが、タンファはただ困惑しているだけだった。
そういえば雑技団行進中の愛想を振りまくべき場でも、演目中に王子様から助け出されたときですら、タンファは笑っていなかったっけ。
「あ!」
と声を上げ、タンファが船首を指差す。少女のような何者かがぼんやりと立っており、タンファの声に反応してこちらを見た。……あれがリュージュか。
リュージュはこちらに気付き、手を振って……船と陸地の杭を繋ぐ綱の上を歩いて降り始めて、タンファは「バカ!」と叫んだ。
船の上にいた誘拐犯たちもリュージュの脱走に気付いてしまったが、リュージュは既に綱の中間地点ほどまで下っており、誘拐犯たちですら手をこまねいているのが見える。ここで綱を揺らせばリュージュが海に落ちてしまうからだ。
……海に落ちて人魚の姿になって泳いで逃げたほうが早いのでは?
そんな疑問をラオが口に出そうとしたのと、強風でリュージュの身体が綱から浮いたのは同時だった。
「ああもう!」
タンファが海に飛び込み、青い鱗が水中を舞う。
リュージュも海に落ちた途端、美しい赤い鱗を持つ人魚の姿となって水面に浮かんだ。水面でタンファがリュージュを抱き締めて、少し離れた浜辺のほうへ泳ぎ出す。このまま二人で逃げるかと思ったが、タンファが振り返ってこちらに目配せした。どうやらまだ二人だけで逃げるつもりはないらしい。
行く先に向かおうとした人間の男たちはラオが倒しておき、一時的にだが安全になった浜に人魚たちが上がる。海水から出た途端、再び人によく似た姿になった。
「もっ、もう、もう……! 危ないマネはするな!」
「タンファが助けてくれるもん。落ちたって平気だよ」
あっけらかんと答えるリュージュに言葉を失っていたようだったが、やがてタンファはため息一つ吐いてリュージュをもう一度抱きしめた。
「歩けそうなら、あの船から離れないか」
ひとまずラオの提案でその場から逃げ、可能な限り遠く離れた場所……ひと気のない森の中へ身を隠す。元々旅をするつもりで集落を出てきたのだ。焚火と食材の用意はある。
準備をしながら、リュージュを眺めた。タンファとは異なり、リュージュは太陽のような金髪に、淡い銀色のぱっちりした目をしている。幼い女の子のように見える可愛らしい外見で、性別がないにも関わらず『妹』と呼ばれる理由がなんとなくわかった。タンファが中性的だから、というのもあるかもしれない。二人並べば確かに少年と幼女の兄妹に見えなくもない。
「……?」
目が合って、しかしリュージュは「助けてくれてありがと!」と笑った。
「ジューはね、リュージュっていうの! 人魚だよ! 十四歳!」
十四? てっきり十歳にも満たない幼女だと思った。
「人魚はね、人間より成長が遅いんだって!」
「そうなのか。俺はラオ。人間の十八歳」
「え、えと……タンファ。人魚の十六歳で、リュージュときょうだいだ」
流れで再び自己紹介するハメになって、タンファは困惑しきっている。
タンファのほうも十六歳にはあまり見えなかった。美しすぎて、逆に大人びて見える。
「今夜はここで野宿したほうがいいと思うけど……明日になったら雑技団まで送ろうか?」
念のため問うが、すぐにリュージュが「やだ!」と答えた。
あまりの勢いに、ラオは間抜けにも「え?」と声を漏らしてしまう。
「別に好きで雑技団にいたわけじゃないもん! ジュー、座長のこと嫌い! 猛獣使いの女だってタンファのこと『手が滑った』って脚に鞭打ってくるの!」
「……露店の人が言ってたな。妹を人質に取られてるからタンファが雑技団に籍を置いてるって」
「ああ。だからボクもリュージュも解放された今、ボクたちが雑技団に居続ける必要はない。……それに」
そう言いかけて、タンファは……黙ってしまった。
いくら待っても続きが出ることはない。言おうとしているが、言っていいのか迷いに迷って口をパクパクさせている。
……言いにくいことを無理に言わせる必要もないか。
「じゃ、明日から安全な場所に向けて出発するか」
話を中断させ、ラオはさっさと寝床の準備を始める。
「安全な場所なんて」
「少なくとも、俺の故郷なら大丈夫だ」
ロンの庇護があれば、人魚だって安全でいられるだろう。いくら部族の集落とはいえ、弱いからと仕事を押し付けるような非常識な人間はいないし。
簡素な寝床の準備が整うと、タンファとリュージュは少し……いや、かなり困惑していた。会ってすぐの他人、しかも部族の人間を警戒するなと言うほうが難しいから仕方がない。
二人は身を寄せ合い、お互いの手を握って目を閉じる。
ラオも少し離れたところで横になった。近くにいては二人の気が休まらないだろうから。
……そういえば、二人とも警戒心が強いだろうに、よくラオについてきて、こうして一緒にいられるな。
まどろみの中でふと浮かんだ疑問は、翌朝にはすっかり忘れてしまっていた。