一週間くらい
「ただいま。帰ったぞ、アキ」
ドアを開ける音でベッドを下りて向かった方向から、低い柔らかな声が返る。
「レヴィ! お帰りなさい!」
視界はいまだにぼんやりしているけれど、部屋の中はかなり自由に動けるようになった。
玄関脇に荷物を下ろしている彼へと、歩いて近づく。
「いい子にしていたか? なにもなかった?」
「なにもなかったです。レヴィは? 怪我をしてないですか? 血のにおいがします」
わたしの頬に触れる彼の大きな手に、手を重ねて問いかける。
彼は職業冒険者で魔獣を狩る人だと教えられてから、怪我に敏感になっている自覚はある。だって、この第三層には聖力がまるでないから、回復系の魔法を使える人はいないはずだから。
「怪我はしていないから、魔獣の返り血が残ってたか。『我が身の汚れを落とせ、清浄』これで大丈夫だろう? 俺は、魔獣にやられたりしない。だから、そんな顔をしなくていい」
魔法で汚れを落とした彼が、わたしを安心させるように大きな腕で抱きしめてくれる。
最初は怖かったこの腕も、いまではまったく恐怖を感じない。親愛とか、そんな感じで……もしかしたらわたしはヒナ鳥なのかもしれないと思ったりもする。
そして、彼もわたしをヒナ鳥のように保護してくれている。彼が何歳なのか分からないけれど、わたしを子供のように思っているのだろう。
目がろくに見えず、足手まといでしかないわたしを保護してくれている彼には、本当に感謝しかない。
「ご飯も買ってきた、いま用意するから、手伝ってくれるか?」
「はいっ!」
本当はご飯を作って彼を待っていたいんだけれど、この視界ではそれは難しいから。
「『テーブルの汚れを落とせ、清浄』」
彼を真似して呪文を唱えて清浄の魔法をテーブルにかけてから、所定の場所からフォークを取り出して彼とわたしの席に置く。
本当は呪文がなくても魔法を使うことができるけれど、彼が呪文を使っていたのでそれを真似るようにしている。郷に入っては郷に従っておくのだ。
この清浄の魔法は使い勝手がよくて、部屋の掃除も言葉ひとつでできてしまう優れものだ。隅々まで掃除をするのが苦手なので、大変ありがたい魔法です。
「ありがとう、アキ」
「どういたしまして、レヴィ。今日のご飯はなんですか?」
「今日は、蒸し鶏のスープと豆のパンだ」
彼がスープをよそった皿を、それぞれの席に置き、カゴに入った平たい豆入りの平たいパンを二人の間に置く。
「蒸し鶏のスープ、好きです。お豆の入ったパンも好きです」
「アキは嫌いな食べ物なんてないだろ?」
笑って言う彼に、そういえばこっちの世界に来てから、嫌いな食べ物なんてないことに思い至る。
「レヴィの用意するご飯は、全部おいしいからです」
「きっと、俺とアキの食の好みが同じなんだな」
そうかもしれない、なんだか嬉しくなる。
隣り合って座り、彼の手がわたしの手に重なってフォークに食材を刺してくれる。
「これは、鳥のお肉ですか?」
「あたりだ。すこし大きいから、ひと口じゃ無理かな」
彼の注意を聞いて、二口を目安に食べる。
柔らかなお肉の食感がとてもおいしくて、すぐに二口目を頬張る。
食事の合間に、今日はどんな魔獣を倒したのかを教えてくれるのが、毎日の楽しみだ。いや、彼との会話、すべてが楽しみ。
「今日は鳥形の魔獣で、ビークェルという奴の討伐だった。鳥といっても、空は飛ばず、主に地上を走るのだが、足が速くてな」
ダチョウをイメージする。
「くちばしが鋭く細長くて、地中の虫を食べるらしい。虫だけじゃなく、小動物も食ってるのを見たこともある」
ダチョウではないな。鶴みたいな感じだろうか。
「このくらいの卵を産むんだが、これも愛好家が多い食材で。生憎と今回は、オスだったから、卵はなかったが」
やっぱりダチョウかな。
「羽は明るい赤茶色をしていて、敵に向かって矢のように飛ばして、攻撃もしてくるんだ」
ダチョウではないな。
こっちの世界の魔獣という生物はとてもユニークな生態をしているのが多くて、聞いていて飽きない面白さがある。
「ビークェルのランクは、どのくらいですか?」
魔獣は危険度によってランク分けされている。この第三層は、地下層のすぐ上にあたるので魔力が多く、強い魔獣ばかりだ。
弱い魔獣は第二層に多く、一番弱くてFランク、強くてもDランク程度らしい。
「Cランクだったかな?」
第三層にはDからAランクの魔獣が出現する。
噂でしかないらしいけれど、地下層にはAからSランクの魔獣ばかりで、他にも魔人と呼ばれる闇に生きる種族が住んでいる。
誰も地下層に行ったことがないから、眉唾ではあるとレヴィは言っていたけれど、それはウソじゃない。
魔人は日の光に弱いので、地下層から出ることはない。他の高位の魔獣も光に弱く、弱い魔獣ほど光に耐性があるので、日の光の強い場所でも生きることができる。
そういうふうに、この世界は成っているから。
「ビークェルは、Cランク」
彼から教わったことは、忘れないように何度も反復する。
本当はノートでもあればいいんだけど、そもそも目がはっきり見えないのでどうしようもないか。
「弱点は、足だ。足が細いこともあって、足を折ることができれば、討伐自体は難しくない」
「羽を飛ばしてくるのは、危険ではないのですか?」
「来ると分かっているなら、回避できるものだ。真っ直ぐ飛ばすだけで、追尾してくるようなことはないからな」
こともなげに言うが、追尾するタイプの羽攻撃なんて凶悪すぎる。
「追尾する攻撃の魔獣も、居るんですね」
「ああ、その場合はすこし面倒だ。羽をすべてたたき落とさなくてはならないから」
たたき落とすのか。薄々気づいていたけれど、レヴィは第三層なんて魔獣の強い地域で戦う人だから、凄く強いんだろうな。
「こんな話、つまらなくないか?」
時々そうして聞いてくる彼に、首を横に振る。
「レヴィがしてくれる話は、全部面白いです」
心からそう言うと、彼は「そうか」とすこし嬉しそうな声で言って、照れ隠しのようにわたしの頭を撫でてくれる。
視界がはっきりしないので、彼が何歳くらいなのか分からないけれど。落ち着いた声の感じと物腰からして、わたしよりかなり年上なのではないかなと思っている。
この家に一人で暮らしている。
家族はいない。
レヴィに名字はないらしいから、わたしも名前だけ名乗った。
「アキ」
彼が柔らかな口調で呼んでくれる、自分の名前が好きだ。
以前は男性の声で名を呼ばれるのが怖かったけれど、この世界で彼と暮らすようになってから、自分の名を呼ばれるのが怖くなくなった。
彼は『あの人達』とは違う。だから大丈夫だ、と何度も自分に言い聞かせて。
スープを飲み干した私の口の端についた汁に気づいた彼が、指の腹でグイッと拭っていく。
こぼすなんて子供みたいで恥ずかしくて、慌てて自分の指でも拭う。
「もうついてねぇよ」
笑みを含んだ声で言われて、余計に頬が熱くなる。
「ありがとう、レヴィ。でも、自分でできるから、ちゃんと口で教えてください」
「口で、ねぇ? じゃぁ、次は舐めて取ってやろうな」
「そうじゃないですっ」
彼の軽口に、慌てて憤慨するわたしに、彼は声を上げて笑う。
彼の笑い声は朗らかで気持ちいい、だから釣られてわたしも笑ってしまう。
戻らない視力に不安があって、気持ちが沈み込みそうになる時もあるけれど、彼がいてくれるから折れずにいられる。
物理的にも、精神的にも、彼はわたしのなくてはならない人になっていた。