~第一章~ 九尾の罠
はじめまして。
あまりにひさしぶりとなりますので、作者名を変えての初投降します。
第一章は毎週火金の18:00更新の全11話となります。
もしお時間あれば感想など聞かせてもらえると嬉しいです。
「弥助さん、その子を頼んだ!」
奇妙丸の声が辺りに響き渡る。弥助は、すぐ傍にいた孫六の娘の瀬名を抱き抱えると、その場を離れた。少しでも遠くへ。その気持ちだけで、村の入り口まで全力で走った。後を振り返る余裕などない。
(な、なんということじゃ。あれが尾獣なのか! 娘の諏訪に尻尾が生えているではないか! そうすると、やはり妻の生乃はもう手遅れなのか。だが、せめてこの孫六の娘だけでも助けなければ)
弥助は、初めて目にする尾獣に恐怖を覚えたが、何より孫六の娘を助けたいという思いで駆けていた。
「梵! 弥助さんだけでは心配だ! お前は弥助さんについてあげてくれ!」
奇妙丸は、すぐに弟の梵天丸にも指示を出した。
「わかった。弥助さんのことは任せてくれ」
梵天丸は、すぐに弥助の後を追いかけた。まだ齢一四でしかないが、叶想家の男児として既に元服を済ませ、幼い頃から鍛えられている。弥助とは倍程度の歳が離れているが、弥助は百姓育ちである。いくら畑仕事で培った精悍な体躯であっても、梵天丸が追い付くには、それほど距離を要しなかった。
「弥助さん、そんなに遠くまで行かなくても大丈夫だ!」
梵天丸は、すぐに弥助に追いつくと後ろから声をかけた。弥助は、初めて見た尾獣に余程驚いたのであろう、まだその表情に落ち着きは戻っていなかった。
(さすが兄上だ、今の弥助さんはとても一人にできる状態じゃない。尾獣の諏訪に対して、、兄上と爺様だけというのも心配だが、きっとうまくやってくれるだろう)
梵天丸は後ろを振り返えったが、既に兄の奇妙丸や祖父の新九郎の姿が見える距離ではなかった。
「弥助さん、ここまで来たらもう大丈夫だよ。少し落ち着いて休もう」
そう言われて、ようやく弥助も走る速度を緩め、立ち止まった。
(はあ、はあ、ぜえ、ぜえ)
全力で走ってきたためか、弥助の息は相当に乱れている。崩れるように地面に座りかけたが、抱き抱えた瀬名を落とすまいと、片方の手を膝につくことで、中腰の姿勢を保っている。
「ほらっ、そこの大きな石にでも座るといい」
(あ、ああ、そうするだよ)
梵天丸の声に頷きながら、抱き抱えていた瀬名を下ろすと、その手を引いて歩きかけた。そして、梵天丸は、弥助に水を飲ますために、腰の竹筒へ手を伸ばそうとした時だった。梵天丸の手が掴んだのは竹筒ではなく、その腰に帯びた刀であった。
「弥助さん、屈んでっ!」
いきなり鬼気迫る梵天丸の声と共に、キラッと一閃。弥助が屈むより早く瀬名の体が宙に吹き飛ばされていた。
「な、何をするんじゃ!」
さっきまでの息切れはどこに行ったのか。突然の出来事に弥助は声を荒げると、梵天丸の方を振り向いた。しかし、その梵天丸の視線は弥助には向けられておらず、瀬名が吹き飛ばされた方を睨みつけている。
「九尾だ」
梵天丸は小さく囁いた。驚いた弥助も瀬名が吹き飛ばされた方を振り向く。
「クケケ、よくわかったのう。よもやこれほど早く、わらわの正体に気付くとは思わなんだのう。この前来た燕谷勢源とやらは、ついぞ気付かずに帰りよったがのう。クケケ、あと少し気付くのが遅ければ、弥助も妖狐として憑りこめたものを。まだ若いとは言え、叶想家の血筋はやはり侮れぬのう」
その姿は娘子の瀬名のままだ。だが明らかに違うのは、先ほどの諏訪と同じように尻尾が生えている。まだ五、六歳であろう娘子の瀬名から九本の尻尾が見て取れたのだ。
(無理だ。勢源さんだって気付くわけがない。さっきまで一緒にいた兄上や爺様やだって、まったく気づいていなかったんだ)
梵天丸が気付けたのは、たまたまだったと言っていい。その純粋さが、気を緩めた九尾の発する妖気をわずかに感じ取ったとしか言えなかった。そして、それと同時に、九尾の底知れぬ強さを感じ取っていた。いや、その強さがどれほどのものなのか、今の梵天丸には測ることさえできなかったと言っていい。だが梵天丸も、弥助を置いて逃げ出すわけにはいかない。
「弥助さん、さがって!」
梵天丸は、すぐに弥助と九尾の間に身を割り込ませると、九尾に向かって刀を構えた。名刀『黒ん坊切・景秀』である。
叶想家の男児は一三歳で元服をする。それと同時に、叶想家の男児の証である心願彫りを施され、さらに代々伝わる刀を引き継ぐ習わしになっていた。梵天丸が構えたのも、そんな名刀の一本である。
「何でお前がここにいるんだ?」
梵天丸は、九尾に向かって叫ぶ。その視線は、弥助に更にさがるように指示しながら、警戒は少しも緩めていない。弥助は梵天丸の指示に従って、後ずさりしながら距離を拡げる。この場では自分が何もできないことを分かっていた。
「クケケ、なぜここにいるかだと? 分からぬかのう? わらわがここにいる理由が分からぬかのう? クケケ、人間とは欲深いものでのう、常に何かを欲しておる。願いが叶えば、次の願い。次の願いが叶えば、またその次の願い。その欲望は留まることを知らぬのう。そんな人間の欲望を叶えにきたのじゃよう」
「どういう意味だ?」
梵天丸と九尾の距離はおよそ二間半(約四.五m)、斬りかかるには若干距離がある。しかし、退くための隙を見せるには短い。
「クケケ、ほほう、恍けるか、恍けてみせるか。ならばそこの男に聞いてみるがよい、そこの男であれば知っておろう。なぁ、弥助。諏訪を、わらわを、わらわたちをこの村へ呼び込んだのはお主たちではないか。お主とお主の妻の生乃ではないか」
「な、なんのことじゃ! わしがお前を呼んだとは、どういう意味じゃ!」
弥助にはまったく身に覚えがない。
「クケケ、分からぬか、分からぬのか、本当に分からぬのか。クケケ、お主の娘となった諏訪はのう、愛情に飢えておる。常に親の愛情に飢えておるのじゃ。お主たちは子を欲しておったのう、ずっと、ずっと、ずっと子を欲しておったのう。クケケ、その愛情じゃ、子を欲するお前と生乃の狂おしいほどの愛情が諏訪をこの村に呼び込んだのじゃ」
「弥助さん、耳を貸しちゃダメだ! こいつらは人間の欲望を糧に生きている。僅かな心の隙をつ いてくるんだ。もっと遠くに、九尾の声が聞こえないほど遠くに離れるんだ!」
梵天丸は大声で弥助に叫んだ。
「クケケ、勝手よのう、身勝手よのう、人間はほんに身勝手よのう。クケケ、お主の妻の生乃はのう、本当に心の底から子を欲しておった。欲しくて、欲しくて、欲しくてたまらなかったのう。しかし、お主はどうじゃ? 既に諦めておったのではないか? そして、その気持ちを隠しておったではないか? クケケ、それが生乃にはどれほど辛かったかわかるかのう? 弥助よ、お主が生乃を変えたのじゃ、ついには他人の子を妬むほどに生乃を変えたのじゃ。お主もそれに気づいておったろう、気づいておったにも関わらず、見て見ぬふりをしてきたであろう。クケケ、この瀬名もそうじゃ、不憫よのう、まだ娘子であったがためにのう」
「知らない。何も知らない。わしは何も知らぬのじゃ!」
弥助は、その場から動くことが出来ない。九尾の声に耳を貸さずにはいられなかったのだ。妻の生乃のことで、弥助は逃げ出すわけにはいかなかったからだ。
「クケケ、知らぬか、知らぬで通すか、知らなければ自分は悪くないで通すのかのう。クケケ、弥助よ、生乃はのう、生乃はのう、生乃はのう、自ら進んで瀬名を諏訪に差し出したのじゃ、自分の子となった諏訪のために、瀬名までも犠牲にしたのじゃ」
「惑わされるな、弥助さん! 尾獣は妖狐化した人間を自由に操れる。その時、既に生乃さんは諏訪に妖狐化させられて、その妖力で操られていたんだ!」
このまま九尾の話を聞いていてはダメだと判断した梵天丸は、九尾との間合いを一気に詰めると、上段の構えから袈裟切りに斬りかかった。当然、九尾を仕留めれるとは思っていない。九尾と弥助の距離を離すことが目的だ。九尾は軽く後ろに飛んで躱すと、弥助が休憩をしようとした大きな石にフワリと飛び乗った。
「クケケ、諏訪はのう、ほんに可哀そうな娘子じゃった。勝手に命を与えられ、勝手に虐められ、勝手に捨てられた。何も悪いことはしていないのにじゃ。ただ、ただ、ただ、この時代に、あの親に、あの家に生まれた。それだけなのにじゃ。たったそれだけのことで、周りの人間から妬まれ、虐げられたのじゃ。クケケ、そんな諏訪が愛情を欲して何が悪いのじゃ。そんな諏訪に愛情ある家庭を与えて何が悪いのじゃ、のう、弥助。お前は諏訪の父親になったのであろう」
弥助には言い返すことが出来ない。短い期間ではあるが、生乃と共に諏訪を育てると決めて、親として接してきた。「カアカ」と言って笑顔で生乃に駆け寄る諏訪。「さぁ、おいで」と言って諏訪を抱き上げて頬を摺り寄せる生乃。「さぁ、お食べ」と言って粥を差し出すと、「ありがとう、美味しいよ」と言って美味しそうに頬張る。豊かではないが、短い期間でも、確かに幸せを感じた時期が弥助にもあった。
「クケケ、弥助よ、分かっておる。よう分かっておる、よう分かっておるという顔をしておるぞ。諏訪は悪くない、悪いのは人間じゃ、諏訪を虐めて捨てた人間どもじゃ。弥助よ、お主も悪くはない。だからお願いじゃ、諏訪を、諏訪を助けておくれ、生乃と三人で暮らせるように諏訪を助けてあげておくれ」
「ダメだ! 弥助さん、騙されちゃいけない! 尾獣になった人間は元に戻ることはできないんだ。そうやって人間を惑わし、新たな妖狐として憑りつこうとしているだけなんだ。哀しいけど、辛いけど、悔しいけど、おれたちができることは、成仏させてあげることしかできないんだ。それが尾獣に落ちた人たちに対して、残された者ができる唯一のことなんだ」
まだ一四歳ではあるが、さすがに元服を済ませた叶想家の人間である。刀の腕だけでなく、心の強さも奇妙丸と新九郎によって鍛えられている。
「九尾よ。これ以上、弥助さんにかまうな、おれが相手だ」
梵天丸は小刻みに九尾へと斬りかかる。その太刀筋はとても一四歳の若者とは思えないほどに鋭い。しかし、逆に言えば、まだ一四歳である。体は出来上がっておらず、どちらかというと小柄な体躯である。兄の奇妙丸ほどにがっしりした精悍さは持ち合わせていないため、どうしても手数に比例してその威力は軽くなる。
そして、なにより相手の九尾は齢四〇〇年以上を生きてきた妖である。その妖力の結集された九本の尻尾をもってして梵天丸の刀をあしらうと、嘲笑うかのように石の上から跳躍した。フワッと梵天丸の後方に着地する。しかも正面は弥助の方を向いており、梵天丸にはその背を見せている。その距離は約二間(約三.六m)。完全に弄ばれていた。
「クケケ、弱い、か弱い、か弱いのう、力なき声はどんなに大きく叫ぼうとも届かぬのう。クケケ、不憫じゃ、哀れじゃ、惨めじゃのう、梵天丸。お主の力などわらわの足元にも及ばぬのじゃ」
屈辱的である。客観的に見て、いかに叶想家の男児であってもまだ一四歳である。あと一〇年もすれば、屈指の強さと優しさを持った、素晴らしい若者に育つのであろう。だが現時点では、とてもかなう相手ではないことは分かりきっている。
だが梵天丸はまだ若い。過去に幾重の戦いを経験してきているが、まだまだ精神的に未熟な部分を持ち合わせていた。侮辱されたことに冷静さを保つことができない。
「馬鹿にしやがって」
先ほどまでは弥助を気にしながら、九尾と距離を置くことを優先していた。その梵天丸の表情が変わった。
「弥助さん、早くもっと遠くに逃げてくれ」
戦いに集中したいのであろう、梵天丸は九尾の頭ごなしに弥助に声をかける。しかし弥助の行動には迷いがある。さきほどからの九尾の言葉に、生乃に、諏訪に、そして己自身に。
(いったい誰が悪いのか)
弥助は自戒の念に捕らわれ、その足はなかなか動かない。
「弥助さん、考えるな! 今は考える時じゃない!」
そう弥助に声をかけると、梵天丸は左足を半歩ほど前にし、右膝を地面に着けるように小さく前傾姿勢で屈みこんで、刀を構えた。
「叶想流刀術・火の型『灼煌閃』」
小さく呟くと、前傾姿勢から全体重を右足に乗せて、刀を抜くと同時に、大きく一歩を踏み込んだ。
ボッ
一瞬、短く太い音がしたかと思うと、一直線に九尾とすれ違い、いつの間にか梵天丸は九尾の前に回り込んでいた。いや、九尾もただ回り込まれただけではない。
梵天丸の尋常ではない気配を察知し、その一瞬で、サッと態勢を右に取って返すと、その太刀筋を紙一重で躱していた。いや、躱そうとしていたが、すべてを躱しきることはできていなかった。
ツツーッ
九尾の右腕から僅かな血液が流れ落ちる。それと同時にパラパラパラッと先ほどまで梵天丸がいた位置の後方に、跳ね飛んだ土がようやく地面に落下していた。それほどまでに凄まじい威力での蹴り足であった。だが、それでも油断していたはずの九尾にかすり傷を負わせることしかできていない。
「躱しやがった」
梵天丸の素直な感想であった。決して背を向けている相手に手加減をしたわけではない。そもそもが今の自分では、九尾を倒すほどの強さがないことは分かっている。手加減などする必要がないのだ。
「クケケ、惜しい、惜しい、惜しいのう、梵天丸。わらわに傷を負わしたことは誉めてやろう。さすがは梵天丸じゃ、まだ若いのに、たいしたものじゃのう。それだけの腕があれば、弱い尾獣であれば、戦いになるかもしれぬのう」
明らかに余裕がある。
「クケケ、さぁ、そこをお退き、梵天丸や。わらわは弥助に用があるのじゃ。クケケ、さぁ、弥助や、おいで、こちらへおいで、わらわと一緒に諏訪のもとへいこうぞ、そして、生乃と共にこの村で幸せな家族を築こうぞ」
態勢は再び九尾に向き合う形で梵天丸、そしてその梵天丸の後方に弥助が位置していた。
(やはり、心願彫りの力を借りないことには、戦いにすらならないのか)
梵天丸の脳裏を、奇妙丸の言葉がかすめる。
「梵、心願彫りの力は強大だが、それゆえに代償も大きい。梵が、本当に心の底から必要だと思ったときまでは使うんじゃないぞ。だけど、使うと決めたときには迷わず使うがいい。そのための心願彫りなのだから」
心願彫りは、心に願いを強く持つことでその力を発揮する。だが、その力が大きいがゆえに、願いが叶った時には、心願彫りが消えると共に、心の一部も失うことになる。それが何なのかは、願いが叶ってみないと分からない。それが叶想家に伝わる心願彫りであった。
弥助と九尾の間には約五間半程度(約一〇m)は距離がある。弥助が後ろを振り向いて逃げようとすれば、間にいる梵天丸が手助けできる。決して逃げられない距離ではない。だが、弥助の足は動かない。
(ほんに愛情とはなんなのじゃ、九尾の言っていることが正しいのではないか。悪いのは諏訪を傷付けた人間であって、諏訪は何一つ悪くない。そんな諏訪が、母の愛情を生乃に求めても、わしに否定する権利なんぞないのではないか)
九尾の発する言葉には、妖力が込められている。弥助が、惑わされても致し方のないことであった。だが叶想家の人間は違う。その血筋には初代三郎からの因縁で、呪われた九尾の血が混じっている。九尾の血が混じることによって、逆に耐性を持つことが出来ていた。
「弥助さん、惑わされるな」
渾身の一撃を躱された梵天丸は、少しづつ冷静さを取り戻し、必死に声をあげる。
「弥助さん、現実から目を背けちゃダメだ! 今ある苦しみから目を背けちゃ、それ以上前には進めなくなるんだ」
弥助もその言葉を聞いて我に返った。弥助が、なぜ領主の燕谷勢源に助けを求めたか、なぜ新九郎の家を訪ねたか、なぜ一緒に梵天丸とこの場にいるのか。
(そうじゃ、わしはこの村を、生乃を、みんなを救うために来たのじゃ。諏訪との異常な生活に戻るために、ここに戻ってきたわけではないのじゃ)
「九尾よ、わしは惑わされん、惑わされんぞ。例え、もとの生活に、村のみんなとの平穏な生活に戻れなくとも、わしはお主たちと戦うぞ」
弥助は力強く叫んだ。その言葉は梵天丸にも九尾にもはっきりと聞こえていた。
「クケケ、小賢しい、小賢しい、小賢しいのう、梵天丸よ。お主の言葉で弥助が我を取り戻しよったのう。クケケ、たいしたものじゃのう、どうやらお主の力を見誤っておったようじゃのう。まだ若いにも関わらず、その心構えは一端の大人のようじゃのう、まさかわしの甘言を打ち破るとはのう」
先ほどまでとは明らかに違う。九尾の梵天丸を見る目に油断はなくなっていた。
「九尾よ。おれには何が正しいか、何が悪いのかなんてわからない。だけどな、苦しんでいる人を助けることならおれにもできる。だから、その苦しみの先にある未来を掴むために、心を鬼にして、自分ができることを考えなくちゃいけないんだよ!」
梵天丸は九尾に向かってそう叫ぶと、一心に九尾を倒すことだけを願った。すると、不思議なことに、梵天丸の背中に彫られた入れ墨が、まるで命を与えられたかのように浮かび上がる。それは弥助の目にもはっきりと映っていた。
その背に彫られていたのは『不動明王』であった。その姿は、遥か彼方を睨みつけるように両眼を見開き、口からは牙が突き出ている。右腕には三鈷剣を構え、その左手には羂索を高く掲げている。それは、今にも振り下ろしそうな勢いである。そして、鍛え抜かれた青黒い肌に、赤土色の衣をまとっていた。悪を許さない梵天丸の精神そのものを表し、どんな敵でも打ち払うかのような強い意志が見て取れた。その威圧感は、まるで梵天丸を中心とした竜巻が、辺り一帯に吹き荒れているかのようであった。
(こ、これが、心願彫りというものだか)
弥助は、初めてみる心願彫りに驚嘆して言葉を失った。
梵天丸は刀を中段に構えた。その構えは異様で、両足を肩幅ほどに広げると、両手で構えた刀を、ただ単に真っすぐ前に向かって突き出している。素人目には隙だらけのようにも見えた。
「叶想流刀術・土の型『均坑輪』」
梵天丸は、九尾の気を引くように大きく叫ぶと、構えた刀を下段近くまで下げ、その刃先で円を描くように九尾に向かって突進した。叶想流刀術における土の型に、火の型と違って速さや威力は必要ない。本来、その真価は防御重視の連携技である。
ドガッ
九尾の数歩手前の地面が大きく削れる。と同時にババババババッ削れた土が無数の礫となり九尾に降り注ぐ。その礫を避けるため、九尾は空中に身を躱そうとおおきく飛び跳ねた。梵天丸はそこを狙っていた。空中では躱せまい。心願彫りの力を使い、次の一手を炸裂させるつもりであった。
「叶想流刀術」
梵天丸が小さく呟き、その体制をさらに低く構えたときだった。
ドスッ
左足の太腿に大きな痛みが走った。一瞬、何が起こったか理解できなかった。だが、すぐにわかった。九尾の尻尾である。その尻尾のうちの一本が長く伸び、その先鋭く、梵天丸の左足太腿に突き刺さっている。
「ぐっ」
声には出さない。激痛が全身を襲う。苦痛に耐えているのであろう、その顔には僅かな間に脂汗が噴き出ている。梵天丸は思わずその場に跪いた。
「クケケ、か弱い、か弱い、か弱いのう、先ほども言った通りじゃのう、か弱いのう。クケケ、何がしたかったのじゃ、何がしたかったのじゃ、何がしたかったのか分からぬのう。心願彫りと言えど、使う者が未熟だと恐れるには足りぬわ。クケケ、お主を見ていると、喜平次を思い出すぞ。分かるかのう、覚えておるかのう、知っておるかのう、お主の父親の喜平次じゃ」
九尾は、からかうように言葉を発した。喜平次という言葉を聞いて、梵天丸の背中に浮きあがっていた不動明王が消える。心が乱されたのだ。
「ち、父上が、おいっ、父上がどうした」
当然、梵天丸は喜平次のことを覚えている。一〇年程前、当時まだ四歳だった梵天丸は、父の喜平次に稽古をつけてもらっていた。そんなある日、突然、九尾が現れ、喜平次の妻であり、梵天丸の母でもある初を殺してしまったのだ。
当時、まだ幼かった梵天丸は、何が起こったかはっきり覚えてはいない。だが、その出来事からしばらくして、父の喜平次は、幼かった奇妙丸と梵天丸を新九郎に預け、敵討ちの旅に出ていたのである。
「クケケ、知りたいか、知りたいかのう、喜平次のことを知りたいかのう」
九尾は明らかに梵天丸を挑発している。
「おいっ! 早く言いやがれ、いったい父上がどうしたっていうんだ」
梵天丸は全身の痛みに堪えながらも、気力だけは衰えていない。
「クケケ、知りたいか、知りたいかのう、そんなに知りたいかのう。クケケ、喜平次は生きておる、元気に生きておる、生きてわらわを探しておるはずじゃのう」
(父上が生きている、父上が元気に生きている)
梵天丸は九尾の言葉を聞いて、苦痛の中にも微かな希望を感じ取っていた。だが、その表情を見て九尾がニヤりと笑う。
「クケケ、若い、まだ若い、やはり若いのう、梵天丸よ。なぜ、なぜじゃ、どうしてわらわの言葉を信じるかのう、敵であるわらわの言葉を信じるかのう」
言われてみれば至極当然である。人の苦しみや悲しみからくる欲望、それを糧として生きている九尾の言葉をなぜ信じたのか。
「ど、どういうことだ、父上は、父上は生きているのではないのか」
九尾に負わされた傷の痛みを、精神力のみで耐えている梵天丸だ。心を揺さぶられることによるダメージは大きい。
「クケケ、クケケ、クケケ」
九尾は、梵天丸を馬鹿にするように唸り声だけを上げている。その目はまるで虫けらを見るかのような視線で梵天丸を見下している。
「おいっ、教えやがれ、父上はどうしているんだ」
梵天丸は、跪いた状態で九尾を睨みつける。
「クケケ、喜平次は、喜平次は、喜平次はのう、残念だが、残念だが、残念だが生きておるのう。クケケ、だがのう、だがのう、だがのう、もう見えぬ、何も見えぬ、すべて見えぬのう、なにせ両の目がないのじゃからのう。わらわが奪ってやったのだからのう」
(りょ、両の目がない)
梵天丸は言葉を失った。梵天丸には幼いころの記憶しかない。まだ叶想家と九尾の因縁を教えられていなかった頃、おそくまで刀をふるって、兄の奇妙丸と共に刀術を教わった想い出。その父親の喜平次が、九尾に視力を奪われ、何も見ることが出来なくなっているというのだ。
その会話は弥助の耳にも届いている。いや、あえて届くように九尾は声を大にしていたのだろう。弥助は梵天丸の気持ちを思うと、梵天丸に戦いを任せて、逃げに徹している自分を責めた。そう、それが九尾の作戦とも気付かずに。
(なんてことだ、梵天丸さんの父親が九尾に失明させられていたなんて)
しかし、武器を持たない弥助には、どんなに悔しくても戦う術がない。傷ついた梵天丸を助けに行く手段を持っていなかった。だからと言って梵天丸を残して逃げるほど、弥助も冷静ではない。
「ふ、ふざけるな、てめぇ! てめえのような狐に父上がやられなんかするか!」
虚勢だということは梵天丸が一番分かっている。先ほどから自分の持てる全力を尽くしても、ようやくに薄皮一枚傷つけるのがやっとの九尾である。ましてや、九尾は全然本気を出していない。それが証拠に、技の一つどころか、娘子の瀬名の姿のままで、本性の姿を現していないのだ。唯一見せているのが尻尾である。いくら今の梵天丸より、当時の喜平次の方が鍛錬されていたとしても、九尾の強さを超えることが容易でないことは、梵天丸にも簡単に理解できた。
「クケケ、信じぬかのう、本当に信じぬかのう、絶対に信じぬかのう、梵天丸よ、わらわとの力の差を見ても信じぬかのう。クケケ、よいのう、会えるとよいのう、喜平次と会えるとよいのう、喜平次は今もどこかでわらわを探しておるはずじゃ、両の目をなくそうとも喜平次のわらわへの恨みは永遠だろうでのう。クケケ、わらわにはその恨みが、憎しみが、哀しみが糧となるのじゃ」
「てめぇ、覚えてやがれ。いつか絶対に父上と共に、おれがお前を倒してやるからな、おれの顔を忘れるんじゃねぇぞ」
梵天丸は、黒ん坊切景秀を杖に立ち上がると、痛みを抑えながら、九尾に対して下段の構えを取った。左足に負わされた傷からは大量の血が滴り落ちて、既に視線が定まっていないようにも感じられる。
(爺様はまだか、兄上はまだ来れないのか)
ここにきて梵天丸の力も尽き欠けている。辛うじて気力だけで刀を構えていた。
「クケケ、なぜじゃ、不思議じゃ、どうしてじゃ、なぜ次があると思うのじゃ、わらわに負けたお主に次があるとなぜ思うのじゃ。クケケ、今日がある、明日がある、明後日がある、だからまたその次があると思うのかのう、人間とは不思議なものじゃのう」
シュッという鋭い風切り音の後にドスッ、ドスッ、ドスッ、と鈍い音が続く。
「がふっ」
梵天丸から声にならない声が聞こえた。その口からは、真っ赤な鮮血が勢いよく周りに飛び散る。
「梵天丸さん!」
思わず弥助は大声を上げる。梵天丸は「出て来るな」と言うようにその声に向かって、睨みをきかす。そして、再び視線を九尾に向けた。
「九尾よ、覚えておけ。おれのような人間はな、後ろを振り向くなんてことは考えちゃいない。倒れるときは常に前倒れなんだよ」
梵天丸は、最後の力を振り絞って刀を振り上げると、九尾に向かって振りかざした。だが、その刀が振り下ろされることはなかった。
ドスッ
九尾の尻尾が梵天丸の左胸に突き刺さったのだ。
カランッと乾いた音と共に、黒ん坊切景秀が梵天丸の手から落ちた。