二日目
翌日目覚めたのは、固いベッドの上だった。
ベッドが固すぎて体がバキバキで、目が覚めたものの相変わらずぼんやりした視界のまま天井を見上げるのが関の山だった。
視界がぼんやりしているせいか、思考までぼんやりしてしまう。
どのくらいぼんやりしていたのか、ふわりと香った胃をくすぐるいい匂いに頭を横に向けた。
ずっと同じ姿勢でいたせいか、後頭部がじんわりと痺れているな、なんて考えながら視線を動かして部屋の中に目をこらす。
視界がぼんやりして、やっぱりよく見えない。
でも人が居るのがわかる、きっとあの男だろう。凄くいい体格をしていて、髪が赤いことはわかる。
わたしの視線に気づいたのか、こっちを向いた。
「――、――――?」
静かに問うような声だ。なにか聞いているのだとは思うけれど、やっぱり言葉を理解することはできない。距離を詰めてこないので、ちょっと安心する。
「――――、――」
わたしに問いかけても、返事がないことにがっかりした雰囲気が伝わってくる。
せめて言葉が分かればいいのに。
完全にとは言いがたいけれど魔力はもう随分溜まったし、魔法の理屈は理解している。
だから、魔法でどうにかならないかしら。
願わくば自動翻訳の魔法でもあればいいけれど、それは無理みたいだ。だけど、魔力で意思を読み取るようにはできそうだわ。
頭で考えてることを読むのは難しいから、言葉として発された意思を理解できるようにするようにして。
これなら、相手に魔法を掛けるんじゃなくて、わたしに作用する魔法として使えるはず。
人に魔法を掛けると、大なり小なり察知できるらしいから、迂闊なことはしたくない。
ぼやける視界が煩わしいので目を閉じて、体内の魔力を魔法に変換する。
真理を知るわたしは、魔力に意思を通して変換することで魔法を行使することができる。
魔力が魔法に変換されたのを確かに感じ、ゆっくりと目を開いた。
「――、――――、――?」
「まだ、調子が悪そうだが、飯は食えるかな?」
彼の声に被せて、機械的な声が副音声のように聞こえてきた。
成功だ。
「――――。――、――――」
「眠そうだな。だが、少しは腹に入れた方がいいだろう」
優しい口調の理解不能な言葉と、無機質な副音声。これなら、この世界の言葉を覚えることができそうだ。
それに、わたしが分からないからといって、凶悪なことを言ってるわけでもないことに、ホッとした。
ホッとなんて生易しいものじゃない、本当は凄く、凄く安心した。
涙が、出ちゃうくらい。
「どうした? また悲しくなったのか」
そう言いつつも、わたしに近づかない彼は、きっとわたしが怯えることに配慮してくれているのだろう。
ああ、この人は、優しい人なんだな。
今までだって優しい人がいないわけじゃなかった、むしろ、肉親を筆頭としたクズみたいな男のほうが少なかったと思う。ただ、そのクズが、身近に多すぎたってだけで。
だから、優しいってわかっても、怖くて……。
「助けてくれて、ありがとうございます」
強ばる喉で、それだけを言葉にする。日本語だから、彼に伝わらないけれど、それでも、感謝を伝えたかったから声にしたんだけれど。
「やっぱり、なんて言ってるかわからないな。まいったな」
ぼんやりとしたシルエットの彼が、手で頭を掻いているのがわかる。
言語で伝えることができないなら、せめて態度で示すべきだよね。
なんとか寝返りを打って上体を起こし、ベッドの上に正座して、静かに頭を下げる。いわゆる土下座だ。
多分、この世界に土下座文化なんてないだろうけれど、心は伝わると思う。
「あー、もう、わかった、わかったから、それはやめてくれ。礼を言いたいんだよな、きっと」
困ったような彼の声に頭を上げ、その言葉に頷く。
「ん? あれ? 言葉、わかるのか?」
「こ……言葉」
副音声から当たりを付けて単語を拾って口にすると、わたしの声も翻訳されて聞こえる。
「そうだ、言葉だ。わかるわけじゃないのか」
「そうだ、言葉、だ?」
新しい言語が面白くて、小さな声で繰り返してみる。語尾を上げると疑問形になるのかな、イントネーションも重要なのかも。
「言葉? 言葉。ことーば」
区切ったり、間延びさせたりすると、言葉の雰囲気も違ってくる。
「練習をしてるのか?」
「練習? を? して? るの?」
区切って何がどの単語かを確かめる。
全部語尾上がりだったから、疑問ばかりになってしまった。
「練習を、してる」
はっきりと言い切れば、ちゃんと言葉になった。
「ははっ、そうか。えらいぞ、頑張れ」
「頑張れ、るの、する。頑張れする?」
思ったような言葉にならず、もにょもにょする。
「頑張る、って言いたいのか?」
彼の言葉に頷いて、「頑張る」と繰り返す。
「それじゃぁ、飯にしよう。って、わかるか?」
「飯に、する。わかる」
先程から感じている、食欲をそそる匂いに、お腹も同意してクゥと鳴った。
彼にも腹の音が聞こえたのか、すこしだけ笑った気配がして、恥ずかしくてお腹を押さえる。
「こっちに来れるか?」
彼の言葉に頷いてから、ベッドから床までの距離感がわからなくて恐る恐る足を下ろす。思ったよりも高かったから、慎重に下りてよかった。
そこから彼の立つ場所にめがけてゆっくりと歩く。
心許ない視界だからスタスタなんて歩けない、なんなら両手をふらふらと彷徨わせて、障害物を確認してしまう。
そんなわたしを、急かすことなく待っていてくれる彼の近くまでたどり着いた。ほんの十歩の距離が、とても遠く感じたし怖くもあった。
だから、彼のところに着いた時、思わず彼に触れてしまった。
服だと思しき所を掴んで、顔を上げる。結構上を向かなくては顔を見ることができない、身長差は頭一つ分以上ある、まるでわたしが子供になったようだ。
彼はとても背が高くて、がっしりしている。
「よく、頑張ったな」
大きな手で、そっと頭を撫でられた。
……もしかすると、わたしは子供だと思われてるのかな? だって、この身長差だし、彼の言動が子供に対するものっていうなら、とっても理解できる。
だって、歩いただけで褒めてくれるもの。
なんでもできて当たり前である大人だと思ってないから、きっと褒めてくれるんだ。
でも、それがとても嬉しい。
褒められるのは慣れていないけど、彼の声は優しいし、大きな手に頭を撫でられてるのも、照れるけれど嬉しい。
それなら……ずるいかもしれないけれど、大人だということは内緒にしようかな。
いつまで保護してもらえるのか分からないけれど、別れるその時まで。
「じゃぁ、飯にしよう。飯、ああ、いや、ご飯だ」
「ご飯?」
「そう、ご飯。ご飯を、食べよう」
子供用になのか、言い直した彼に倣って、ご飯、と言えば、満足そうにもう一度頭を撫でられた。
子供には綺麗な言葉を覚えて貰いたい、っていうのはこの世界の大人も同じなのかも知れない。
彼が引いてくれた椅子も、すこし高めだったので手探りで座面を確認してから、片手をついたままひょいっとお尻を乗せる。
「上手なもんだな」
感心するような彼の声に、はにかんでしまう。
お、大人だから、このくらいできて当然だし。
「椅子をすこし前に動かすぞ?」
彼の言葉に頷けば、彼はわたしが椅子にのったままで、軽々とテーブルに近づけてくれた。
凄い力持ち。
ありがとう、って言いたいのに、まだその単語がわからない。
でも、気持ちは伝えたくて、彼の方を向いて日本語で「ありがとう」って言葉にした。
「ん? もしかして、ありがとう、か?」
そう! それ!
「ありがとう! 椅子、動かす、ありがとう!」
嬉しくて何度も言えば、また頭を撫でられた。
「どういたしまして。さぁ、め……ご飯にしよう」
そう言って、わたしの前に食事の乗ってると思しき皿を引き寄せてくれる。横に、多分、カトラリーも一本置いてある。
わたしの準備をしてから、彼は向かい側の席についた。
テーブルは四人がけくらいあって、結構広い。
まず、彼がどうやって食べるのか確認してから、食べ始めよう。郷に入っては郷に従うものだし。
って言っても、視界が不明瞭すぎて……っ!
近視ってわけじゃないので、近くも遠くも、等しくぼやけていてつらい。
ともあれ、とくに「いただきます」もなく、彼が食べ始めたので、わたしもいただこう。
手探りで掴んだカトラリーを、一度全体を撫でて形状を確認する。
やっぱりフォークのようで、使い慣れた物で安心した。
お皿と思しき場所に手をやり、皿の縁を確認する。ちょっと深さがあるからスープ皿みたいだ、陶器っぽいので割らないように気をつけねば。
そっとそこにフォークを入れる。なにかを刺した手応えはないので、皿の中にフォークを彷徨わせると何かに当たったので、それをすくいあげ……ようとしたのに、うまくフォークに乗らない。
それなら刺してみようと、目測を付けてフォークの先を突き刺した。
なんとか端っこに刺さったそれを、落ちないように注意しながら口を近づけてすこしだけ囓る。
甘辛いタレのついた、大根のような食感。
これは、美味しいかも。
もう一口食べようと、さっきよりも大きく口を開いてフォークを動かしたところで、大根が皿に落ちてしまった。
「あっ!」
タレが跳ねて、皿を抑えていた手に掛かる。手の甲のタレを舐め取り、再挑戦すべくフォークを構えた。
「手伝おうか?」
静かに声を掛けられたので、顔を上げる。
お皿と彼を何度か見比べ、強烈に主張をはじめた空腹感に降参するしかない。
「ご飯、手伝う、して」
「わかった」
わたしの拙い言葉を承知してくれた彼は、席を立ってわたしの横に椅子を移動した。
そして、フォークを掴んでいるわたしの手の上から手を重ね、フォークに食物を刺すのを手伝ってくれる。
時にはフォークの横で半分に切ってちいさくしたり、すくい上げたり。
その度に、ちゃんと声を掛けてくれる。
「これは、メルの実だ、滑りやすいから気をつけるんだぞ。これは、コンナの根だ、柔らかいから食べやすいか? ああ、美味い、いや、おいしいか?」
まるで子供になった気分で、照れるけれど。こうして教えてくれるから、どんどん知識が増えて嬉しい。
「メル、おいしい。コンナ、おいしい」
彼の補助を受けながら、与えられる物、すべてがおいしくて頬が落ちそうだ。
「そうか、よかった」
最後に、ナンのように平たいパンでソースをさらえるようにして、完食。
お腹いっぱいで、無茶苦茶幸せだ。
思わず「ごちそうさまでした」と日本語で感謝して、空になった皿に手を合わせてしまう。
「あー……それは、やらない方がいい」
歯切れの悪い彼の言葉に、首を傾げる。
「これ、駄目?」
手を合わせて見せると、ゆっくりと彼の頭が上下に動く。
「駄目は、やらない」
了解した意思を示して、表情を引き締めて彼に頷いてみせると、彼はそっと頭を撫でてくれた。